3.『世の中、悪い人ばかりでは無いと思うわ』
家に帰ると、父が酒を瓶のまま飲んでいた。襖には染みが付き、畳の上は散らかり、ちゃぶ台は出しっぱなしになっている。
父は酒飲みで、朝から夜まで新聞を片手に寝そべる毎日。それ程広く無い土間で料理を作ったり、洗濯板で洗濯物を洗うのは私の仕事だった。
「お父さん、今日はご飯何にする?」
「………」
「お父さん」
「え? あぁ、何でもいい」
そう言うと父は再び横になり、いびきをかき始めた。浴衣をだらしなく着、帯も締めずに居る。仕事をする様子も無く、毎日こんな感じだ。
私は小さな土間へ行くと、残り少なくなった調味料を出来るだけ少なく使って料理を作る。収入が無いため、日に日に料理が素朴になって行くのだ。
今日は野の草を炒めたものと、すいとん。不況の為に食べ物が不足し、とてもでは無いが買えないのだ。そもそもの話、食料が極端に不足している。
「今日もすいとん……。配給もまだ来ないし、どうしよう……」
父はまだ寝ている様で、それが私の心を濁らせていくばかりだ。父がたった一人の家族と信じようとしていても限界が近い。
――だが、父を恨む事など出来はしないのだ。
それは所詮は私の戯言で、甘えに過ぎないのだから。
私は父が優しかった事を知っている。小さかった頃の記憶であるから曖昧にしても、暖かかった事を知っている。その父が母を愛していた事も、私を可愛がっていてくれた事も知っている。
ならば、親孝行すべきでは無いのか。私利私欲を捨て、父の為に動く事が正しいのでは無いだろうか。
父は何も、悪人では無いのだ。それを知っていて尚、しっかりしてくださいと言うのか。私は父に母を悼んで欲しい、愛していて欲しいと思っているのに。
それなのに、しっかりする事を強要する。それこそ、我儘という奴では無いだろうか。矛盾している。
父は私の為に、母の為にこんな風になって居てくれる。だから私は最大の敬意を示そう。父は私の代わりに嘆いてくれるのだから。そのおかげで私は、平常心で居られるのだから。
「お父さん、今夜は味噌汁と隣の小母様が下さった鯵をお刺身で頂きましょう」
土間から居間に上がり、ちゃぶ台の上に食事の用意を済ませる。今夜は作った味噌の美味しさから味噌汁と、お裾分けで貰った鯵を少し、作っていた醤油で食べる。
昔より大分簡素になりつつある食事だが、空腹には耐えられない。億劫そうに起き上がる父と共に食事。
父は相変わらずの無表情。私は食べ終わると、風呂場へと足を運んだ。
五右衛門風呂に浸かりながら、私はゆっくり息を吐く。段々と暖かくなって来てはいるが、夜はまだ冷え込む。風呂を沸かす為に外へ出て薪に火をつけるだけですら身震いしてしまう。
水で濡らした布で体を洗い、風呂に浸かっている今は暖かいが、一度風呂から出れば凍えてしまう。白い息を吐きながら、私はあの不思議な人を想起していた。
「一体、あの人は何者なの?」
名前を尋ねて来たり、用も無いのに呼び付けたり。考えている事が分からない。
「しかも、あの命令口調!何処ぞの御子息の様な立ち振る舞いだわ!」
本当に金持ちの家だったらどうしよう、と思ったが、向こうから仕掛けて来たのよ、と誰にかは分からず言い訳した。
(身なりも可笑しかったわ)
男性にしては長髪。坊主が多い時代なのに。おまけに、髪が長いのに結っていないのだ。私でも、いつも乱雑ではあるが結っているし、簪の一つくらいは差している。
国民服と長髪の不相応さに逆に面白くなってしまう。
「また明日行ったら、居るのかしら?」
何処からとも無くそんな考えが浮かび、
(え!? 何で私、彼の事考えてるのっ!)
と自分の自我を守り抜いたのだった。
「お父さん、お風呂が………」
風呂から上がると父は既に寝ていた様で、寝室へ入っていた。新聞は出しっぱなし。食後の片付けすらしていない。仕方が無いので洗い物を軽く済ませ、私も自分の寝室に入った。
布団を敷き、櫛で少し湿った髪を梳く。母譲りの白髪を軽く撫で、後は軽く引っ張った。
(普段から私に迷惑かけてるからお返しよっ)
暫くして、黒い布を被せてある電気を消して布団に入る。畳の匂いが鼻を掠める頃、私は眠りについた。
私の起床時間は四時半頃だ。
毎朝指定の井戸に水を組みに行き、小さな畑から野菜を取って家に帰る。朝食を作り、父の昼食と私の弁当を詰めて朝食になる。
父は大抵朝は少食で、昼に沢山食べるのでいつも昼食の方を多めに作る。今朝は味噌汁と漬物、後は例の隣の小母様から少しばかり貰った白米を贅沢に半人分を茶碗に装った。
「白米なんて高価な物、下さって良かったわ。お米の配給もまだ来ないし……」
何と懐の深い小母様だろうか。本当に感謝してもし足りない。我が家の食事は小母様に掛かっていると言っても過言では無いのだ。
「お父さん、ご飯にするわよ」
土間から上がり、朝食を並べて畳に腰を下ろす。父もゆっくりと立ち上がり、箸を持って朝食に手をつけた。
「帰って来たら、今朝取って来た畑の野菜を漬けるわね」
父は興味無さそうに食べ続ける。
食べ終わると私は洗い物をして弁当を入れ、くたびれた下駄を履いて着物の裾を直し、頭巾をかぶって玄関から外へ出る。
學校へ向かう途中で、先程の小母様に出会った。
三、四十位の小母様は私に手を振り、優しげに微笑んでくれる。
「おはよう、ゆりちゃん」
「おはようございます。昨日はありがとうございました」
「い〜え〜、いいのよ〜」
「美味しく頂きました」
「それは良かったわ」
小母様は母が日本にいた頃に互いに親しかった様で、私の見た目にも何も言わないでくれる唯一の人だ。……否、唯一では無いかもしれない。彼もそうだったのだから。
「良楽さんは元気?」
「父ですか? はい。元気です」
「そう。それは良かったわ。今から學校?」
「はい」
「頑張って来てね」
「ありがとうございます」
私が去ろうと背を向けると、小母様は軽く溜息を吐く。私が不思議そうにすれば、憐れみの光を宿した。
「父親のくせに良楽さんは役立たずで、お母さんも居なくて……。世の中、悪い人ばかりだねぇ」
「小母様……」
小母様の言う事は正論だ。実際、私は他人からすれば母が居ず、父は仕事をせず、私は人から避けられる寂しい子供。認識は間違いでは無い。事実、そうなのだろう。
だが、私の不幸は私が決める。私の幸せも私が決める。何方も誰かに指図されて定義される物では無い。
「小母様」
「なぁに?」
「世の中、悪い人ばかりでは無いと思うわ」
「!!」
絞り出した様な声に、小母様は驚愕する。
私は心底スッキリとして、笑顔を返した。
「私の髪、好きだって言ってくれる人が居ますもの」