10分で読めるお話!
湯気が立ち上るカップラーメンの蓋をぼんやりと眺めていたら、わたしは「時間」という概念に興味が湧いてきた。
なぜなら、同じ三分でも、長く感じる三分と短く感じる三分があることに気づいてしまったからだ。
「これは、世紀の大発見だ!」
わたしは高らかに叫んだ。「世紀の大発見」というフレーズは、わたしのお気に入りのフレーズである。
「えー? はーちゃん、また何か見つけたのー?」
台所でお昼ご飯を作っているおかあさんが、カウンター越しにわたしを見た。
今日のお昼ご飯は、昨晩の餃子の残りで作る餃子鍋である。鶏ガラでだしを取って、もやしと白菜と水菜とニラと、あと中途半端に余っていた豚バラも入れて、グツグツグツグツ煮込むのだ。そこに餃子を加えて、ごま油を二回しぐらい垂らせば、我が家の絶品餃子鍋の完成である。おかあさんの手元には、具材の他にお塩とかお醤油とかお酒とかもあるから、たぶんそういうので適当に味を調えるのだろう。
「ん? なんだなんだ?」
カップラーメンが出来上がるのを待っているおとうさんが、そう訊いてきた。
「最近、事あるごとに言うのよ」
おかあさんは眉を顰めて、おとうさんにそう返した。おとうさんは毎日毎日仕事で、家でわたしと一緒に過ごす時間が少ないから、わたしの世紀の大発見を初めて耳にしたのだった。
「Eurekaだな」
おとうさんはそう言うと、眼鏡を外してダイニングテーブルの上にコトリと置いた。おとうさんはこれから仕事に行くので、おかあさんのお昼ご飯をわたしと一緒に待っている猶予がないのである。
「えうれ……なに?」
「エウレカ、だ。何かを発見した時にな、昔の偉い人がそう叫んだんだ」
「そうなんだ! エウレカ!!」
わたしがそう叫ぶと、おとうさんは、はっはっはっ、と笑ってカップラーメンの蓋を開けた。すると、エビやホタテの良い匂いが湯気に乗って、ぶわりと部屋中に広がった。
「世紀の大発見、お父さん気になるなぁ」
おとうさんはそう呟くと、割り箸をパキッと割って、カップラーメンをかき混ぜた。
シーフードの匂いに、台所から漂ってくるごま油の香りも相まって、わたしの鼻は幸せの最高潮に達した。
わたしは、蕩けて崩れ落ちそうになった体勢を直した。そして、とてつもなく食欲をそそる良い匂いに負けないように、餃子鍋の完成を待ちながら、わたしは世紀の大発見の説明を試みた。
「同じ三分でも、すぐにやって来る三分と、遅れてやって来る三分がある!」
わたしは身を乗り出して、おとうさんに言った。
「ほう、なるほど。それは面白い」
おとうさんは目を見開いて驚くと、ラーメンをズルズルと啜った。そして、ラーメンを口の中でモグモグしながら、
「どうしてそう思ったんだい?」
と訊いてきた。
「今、カップラーメンが出来上がるのを待ってた三分はすごく長かった。でも、セナちゃんたちと遊んでる時の三分はすぐに過ぎちゃう。同じ三分だけど、絶対に違う三分だよ!」
セナちゃんとは、わたしが通っている小学校のクラスメイトである。すごく仲良しで、休み時間中はいつも遊んでいるのだが、その遊びの時間はすぐに終わってしまう。カップラーメンを待つ時間よりも短く感じるのだ。これは大変不思議な現象である。
「あら、まあ」
おかあさんは口元に手を当てて、クスリと微笑んだ。
「それは大変不思議な現象だな」
おとうさんは、わたしが思ったことをそのまま口に出して言った。
「これは大変不思議な現象だよ」
今度はわたしも口に出して言った。
おとうさんはラーメンを、ふーふー、と冷ましながらわたしを見た。そして、
「少し食べるかい?」
とニヤリと笑った。
「え、いいの?」
とわたしが尋ねると、
「だめに決まってるでしょう。お鍋食べられなくなっちゃうよ?」
と、すかさず台所からおかあさんが口を尖らせた。
「えぇー」
「いいじゃないか。一口だけ」
「い・け・ま・せ・ん!」
「「はぁーい」」
おとうさんとわたしが同時にそう言うと、おかあさんはまたクスクスと笑った。
おとうさんはラーメンを啜って飲み込むと、
「場合によって、同じ三分でも、その長さが違うように感じる。とても興味深い謎だ。原因はなんだろうね?」
とわたしに訊いてきた。
「バアイって?」
「カップラーメンの完成を待ってる時の三分間と、セナちゃんと遊んでる時の三分間、ってことだ」
「ふむふむ、そういうことね」
わたしは考える。これはとても不思議な現象で、説明がとても難しい。うーん、うーん、と唸っていると、
「はーちゃんにとって、去年の一年間は長かった? それとも短かった?」
とおかあさんが訊いてきた。
「去年の一年間? 長かったに決まってるじゃん。だって、一年だよ? 三六五日もあったんだよ?」
「そう? お母さんはすごく短く感じたわよ? ほんとにあっという間だった」
「え、そうなの?」
「お父さんは、ハルが生まれてから今日までの七年、本当にあっという間に感じたぞ? まだハイハイしていたのが、つい昨日のことみたいさ」
「え、ええ!? それは嘘だよ!」
「本当さ!」
おかあさんとおとうさんはお互いに目を合わせると、はっはっはっ、と笑い合った。
なんだ、それは。一年間なんて半端なく長いのに、七年間があっという間だった、だなんて。ありえない。そんなのありえない!
この「時間」というものは、予想以上に複雑な概念だった。さらに深堀りする必要がありそうだ。もしかしたら、わたしはまだ問題の入り口に立ったばかりだったのかもしれない。
掘っても掘っても、どんどん謎は深まるばかりである。
「わたしと二人は、ほんとうに同じ長さの一年を生きているのかな」
色々と考え込んだ末に、わたしは一旦考えるのをやめて、二人にそう訊いてみた。考えているうちに、もしかしたら二人はこの謎の正体を知っているのかもしれない、と思えてきたからだ。すると、おとうさんは、
「いい着眼点だ。お母さんはどう思う?」
と言って、おかあさんに答えを促すように振り向いた。
「それを言うなら、はーちゃんとお父さんはカップラーメンが出来上がるまで、本当に同じ三分間を過ごしたのかな?」
おかあさんが答える。
「それを言うなら、ハルとお父さんとお母さんは今、本当に同じ時間を生きていると言えるのかな?」
おとうさんが答える。
おかあさんは笑いながら、
「それは生きてるでしょう。こうやって今、同じ場所に存在していて、同じテーマについて議論してるんだから」
と返したが、おとうさんは依然として真剣な眼差しで、
「存在、か。何をもって存在していると言えるのか、にもよるけれど、ハルはどう思う?」
とわたしに訊いてきた。
「お父さん、これ以上問題をややこしくしないで」
「いやいや、これは結論を出すのに必要なプロセスだよ」
わたしはそんな二人の反応を見て、なんとなく確信した。二人はこの謎の正体に気づいている、と。でも、そう決めつけるには、カクテイヨウソがまだ足りない。もしかしたら二人とも、ただ知っているふりをしているだけかもしれない。
けれど、二人は答えを知ってるのか、と直接訊いても教えてくれないだろう。すぐに答えを明らかにしてしまうのは、二人のビトク(?)に反するからだ。
だから、わたしは迂回しながらカクテイヨウソを探らなければならないのだ。
おとうさんがカップラーメンの麵と具を食べ切って、カップに口をつけてスープを飲み始めた。
「全部飲んじゃだめよ」
おかあさんが声を低くして言った。その声に、おとうさんは肩をぴくりと震わせて、
「ああ、分かってるよ」
と言ってヘラヘラと笑った。
何をもって存在していると言えるのか。
おとうさんはそう言ったが、わたしには、いまいちその意味がよく分からなかった。
生きていることと、存在していることは、同じではないのだろうか。
いや、カップラーメンや餃子鍋は、生きてはいないが存在はしている。ダイニングテーブルだって、家だって、学校だって、存在していると言える。つまり、存在していることと生きていることの間には、分け隔てられるべきカクテイヨウソがあるのだろう。
カップラーメンの麺が、おとうさんのお腹の中に入っていく。お腹の中に入ってしまった麺は、どこまで存在していると言えるのだろうか。消化された時点で、その存在が消えるのだろうか。それとも、お腹の中に入った時点で、もう麺は存在しないと言えてしまうのだろうか。
台所のコンロを見やると、餃子鍋の蓋が閉まっていた。わたしは、鍋の中に具材とスープが存在していることを知っている。それは、鍋の蓋が開いていた時に、中に具材とスープが詰まっていたのを見たからだ。でも、あの蓋が閉じた時点で初めて餃子鍋を目にした人にとって、鍋の中の具材とスープは存在していると言えるのだろうか。
わたしが生まれた時には、おとうさんの方のおじいちゃんはもう死んじゃっていた。だから、おじいちゃんは生きていない。でも、おじいちゃんの骨はお墓の中にあるはずだ。このバアイ、おじいちゃんは存在していると言えるのだろうか。
はたまた、眠っている時のわたしは存在していると言えるのだろうか。わたしは、眠っている時のわたしを知らないし、見たこともない。でも目が覚めたら、確かにわたしは生きている。このバアイは、どうなんだろう。生きていることを憶えていない時間のわたしは、存在していると言えるのだろうか。
「わたしも、今は三人ともみんな、同じ時間を生きてる、と思うよ」
わたしは言った。
「ほう、それはどうして?」
「答える前に、一個訊いてもいい?」
ここですぐ答えてはいけない。真っ先に答えたいという気持ちをグッと一歩踏み止まって、わたしはおとうさんに探りを入れてみることにする。
「ああ、いいぞ」
「今、おとうさんがカップラーメンを食べ始めてから、わたしが答えを出すまでに、十分ぐらいかかったけど、二人にとってこの十分間はどうだった?」
わたしが尋ねると、おかあさんとおとうさんはまたお互いに目を合わせてニマニマと笑った。
「あっという間だったぞ」
おとうさんが答える。
「ええ、あっという間だった」
おかあさんが答える。
――これだ。
「わたしもあっという間だった!」
わたしは二人の反応を見て、これがカクテイヨウソだ、と思った。
エクレア!!
わたしは心の中で叫んだ。なんとなくだけど、さっき声に出して叫んだ時、少しだけ恥ずかしかったから。
おかあさんが、完成した餃子鍋を両手で持ってダイニングテーブルへとやって来た。
「じゃあ、一番の謎に立ち返って、同じ三分でもその長さが違うように感じる原因はなんだと思う? 」
スーツに着替えたおとうさんが、リビングの隅に置いてある姿見の前でネクタイを締めながら訊いてきた。
「最後にラーメン入れちゃおっか」
おかあさんがウキウキしながら言った。
「ええ! ほんとに!? やったぁ!」
「あ、あれ? ハル?」
おとうさんが困ったようにわたしを見る。
「あらあら、はーちゃん、完全に餃子鍋モードね」
目の前でシーフードのカップラーメンを食べられ、同時に餃子鍋の素晴らしい香りを嗅がされて、それらの誘惑と格闘しながら、ずっと「時間」について考えてきた。が、餃子鍋がテーブルに運ばれてきた途端、わたしの思考回路はぷつりと切れてしまった。
わたしの頭は、完全に空腹帝国に支配されてしまった。これは緊急事態だ。至急奪還せねば!
「おとうさん、その謎に答えを出すにはエネルギーがいるんだ。ここは一旦、時間を置こうじゃないか。おとうさんはお仕事頑張ってね。帰ってきたら教えてあげるから! じゃ、行ってらっしゃい!」
わたしは、考えに考えた「時間」の問題そっちのけで、アツアツポコポコと踊る餃子鍋を覗き込んだ。
餃子鍋の中には、お話の外の世界が広がっていた。
わたしはそこにいる人たちに向けて、声を張り上げて叫ぶのである。
「こうしてわたしは、あなたから十分間という時を奪うことに成功したのである!!」
この時、ハルはまだ気づいていないのであった。お父さんは、お湯を入れたカップラーメンを二分で開けていたことに。
「帰りにエウレカ買ってきてねー!」
「ん? エウレカを買ってくる? どういうことだ?」
「え? エウレカだよ! 駅前の屋台で売ってるじゃん」
「駅前の屋台に……エウレカ……ん?」
「え?」
「あらあら」