1話 死ねばみな神さま
脳の仕組みについて、どのような組織がどういった役割りを果たすのか、脳科学は研究していてるのだそうな。そこでは内科的研究と外科的研究があるという。
頭に電極をつけ微弱な電流を流してみたり血流をCTでスキャンするのは内科的で、メスをつかい分けたり剥がしたり切ったりするのが外科的研究ってことになる。外科的研究では脳をいくつかの部分に分けだ標本にする。保存する方法はホルマリン漬けが一般的だった。ただ、ホルマリンでは細胞壁の強度が維持できない。水分を多く含み崩れやすい脳標本では直接観察できないことが課題だった。
ところが、赤ちゃんのオムツが高機能になってポリマー素材の開発が進んだことで、この保存方法が一変したのだという。水を含むと半個体化する高機能ポリマーをつかい、ひとつひとつの神経細胞まで細かく保存して研究できるようになったからだ。
ここに、内科的研究者たちが興味をもった。身体のどこの筋肉が脳から動かされているのか、ある波長のレーザー光をマウスの直接脳組織へあてる『オプトジェネティックス』研究をしていた彼らは、さらに細かな脳神経のつながりを知りたがっていたからだ。
高機能ポリマーにより二倍へとふくらんだ脳標本は、その特性上、神経細胞ひとつひとつに沿って電気を流すことができた。これにオプトジェネティクスで得られた運動の知見とを慎重に比較してゆく。すると、脳の海馬と呼ばれる部分に『時間』を記憶している構造があることを突きとめた。これは昔から理論上では知られていたことだったが、脳の詳細な部位を特定したのは初めてだ。
さらに驚いたことに、その部位は層状になっていたのだが縦方向に立体的なつながりがあって、この近道をつかうことで『空間』を記憶していることまで判ってきた。脳のなかでひとつの機能が担っていた時間認識と空間認識とは、働きでいうと『表と裏の顔』といっても過言ではなかった。今のところマウスでの実験だが、これを人間の脳でもできるようになると『記憶の根源』へとせまることにつながるだろう。
ここまでは、数年前『日経サイエンス』に載った記事についての成果と背景とを要約したものだ。ご記憶の方があるかも知れない。ここから出来そうでまだできなさそうな未来の科学の話だ。わたしは以前このネタをSF短編でつかったことがあって、実をいうと出来はかなり芳しくなかった。ファンタジーのネタのひとつだと思って読み進めて欲しい。
高機能ポリマー漬けの脳標本では微弱な電流を流すことができた。これにより脳の機能はほぼ再現可能になってきた。しかし、人体のなかはとても姦しいのだという。イブプロフェンといった情報提供物質を産生することで臓器同士が「互いに会話している」からだという。こうしたセンサーにあたる五感や内臓などから入力がなければ、残念なことに、脳が果たしている役割り(システム)までは再現できなかった。
一方これはとても興味深いことに、生きた内臓(胃や腸)とポリマー脳標本とがつなげてあれば、断片的な「食に関するイメージ」だけは再現されるということでもある。もしかすると、この断片的なイメージを五感(目、耳、鼻)へフィードバックすることができれば、いつの日か連続した記憶が再現できるだろう。
もちろん、まだ『記憶の根源』がわかっていない。永遠にわからないままかも知れない。となると、意識のような確かなものではなく、むしろ、その記憶は「夢のような姿形のあやふやなつながり」しかもたないものだ。ただ、論理的処理が得意なコンピュータAIの助けがあれば、姿形のあやふやなつながりを再構築して「『夢と意識』とのはざまぐらいの何か」を再現できる可能性までは否定できない。
つまり、ポリマー脳に超高速のマイクロチップと生きた内臓を与えることができたなら、死んだと思われた人(それはまるでアンドロイドのような姿をしている機械)に、歴史からも忘れ去られた経験ですら聞き出せることになる。
はたして、それは肉体をなくし精神だけが蘇った人間なのか、それとも夢をみているだけの機械なのか、わたしにはわからない。ひとつだけ言えることは、そうなると両親やらじっちゃんばっちゃんやら、何かとクチさがない姦しい人たちが思い浮かぶばかりなので、妙に「死ねはみな神さま」といっていた過去がなぜか懐かしく思うだろうことだけは確かだ。