Section.1 拉致
日付で言えば、例の発表のほんの一週間前に過ぎない。
「そろそろ、朝はかなり寒くなってきた」
地下鉄の駅を出て、月島はもごもごと呟く。ポケットに手を突っ込んでから、一限から授業の開かれる、慌ただしい学びの場へと向かっていった。
渡るべき信号が、ちょうど赤に切り替わる。
いつもなら苛立つ場面だが、今に限って言えば、なんだか少しホッとする。
彼の住んでいる学生寮は、キャンパスから二駅ほどしか離れておらず、雨でも降らない限り自転車を使って通学するのがスタンダード。しかし今日は体を動かすのが億劫で、つい電車を使ってしまった。
その理由は。
「卒論指導のアポイントメントの日付、今日だもんな……」
怯え切ったかわいそうな子犬のように、月島は肩を縮こませる。
「そして来週中間発表だ、緊張しないわけがない……自転車は無理」
ちょっとした不注意で車に轢かれかねないぜと、不可抗力的に出るのは、沈んだ声。
それでも小さな門をくぐり、大学の敷地内に入る時間はやってくる。
トボトボ歩けば、経済学部の授業が開講されるほか、教授や院生たちが研究する部屋のある建物へとたどり着いた。ラウンジに設置されている自販機に120円入れ、温かい缶コーヒーを買う。
心ここにあらずといった塩梅でノートを取りながら、一・二限を寝ることなく乗り切り(睡眠時間は短かったが、緊張で眠れなかった)、遂に昼休み。
自らの所属ゼミを指導する安島教授との、約束の時間。
心臓をバクバクさせながら、教えを乞いに行く。
「いらっしゃい、月島君」
教授の研究室のドアを開けば、待っていたとばかりにニコッと、彼は月島を出迎えてくれる。
その人としてとても魅力的な笑顔を、これほどまでに畏れたことがあろうか。
「とりあえず、提出してくれたペーパーは読んだよ」
「ありがとうございます」
「大まかに言えば、特殊な確率分布に従って人々の生産性が1期ごとに変化するときの、物価の決まり方について議論してたよね。まずは……」
いいところと悪いところを上から順番に指摘されていき、その度に月島は喜んだり悲しんだりする。
「最後は、実際のCPIの動きとの当てはまりの良さだよね」
「はい」
頷く月島。これに関しては、かなり当てはまりが良かった。口にも態度にも出さないが、自信はあった。
自分の作ったモデルは、現実をそれなりに説明していると。
「まあ、仮説も直観的には正しく見えるよね」
安島教授はウンウンニコニコ首を縦に動かして。
「よく作られている」
教授の言い回しに、月島はピクリと反応した。
よく、作られている。
耳に残る、心がざわつく。
少しイラつく。
しかし、手応え的にはこのまま卒論として行かせてもらえる。
月島が、そう確信した時だった。
「ダメ。テーマを直してまた持ってきてね」
「! 何でですか!??」
思わず、大きな声を出してしまう月島。
残響が、安島教授の研究室に広がる。
「そうだね。リサーチクエスチョンは分からないこともないし、文章はちゃんと書けてると思うし、理論的には精緻だし、新規性も一定程度はあるし、現実との整合性もちゃんと取れているとは思うよ」
「なら、何でダメなんですか!?」
納得のいかない月島は、再度吠え立てる。
「端的に言うと、全体として現実感と、臨場感と、そして何より使命感がないからだよ。君ならもっと書けるだろ?」
「っ……それってどういう……」
「それも話そうと思ってたんだけど、そろそろ昼休みが終わってしまうね。僕はこの後用事があるし、今日のゼミが終わったら話そう」
「……ありがとうございました」
時計を見ると、そろそろ13時。三限も始まってしまう。
だというに、結果はほぼ拒絶も同然だ。
ああ、せっかく頑張ったのに。
失意に駆られながら研究室から出ると、これまでの努力がすべて無に帰す未来がありありと想像される。
「くそったれ! 結局俺もコロされてしまうのか」
溢れ出る倦怠感と疲労感に、月島は三限サボろうと決意した。ラウンジでふて寝すべく、エレベータで一階に降りていく。
「他は分かるけど、使命感ってなんだよ……」
ドカッとソファに身を投げ出して、「ちくしょー」と目を瞑る。
深夜の三時まで卒論作業に苦しめられていた月島は、寝つきは良い方でないにも関わらず、瞬く間に眠りに入ってしまった。
意識は闇の底に沈んでいく。
ずぶずぶと、ずぶずぶと……。
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「……?」
ふっと、月島は目を覚ました。
暗い。
ラウンジ消灯の時間まで寝てしまったのか。そう考え、首を動かそうとするが、全く動かない。
「?」
自分の荷物が頭に乗ってでもいるのかと考え、手でどかそうと試みる。しかし、手も動かない。
「??」
足をばたつかせてみる。
腰を浮かせようとする。
動かない。
動けない。
「どういうことだ、おい!!」
すぐさまパニックに陥った彼は、全身をとにかくめちゃくちゃに動かし、喉が張り裂けんばかりの大声を出す。
「誰かぁ! 助けてくれええええ!!!」
嵌めたはずのコンタクトレンズがなぜか消えており、周囲はよく見えない。
が、自分の体の置かれている状況くらいは観察出来た。
全身を、椅子にぐるぐる巻きに固定されている。
痛いくらいに、圧迫感を覚えるほどに。
「くそーーーーーーーっっっ!!??? ……はぁ、はぁ」
運動不足な月島は、一分も持たずに暴れまわるのをやめた。しんどい、呼吸が辛い。「俺は、誘拐でもされたのか?」とボソッと呟いた。
すると。
「おや。起きましたか」
コツコツと、暗闇の向こうから足音が聞こえてくる。
なんと、落ち着いたものか。俺を誘拐しやがったのはこいつか?
疲れている間に状況をなんとか飲み込んだ月島は、声の主を予測して、身構えた。低い視力で、なんとか相手を捉えようとする。
見えてきた、シルエット。
「嘘だろ……!?」
非現実的なのに、圧倒的な臨場感。
常識が当てはまらない、培ってきたものの一部がぶち壊される。
その姿には、驚愕するしかない。
「翼?」
朧げにしか、見えていない。作り物かもしれないと考えるも、本能がそれを拒絶した。
あれには体温がある、こいつの意識で動かせる。本来ありえない予測が、スゥッと常識に吸収され。事実として、受け入れてしまった。
「なんだ、お前は……」
「やぁ、翼なき下等な異世界人」
ぽん。
肩に、手を置かれる。
体を走るのは、今まで感じたこともないような、名前をつけられない恐怖。
縮み上がる内臓と筋肉。
吐きそう。
漏れそう。
泣きそう。
震えて、声も出ない月島に。
「実験番号580071。君は生き残って、我らが天使族の、最終兵器となれるかな?」
嘲るような高音で話しかけたのち、コツコツと離れる。
十秒ほど経った頃だろうか。
月島の耳に、金属の扉が締め切られる音が、鮮明に届いた。