1.『私に声を掛けるなんて、物好きな人ですわ』
若葉が揺れる季節になった、一九四二年の春。
私は學校帰りに空き地へと寄り道していた。同級生で親友の川町祥子と棚日千代は弟妹の面倒を見る為、早々に帰宅済み。残された私は散歩がてら、その辺をふらっと歩いていたのだ。
どうせ、家に帰っても飲んだくれの父しか居ない。
「ぐっ……! あの駄目な父をどう叱ろうかっ」
きっと真っ昼間から酒を飲み、ぐうたら働きもせずに寝ているのだろう。
相も変わらずと言った方が正しい。
私が三つの時にアメリカに渡り、以来、帰ってきていないらしい。
父はショックを受け、廃業者となってしまった。敢えて言えば、母の貯金で生活している居候という事になる。
「帰るのが凄く嫌だわ。何処かで暇を潰せないものかしら」
周りを見渡すも、直ぐに肩を落とす。
考えてみれば、太平洋戦争の真っ最中ではないか。贅沢は勿論禁止されている。娯楽施設がある訳無い。
擦り切れた鞄を持ち直し、着物の裾を直す。髪と目を隠す頭巾を深く被った。もう何年も着続けている着物は、褪せて中々にボロボロになっている。
「お父さんのせいだわ! 私、今年で十四なのにお洒落の一つも出来ないんだものっ! ふん!」
拗ねた様にそう洩らし、空き地が見える位置へと移動する。草が風に揺れ、大きな木が聳え立つこの地はとても広く、公園並みの大きさであった。木で作られた簡単なベンチもあり、大きな木が木洩れ日を作って中々に幻想的。私が和める唯一の場所でもある。
しかし今日は、先客が居た様だ。
この時代には珍しい肩までの黒髪、澄んだ黒瞠。ベンチに座り、脚を組んで本を読んでいた。
時折髪から顔が覗き、その様子を窺う。
(何あの人! 凄い美少年!!)
私と彼の二人しか居ない事もあり、まじまじと見詰めてしまう。何と素敵な貴公子だろうか、と昔本で読んだ内容を繰り返してしまいそうだ。
それに気付いてしまったのか、彼は此方を見る。
慌てて目を逸らし何事も無く終えた筈だが、その少年は徐に話しかけて来た。
「おい、そこのお前」
お前とは何だろうか。
もう少し言い方は無いの?と思ってしまう。そのせいか、多少毒舌気味に答えた。
「私に声を掛けるなんて、物好きな人ですわ」
「それは悪かったな。お前、見ない顔だな。何処の學校に通っている?」
「貴方に一々言う義理は無い筈ですわ。私、婚約者が待っていますので行きますわね」
「……嘘はよくない」
「何故バレるんですの!?」
嫌味たっぷりに嘘の『婚約者』とまで言ったのに、あっさりと返される。彼の挑発的な笑みを見せられ、少しだけ顔を歪めた。
「……東京椎垣女學校ですわ」
「礼儀は弁えている様だな」
「それはどうも」
恭しく頭を下げ、彼の座るベンチへと座る。
遠慮する様子も無く腰掛けた私に、彼は面白そうな顔をした。
「お前、名前は?」
「名前を名乗る時は自分から、というのが日本男子ではあるのではありませんの?」
「ふっ、そうか。まあいいだろう。――俺は時雨川 侑だ。これでいいだろう?」
「よろしいですわ。――私は陽炎ゆりです。どうぞよろしく」
「……いい名前だな」
冷笑と言った方が正しい様な笑みを返され、私は明らかに不機嫌になる。
彼――時雨川さんはまた微笑を向けた。
その途端、強い風が吹いて頭巾を飛ばす。私の髪と目が露わになり、赤面して駆け出そうとした。だが、時雨川さんが引き留め、思わず後ろを向いてしまう。
「……っ、では私、帰りますので」
「待て。何故そんなに急ぐ?」
「――っ」
「ゆり?」
「本当、私に声を掛けるなんて、物好きな人ですわ」
「?」
「白髪に蒼い瞳。普通の日本人ならば、私を見て『敵国の人間だ』、と騒ぎますわ」
私の容姿は白髪に蒼目。
母がアメリカ人で父は日本人のハーフ。
この太平洋戦争の最中、私は日本人にとって敵国の血が混ざり合った混血であり敵。
「………」
「私、帰りますね」
「おい」
「時雨川さん、私は――」
「侑でいい」
「では侑、私と関わるのは止めておいた方が懸命です」
そう言って、去ろうとする。侑はそれを止めようとはしなかった。しかし去り際、一言彼が発した言葉に私の人生が救われた様な気がしたのも事実。
「ゆり、お前の髪も瞳も綺麗だ」
「……っ!」
「事実だ」
「お世辞です」
「お世辞じゃない」
「じゃあ嘘ですわ」
「嘘でもない」
呆れた様に言う彼に、私は驚愕を隠せない。今まで、こんな事を言われた事が無かった。父は私を家の雑用をこなす召使いだと思っているし、外を歩けば敵国の娘だと嘲られて憎まれる。それが普通だ。
普通の、事なのだ。
「ゆり、また明日、ここに来い」
「命令口調は褒められたものではありませんね」
「……来い」
「せめて、来てください、と言ってください。そうでないと行きません」
「……」
「行きませんよ?」
「っ、来て……くだ、さい」
何をそこまで私に来て欲しいのか謎だ。しかも、まだ出会って数分。固執する意味が分からない。
「分かりました。明日も夕暮れ、此処に来ます」
「分かればいい」
そう言って笑った彼の顔は暖かくて、恥ずかしくて頬が赤くなったのを感じた。
私は急いで頭巾を拾い上げて被り直し、赤い顔のまま家路に着いたのだった。