海を走る馬の背に
昨夜の雨が窓硝子に茶色の点々を残していた。ぞうきんを押し当て、一気に引く。
「いいって、わざわざ昼に戻ってこなくても。今? 掃除してるよ。いや違う、昨日の雨で、窓が汚れていたからさ」
俺はスマホから流れてくる声に答えながら、隙間に挟まった汚れを取った。
「こっちで食べたいなら俺何か買ってくるけど。いいの? うん……」
装飾が施されている窓硝子にきらきらと初夏の陽光が宿る。それは、輝く波打ち際に似ていた。
何かを思い出しそうになって、俺は静かに目を閉じた。光り輝く波打ち際を、馬が走って行く。
呼び鈴の音で、思考は引き戻された。慌てて電話を切り、手にしていたぞうきんを投げる。
「はーい」
『緑川さんですか』
インターホンから流れてくる声は、宅配の兄ちゃんではないとすぐに分かるほど固かった。
「どちら様ですか?」
『……伊郷と申します』
カメラに写る、俺と同じ齢頃らしき男は、隠すように顔を背けていた。ネクタイこそしていなかったが、肩幅にぴたりとあったスーツを着こなしている。陽が頭の上に昇る時間に、背広など脱げばいいものを。こちらまで暑くなりそうだった。
俺はマンションのロックを外し、緑川に会いに来たこの男の対応を頭の中で考えた。短パンにTシャツ姿の格好を改めジーンズに履き替えたところで、玄関の扉のチャイムが鳴った。
「えーと、すみません。実は緑川拓実はですね……」
扉を開けながら説明しようとした俺の声に、男は声を被せてきた。
「知っています。緑川さんにこれを、返しにきただけです」
男は手にしていた茶封筒を俺の胸元に差し出した。
「これは?」
「借りたものです」
「いや、借りたものってアンタ……」
茶封筒にこんなに分厚く入れるものって何だ。紙だったら印刷前のデータで渡すだろう。案の定、紙は紙でも諭吉だった。
「これ……いくら」
「三百万です」
「三百万っ!?」
思わず男の顔を凝視したが、男は俺の視線から目を逸らした。
「いや、こんな大金ハイ分かりましたってただ預かるわけにいかないでしょ」
「でも、ここに住んでいると聞いて……他に渡せる人は知らないし」
「そんなこと言われても、俺も勝手に預かるなって怒られちまうよ」
名前と住所を控えて、一応領収書を書いておけばよいのだろうか。領収書の書き方は? スマホで検索しようとした俺は、俺の手元をじっと見つめたままの男を見て、溜め息をついた。
「あの……とりあえず、ちょっと上がれば。上着脱いで」
作ったばかりの麦茶はまだ十分に冷えていなかった。しかしウチにはコーヒーがない。そう伝えると、伊郷と名乗った男は面白そうに微笑んだ。
「あんなにコーヒー党だったのに、飲まなくなったんだ」
「ああ、そう、みたいだな。入院中から刺激物を取らないようにしていたからかもしれない。今付き合っている男が、健康オタクだから余計に」
伊郷の視線が初めて俺にまともに向けられる。俺はその視線を受けとめて、訊いた。
「付き合ってたんだろ? 拓実と」
伊郷の目に逡巡が浮かぶ。
「……昔……」
「金は、その時に借りた金?」
「そうです」
別に、またかしこまった敬語に戻らなくても。そう笑うと、伊郷が安堵したように肩の力を抜くのが分かった。
「金を借りた経緯を、良かったら教えてもらってもいいかな」
分厚い茶封筒を見ながら俺が言うと、伊郷は沈黙した。俺は茶封筒を指先で突いた。
「領収書をどう書いていいのか分からないし。かといって出直させるのもな。話次第では、それが領収書の代わりになるかもしれないしさ」
伊郷はぬるい麦茶を啜り、低い声で話し始めた。
「……俺は昔、アプリ開発の会社を友人らと立ち上げて」
「へえー。すごいね」
「いや。拓実は反対したんだ。俺の性格上、起業は向いてないって思ったんだろう。もともと俺ら同じ会社だったから」
「あっ、そうなんだ。恩田さんの会社?」
「そう。恩田さんがソフト開発に行き詰まっていた時に、色んな人間が流出して。俺もその一人だった。目先の欲と、恩田さんをどうしても超えたいってのがあって」
「超える?」
俺の問いに伊郷は視線を泳がせたが、ぼそぼそと言葉を紡いだ。
「恩田さんはすごい人だったから。勝ちたいっていう……今なら勝てる、って、相手が弱っている時に思うなんて最低だけど」
「うーん。だねえ」
「拓実にもそう言われたよ」
俺は麦茶を啜った。変わらない温度だった。外のぬるい暑さと同じ温度。
麦茶の表面に、硝子の光が反射する。俺は光り輝く液体が伊郷の口に収まるのを見つめた。
「それで、別れたの」
「いや。まだ……まだ。結局、負債を抱えて、あちこち借金して、その時に拓実に借りた金がこれだよ」
俺は無言で伊郷の言葉を待ったが、伊郷はもう麦茶に口をつけなかった。机の上を揺れる光を見つめている。
硝子から届く光は、木肌の上を滑るように流れていく。一つにまとまらずに、風や、雲の影とともにただ揺れる。
「金の切れ目が縁の切れ目だったんだ」
俺から口を開くと、伊郷はいや、と頭を振った。
「あいつは、ずっと俺を信じて、俺を好きでいてくれた。借金しても。もう別れようって俺が言っても。事業の失敗にかこつけて、俺は、あいつのことも責めた。お前が手伝わなかったから上手くいかなかったって。恩田さんと俺とどっちが大事だって。俺は恩田さんとあいつの仲まで疑って。俺からの疑いを晴らすために、あいつは恩田さんに頭下げて、会社を辞めた」
伊郷は大きく息を吸い込んだかと思うと、一気に吐き出すように言った。
「俺のために金策に走って、あんなにプライド高くて才能ある男が、ろくな仕事しねえって軽蔑していた連中にさえ頭下げて、ホモの恋人助けるために必死だなって馬鹿にされても、あいつは俺を決して見捨てなかったんだ」
伊郷の声は、最後は嗚咽に変わった。顔を覆う伊郷の頭を、光が避ける。
俺は無言のままだった。激しく震えていた伊郷の肩が、少しずつ落ち着くのを見つめていた。
「ごめ……つい……感情的になって」
「いや。大丈夫」
伊郷は大きく深呼吸し、ハンカチで顔を拭った。
「本当に、阿呆だな。……すまなかった」
「いや……聞けて、良かったと思うよ」
ずっと俯いていた伊郷の顔が向けられる。優しい形をした目だった。目尻に残る涙を、俺は見つめた。
「そう……思ってくれるか」
「ああ」
「けど、ここからの俺は、さすがに聞くに堪えないと思うぞ」
「そうなのか? 話す気しない?」
伊郷は麦茶には口をつけなかったが、机を走る光には目を向けた。濡れた瞳が光に縁取られる。
「一緒に会社を立ち上げた奴が借金だけ残して逃げて。消費者金融から金を借りていたんだ」
俺は息を飲んだ。驚愕が顔にも出ていたと思うが、光を見つめ続ける伊郷の目には入っていないようだった。
「俺も馬鹿だから気がつかなかった。取り立てがやって来て、親から金貰って来いと言われた。調べていたんだろうな、俺の親父が会社をやっていると。逃げてもどうせ親や一緒に暮らしている拓実に行く。観念して俺は、親に返済を頼みに行った。そして出された条件が……」
伊郷は静かに、言葉を続けた。地元に戻って親の会社を継ぐこと。男と別れて結婚すること。
俺は目を閉じた。溜め息も、何も出なかった。伊郷の声は、今までで一番落ち着いているように聞こえた。
「親は、俺がゲイなのは単に嗜好の問題だと思っているからな。結婚してしまえば何とかなる、という彼らの考えは、結局変わらなかった。そして俺はもう、何かを相談したり考えたりする気力すらなかった。いや……」
伊郷の目がまっすぐに向けられる。
「俺は、そっちの方が楽だと思ったんだ。親の決めたレールに乗って、親の決めた女と結婚して、その人生の方が簡単じゃないか。借金だらけで、ゲイで、恋人に最低の姿しか見せていない自分を、捨てたかったんだ。お前に、見限って貰うチャンスだとさえ思ったんだよ。もういい加減、がんばりたくなかったんだ。お前を愛することも、愛されることも、もう、捨てたかったんだ、俺は」
口調は静かだったが、伊郷の瞳からは一筋の涙がこぼれた。光の中に、吸い込まれる。
「……ごめん。何を言われているのか、さっぱり分からないよな」
まっすぐに見つめてくる瞳を、俺は見つめた。瞳の中に映る自分を見つめながら、俺は答えた。
「そうだな。分からない」
「……すまない……」
伊郷が片手で顔を覆う。
「人の鬱憤を、ぶつけられているようなものだよな。申し訳なかった」
「いや、もとはといえば俺が聞きたいと言ったんだから。気にしなくていいよ。それ、何年前?」
「……三年」
「え? じゃあ、事故に遭う直前ぐらい?」
「ああ。俺が地元に戻って、結婚して三ヶ月経ってからだ。お前……君が、交通事故に遭ったって以前の会社の奴に聞いた」
伊郷は手を組んで大きく息をついた。
「さすがに、自殺、って言葉が思い浮かんで。いてもたってもいられなくなって病院に行った。病院で恩田さんと鉢合わせて、ふざけんな、お前にフラれたくらいであいつが自殺なんかするかってぶん殴られた」
俺はつい溜め息を漏らした。
「全然知らんかったわ。飲酒運転の巻き込まれ事故だったから状況的には事故だけど、そういう事情もあって、恩田さんが俺の面倒見ていたわけか。言わねえからなあ、あの人」
「俺の話なんて記憶に必要ないからだろ。記憶障害でほぼ何も覚えていない、何処まで回復が見込めるか分からないってのはその時に聞いたよ」
伊郷が優しい瞳を細め、俺に訊く。
「俺のことは、何も覚えていないんだろ?」
俺は頷いた。
「そうだな。伊郷さんだけじゃないよ。言語や生活能力もほぼゼロの状態で、生活していくうちに次第に取り戻していった。人との記憶なんかは、断片的でね。ストーリーが分からない映画をシーンだけばらばらに見ている感じ。今関わっている人が、そのシーンに登場していたことを思い出したりして、ああ、エキストラじゃなくて主要人物だったのかって発見する」
伊郷の瞳が何か言いたげに揺れたが、俺は首を振った。
「エキストラをいちいち記憶してはいないんだよ。伊郷さんも、いくつかのシーンに登場したかもしれないけど、覚えていない。俺の海馬はまだ脳内でちゃんと落ち着いていない状態なんだ。新しい記憶を蓄積するのに夢中で、せっかくまとまりそうだった古い記憶をぽろぽろ落としていく。他人の写真をいちいち覚えていないだろ。感情を込められない、関心の無いシーンの一つ一つを、覚えてはいられないんだよ」
伊郷の目が伏せられる。表情は穏やかだった。
「いや、思い出してくれなくてもいいんだ。ずっと、エキストラのままでいいよ。今日のことも、妙な話を打ち明けに来たなあ、あの男って認識してくれるだけでいいよ。そのつもりだったんだ、もともと」
俺はテーブルの上の茶封筒に目を向けた。
「俺の状態を知っていてわざわざ来たってことは、何かあったからじゃないのか。一度は突っ返された金だろ」
伊郷は沈黙した後に、静かに語った。
「親父が、死んだんでね。色々整理していたんだ」
「奥さんは?」
「結局駄目だったよ。二年で離婚して、その調停も終わったばかりだ。……呼び戻された形だったが、会社だけはちゃんとしたいと思っている」
伊郷が微笑みを向けてくる。
「もう、逃げるのは止めようと思った。単なる自己満足かもしれないが、ちゃんと、会っておきたかった」
ためらいのない笑みだった。それを静かに見つめる俺に、伊郷が柔らかい言葉をかける。
「ここ、恩田さんの家だろ?」
「そう。退院してから世話になってる」
「恩田さんの会社に勤めているのか?」
「いや。あの会社に行っても、俺はお茶くみしかできねえから。周りにも気をつかわせるし。今は職業訓練校に通ってパソコン習ってる」
目を丸くする伊郷に、俺は頭をつついて笑った。
「やっぱこれは、記憶が戻るの早いよ。シナプスがバチバチ繋がって、入って一ヶ月で先生を教える方に回っちまった」
安堵したように伊郷が笑う。その笑みから俺は目をそらした。
「もうすぐ、健康オタクの男が帰ってくるよ。俺が休日家にいる時には、必ず様子を見に来るんだ。もう、殴られたくないだろ」
「……過保護だな」
「昔からそうだったらしいな」
「お前には、そうだったな」
「でも、浮気は絶対にしていなかったと思うよ」
伊郷は目を伏せて頷いた。
「……分かってるよ」
伊郷が静かに立ち上がる。俺は茶封筒を見つめたまま動かなかった。
「お前は本当に、心の底から、俺を愛してくれていた。それが俺を、支えてくれた。今でも」
伊郷の声が、近くなる。
「これは、頭の中の海馬に留めておかなくてもいいから、聞いてくれ。俺は、お前を愛して、愛されて、幸せだった。ありがとう、拓実」
玄関へ向かう伊郷の背に、光が流れていく。
扉から漏れる光に、伊郷の身体が包まれる。分散していた光が一つに輝くのを、俺は目を細めて見つめた。
一度は突っ返された、とは、伊郷の口から出た言葉ではなかった。
三年前に投げ捨てたはずの金が収まった茶封筒を見つめながら、俺はようやく、別れの言葉を口にした。
「……さよなら、一明」
まとまった光を抱きかかえて、俺は記憶の海を走る馬の背にそれを静かに乗せた。




