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三影君は、わたしが見つけた喫茶店の店主をやっているらしい。
正直、意外だった。わたしの中では、喫茶店と三影君がどうしても結びつかなかった。でもそれは、彼がピアニストか音楽に関わる仕事をしているイメージを、わたしが勝手に抱いていただけ。高校を卒業してから、わたしと三影君の間に存在する空白の十年は、わたし達が過ごした時間より遥かに長い。三影君が音楽から離れた理由は気になったけど、大人のフリをして疑問の言葉を飲み込んだ。大人のわたしは、思ったことを吐き出せないことには慣れている。そうすることで、人間関係や社会がうまく回ることもあると学んだから。
「この店に気づいたのって最近?」
「うん。実は、今日初めて気づいた。毎日通ってる道なのに」
朝は電車の時間に追われ、夜は身体も心も疲れ果てて、景色を見る余裕もなかった。潤いのない日々を改めて自覚して、気持ちが落ち込んだ。
「今度の休みっていつ?」
「えっ、えっと……月曜日だったかな」
「今は店内が込み合ってるし立ち話もなんだから、何も予定なかったらその日の昼間に来てよ。この店、昼間はたまに気まぐれで開けてるくらいで、基本的には決まった日の夜しか営業してないからさ」
三影君の急なお誘いに、わたしは何の疑いもなく二つ返事でうなずいた。大人になってから、どんどん異性に対しての警戒心が強くなってしまっていたのに、自分でも信じられない行動だと思う。三影君には不思議と警戒を感じなかったため、思考より本能で動いたような、久しぶりの感覚を覚えた。
その約束のおかげか、仕事中いつもならイライラしていた他人の行動もあまり気にならなかったし、休みの日の前日にコンビニに意識が向くことはなかった。
仕事に行く日よりも丁寧に化粧をして、いつも適当だった服装にも気を使い慎重に選ぶ。気合いを入れているように見えない程度に、自分なりに垢抜けた雰囲気を目指してコーディネート。シフォンスカートを鏡の前でふわふわ揺らすと、動きに合わせて胸も躍る。久しぶりに少しだけ自分に自信が持てた気がした。
「そういえば急に誘っちゃったけど大丈夫だった? 彼氏とか旦那さんとか……今さらだけど」
「両方いないから全然平気。三影君こそ大丈夫? わたし、修羅場とか嫌だよ?」
「ははっ、それは大丈夫。俺もそういう相手いないから。あ、珈琲飲める?」
「うん、ありがとう!」
喫茶店に着くまでは少し緊張していたけど、着いてしまえば自然とどちらからともなく会話が始まる。場所は違うけど、高校時代に戻ったようで落ち着く。
今日初めて入る店内は、想像していたよりずっと広さがあった。テーブルや椅子は木の家具で統一されていて暖かみがある。
わたしを店内へ招き入れた三影君は、ふと視線を下に落とした。
「そのスカート、なんとなく一色っぽくていいね。この間も思ったけど、制服姿の一色のイメージが強かったから私服って新鮮な気がする」
「たしかに私も、三影君の私服って初めて見たかも。その眼鏡はお店の雰囲気と合わせてるの?」
そう尋ねると、三影君は少し目を見開き、
「そんなこと聞かれたの、一色が初めてだよ。さすが見てるところが違うよね。眼鏡は意識して合わせたわけじゃないけど、自然と好みが出たのかも。この店の家具も全部自分で選んでるし」
外した眼鏡を見て微笑む。再会してから三影君が眼鏡を外したのは二回目だ。
ああ、この顔もよく見たことがある。
三影君が掛けているウッドフレームの眼鏡は、彼の顔によく馴染んでいた。でも、三影君が眼鏡を外すたび、わたしに何かを訴えかけるように、あの頃の記憶がやけに鮮明に蘇ってくる。一瞬ではあるが、もはや脳内で再生されているのか、目の前に再現されているのか分からないくらいにはっきりと。
「……そう言えば、三影君って放課後はあんまり眼鏡かけてなかったよね?」
「ああ。ピアノを弾くときは、なんとなく眼鏡かけないほうが弾きやすくて。今でもピアノ弾くときは外してる」
「そっか!」
彼の口から“ピアノ”という言葉が出て来て、さらに今でも弾いているということが分かり、心が沸き立つ。こんなに分かりやすく心が動いたのは久しぶりで、胸の辺りで滞っていた血が流れて温かさを取り戻したような感覚を覚えた。だけど次の瞬間、
「一色は、今でも絵は描いたりしてるの?」
三影君からの質問によって認めたくない現実を思い出し、言葉が詰まった。
「……あー、本当にたまに描くくらいかな……仕事が忙しくって、なかなか集中できなくて……」
言い訳のような言葉を吐く自分に嫌気が差す。
「なんとなく、それでも完全に辞めちゃったわけじゃないって分かって、なんかちょっとホッとした」
流れるように綺麗な動きで珈琲をカップに注ぎ、カップの音をほとんど立てず丁寧に珈琲を置いてくれた。続けてお茶菓子まで用意してくれた三影君に、
「ありがとう」
と、お礼の言葉を口には出したけど、三影君の顔は見れなかった。
わたしも三影君が今もピアノを弾いていると知ったとき、きっと彼と同じような感情を抱いた。ただ一つ違うのは、ウソをついたわけじゃないのにわたしの感情には罪悪感が混ざっていること。三影君とわたしの“続けている”には、だいぶ誤差がある。
自分の珈琲を手に持ち、わたしの向かい側に座った三影君は、
「一色はさ……今、楽しい?」
そう言いながら珈琲にミルクを泳がせる。
わたしは、すぐに返事が出来なかった。楽しいかどうかと聞かれれば、楽しくはない。
「えっと……普通? かな」
何とも無難な答えしか出てこない。
「可もなく不可もなくって感じ?」
「まぁ、そんな感じだね」
これはウソ、本当は不可だらけ。
今度は本当にウソをついたけど、誰かに泣き言を言って変わるものでもないと分かっている。ましてや、数年ぶりに再会した同級生に聞かせるような話ではないのだ。
「俺も、高校の時はそうだったなぁ」
「え!? 三影君が? 可もなく不可もなくってこと?」
「意外だった?」
「うん、まぁ……正直言えば、すごく意外」
だって三影君は、あの頃からわたしにとっては、ずっと眩しい人。周りの目を気にせず、自分の好きなことを貫いて、生きているのだと思っていた。
「今思えば小さな世界にいたあの頃が、一番上手く隠せてたからね。当時は自分でも気づいてなかったから、隠してるって感覚はなかったけど」
「わたし、高校の時なんて特に何も考えずに生きてたなぁ。でも、今より自分に素直でいられたし、楽しかった気がする」
「うん。俺も大人になってから自分を見失ってた時期があったから、その気持ちはすごい分かる」
早く大人になりたかった頃のわたしが今のわたしを見たら、きっと大人になんてなりたくないと思うだろう。大人の世界は、三影君のような人すら飲み込んでしまう世界なのだ。わたしなんて一溜まりもないに決まっている。
そんな気持ちを珈琲で流し込んでいると、
「あのさ……今から、たぶん驚く話してもいい?」
先ほどより真剣みのある声に思わず視線を上げると、神妙な面持ちでわたしを見ている三影君と目が合う。
「えっ、うん? なに?」
「どこから話すべきか迷ったんだけど、まず結論から言うとさ…………それ」
三影君は床を指さし、視線を落とした。
その動きにつられて視線を落として床を見てみるが、わたしは三影君の言う“それ”がなかなか見つけられない。
「…………ごめん。分からないんだけど……何か落ちてるの?」
正直にそう伝えると、三影君はふと立ち上がり、太陽の光が燦燦と差し込む窓に向かって歩きだす。窓枠に手をかけ、窓越しに太陽を見るように上を向いたあと、振り向いて身体ごとこちらに向ける。このときなぜか、目を伏せた三影君も外を通り過ぎていく自転車に乗ったお爺さんも鳥も、空間ごとすべてスローモーションのように見えた。
「……影だよ」
今、三影君はなんて言った?
「か、げ?」
視界がスローモーションのように見えていたせいか、言葉の意味を理解するのに少し時間がかかった。一拍置いて現実の流れに戻ったわたしは、意識を影に集中させた。
コーヒーカップの影、シュガーポットの影、ミルクピッチャーの影、お茶菓子の影、花瓶と花の影、家具の影、三影君の影――――――――
「……ウソッ……なんで……!?」
腕を動かしてみても自分のカバンを持ち上げてみても立ち上がってみても、わたしの影だけがどこにも見当たらない。
「……これっ、現実?」
ウソ、絶対ウソだ! こんなの夢に決まっているじゃないか。
現実味がない現実に真正面から向かい合えず、茫然と立ち尽くしているわたしの肩に、三影君の手が優しく触れた。
「大丈夫だから、落ち着いて。こうなった理由、ちゃんと説明するから」
安心感を与えるようなその声のおかげで、わたしは少し冷静さを取り戻し、ストンと腰を下ろす。
影がないことに気づき、いきなり自分だけが世界から切り離されたような衝撃を受けたが、肩に触れた三影君の手がそれを繋ぎ止めてくれた気がした。