凍える夜に
「そのコート、カッコイイね」
私はそっと彼に近づき、寒さを吹き飛ばすような明るい声を出した。
「そうかな? ありがとう」
彼はさして驚いたふうでもなく、私に優しく微笑んだ。
雪のたくさん降る、クリスマスイブ。
今日は何か良いことが起こるんじゃないかと期待していた私をあざ笑うように、いつも通りの、つまらないことばかりが起きた。
雪で遅延し混みあう電車の中、周りのおっさんたちの加齢臭にめまいがする出勤途中。ちょっとしたミスで、上司にねちねち嫌味を言われたお昼休み。今日中に終わらせなければならない仕事が終わらず、しぶしぶ残業をしていたら、いつの間にか二十三時を過ぎている。
いつも通りの、最悪な一日だった。
札幌に来てまだ一年も経っていない。誰かと飲みに行きたいと思っても、彼氏どころか友達すらも今の私にはいなかった。
短大時代の友達とは、夏休みに会って以来、連絡もあまり取っていない。「ぜったいスキーしに行くからね」と言っていたのに、薄情な子たちだ。
もちろん仕方がないことはわかっている。
ゆうかはできちゃった婚をしてもうすぐ出産。あやは親の具合が良くなくて仕事と介護に追われているし、まーちゃんは海外留学中。
みんな忙しいんだから、仕方ないことはわかっている。でもやっぱり私は寂しかった。
相席居酒屋にでも行こうと大通駅の構内を歩いていると、イケメンが一人、コーヒーを飲んでいるのを見かけた。
地下鉄の改札前には柱に沿うようにイスが並べられている。イケメンの彼はそこに一人で座っていた。
時刻は零時前。
彼が待ち合わせをしているわけでないことは、一目でわかった。
上下きっちりスーツを着て、その上から黒いトレンチコートを羽織っている。三十代前半くらいだろうか。若い四十代に見えなくもない。彫りが深く、健康的な程度に色の黒い、正真正銘の美形だった。
彼の手にはコンビニのコーヒーが握られていて、虚ろな瞳はぼんやりと前を向いていた。スマホをいじったりもせず、ただ虚空を見つめているだけ。鞄を足で挟んで床に置いて、足も小さく折りたたんで、もうほとんど人もいないというのに、少しでもスペースを取らないようにしている。
大学生らしき集団がたむろしているのが横目に映った。お酒が入っているからか彼らはこの寒さにもかかわらず活力に溢れ、その声は地下空間に響き渡っていた。
でも彼はそんな若さに気圧されることもなくたたずんでいる。まるで彼の周りだけ、時間が止まっているかのようだった。
いかにも孤独な人。たとえばそこらにいる、疲れ切った顔のおじさんとは違う。彼はきっと、もっと明るい場所で生きているはずなのに。もっと光に包まれ、愛されるべきなのに。なぜ、こんな日のこんな時間に、こんなところにいるのだろう?
私はすぐさま彼に興味を持った。
私は昔から、そういう「浮いている」人が気になった。
小学生のときは誰とも話さずひとりぼっちで本を読んでいる子が気になったし、中学生のときは一生懸命に球拾いをする万年ベンチの野球少年に心を惹かれた。
高校ではミュージシャンになると言って授業をサボって屋上でギターを弾いているクラスメイトと付き合っていた。彼は結局、ミュージシャンになる前に学生ですらなくなってしまったので、そこまでの付き合いだったけれど。
「なにしてたの? クリスマスイブなのに」
私は用意しておいた言葉を間を置かずに続けた。
「家に帰りたくないんだよね」
彼はあまり私と目を合わせずに答えた。
「どうして? 寂しいから?」
「同棲……というか、強制的に押しかけてきている彼女がいるんだけど」
彼は言葉を濁した。私は彼と同じ方を向いて、「メンヘラちゃんなの?」と先を促した。
「最近はそういう言い方するらしいね。彼女は髭剃りの位置が少しでもずれてると『髭剃った?』って聞いてくるんだけど、それもメンヘラなのかな?」
「それはヒゲフェチなんじゃなくて?」
「多分、違うと思う。こんなことを言うのもどうかと思うんだけど、彼女は僕に関わるすべてが気になるみたいなんだ」
「それは重症ね」
抑揚が少なく滑らかな彼の声に合わせて、私の声も徐々に小さくなっていた。
「だから仕事が終わっても、まっすぐ家に帰らずここで時間を潰してたのね?」
彼は少しだけ首を傾けて頷いた。
荷物を運搬する黄色い小さなトラックがピコンピコンと音を立てて進む。後ろにはたくさんの段ボールが積んであった。青い作業服を着た男性が二人乗っている。クリスマスだというのに、お疲れさまだなぁと私は思った。
「でも、そろそろ行こうかな。チカホがしまるよ」
彼がそう言って立ち上がったので、私は彼のあとについていくことにした。
札幌駅へ向かって、私と彼は地下歩行空間をゆっくりと歩いた。
ドタバタと音を立てながら走っていく人たちとすれ違ったり、追い抜かれたりする。きっとみんな終電の時間を気にしているのだろう。
白い柱がいくつも連なっているだけの、シンプルなこの地下通路を私はいつも退屈だと思っていたけれど、今日は違った。それは隣を歩く彼の顔ばかりを見ていたからだ。
「あなたはどこの出身?」
「……東京だよ」
彼は何かを思い出すようにしてからぼそりと答えた。
「へぇ、そうなの? 私は福岡なの。それじゃあやっぱり北海道の冬はつらくない?」
「まあ寒さはともかく、雪は色々と困るよね」
「ほんとよね。外なんてツルツル滑って歩けたもんじゃないわ」
どこかの出入り口のドアが開いたのだろう。ぴゅーぴゅーと吹く風に寒気を感じ、私は赤いストールに顔を半分だけうずめた。
「この地下通路、味気ないと思わない? 博多のはもっと西洋風で良い感じなのに。あーあ福岡に帰りたいなぁ。こっちは寒くてオシャレもできないし」
「そうだね、寒いね」
彼は赤ちゃんをあやすみたいに言った。私はその彼の口調がなんだか可笑しくて、憂鬱な気分が少しだけ吹き飛んだ。
私は彼のごわごわした黒髪に触りたくなった。最近の若者みたいにぎちぎち整髪料で固めたりしていないその髪は自然体で、とても素敵に見えたのだ。
「こんなに雪が降るのに、日本で五番目に人が多い都市だなんて信じられないよね」
彼はさらりと言った。
「そうなの? 知らなかったわ。東京と、福岡と……」
「東京、横浜、大阪、名古屋、札幌で、次が福岡だったと思うよ」
「えー、福岡より札幌のほうが多いの? うそだぁ」
「まあ単純な人口だけの話だからね。札幌市は面積も広いし。福岡は企業は多そうだけど、他の地域に住んでる人も多いんじゃないかな」
私はじっと彼の瞳をのぞきこみ、「そぉなんだ、知らなかったぁ」と大袈裟にあいづちを打った。
「あ、そう言われてみれば、札幌市ってクマが出るところまで含まれてるもんね。たしかに広いね」
このあいだニュースで「札幌市で熊が出た」と言っていて、私は心底驚いた。私にとってクマは動物園の檻の中にいるものでしかなかったからだ。
「君は札幌に来てどのくらい?」
「一年も経ってないわ。就職してこっちに来たの。初めての冬で、もう毎日泣きそう」
「そっか。それは大変だね」
彼は他人事みたいに素っ気なく言ったが、私はまったく気にしていなかった。むしろ、彼の落ち着いた雰囲気や、知的な口ぶりに少しずつ好感を持ち始めていた。
就職してからというもの、キラキラした時間なんてまったく無くなっていた。仕事にやりがいなんてないし、何も楽しいことがない。あるのはただ、やらなければならないことだけ。毎日毎日、つまらなくてしょうがなかった。
けれど今日は、楽しいことが起こりそうだった。
地下空間が閉鎖され始めたので、私たちは地上に出た。
路面状況は相変わらず最悪で、雪が踏み固められ、半透明の氷になっている。
こんなにも悪意のある道を、私は他に知らなかった。黒ゴマみたいな滑り止めの砂利がまかれているが、あまり効果はない。
「私、札幌に来るまではスキー場のみたいなふわふわの雪が積もってると思ってたの。だから来てみてびっくりしたわ。天然のスケートーリンクみたいになってるじゃないのっ、て」
「たしかにね」
はらはらと雪が降り出した。風が無いのは不幸中の幸いだ。これで少しは歩きやすくなるだろう。
街は白く染まり、ネオンや街灯の明かりを反射してぼんやりと輝いている。
たしかに綺麗だとは思う。けれど、雪に染まるこの景色を遠い異国のようだと喜べたのは、初雪の日から二日間だけだった。
「なんかね、変なところに力を入れて歩いているからか、全身が筋肉痛になっちゃうの。転んでおしりにアザができちゃうし。これじゃあランニングもできないわ」
「たしかに北海道の人でも冬はあんまりランニングはしないね」
気温はマイナス5度。顔に雪が降りかかり、私は少し歩くのが嫌になっていた。しばれる寒さとはよく言ったものだ。耳に痛みを感じ始め、私は手袋をした手で耳をもみほぐした。
「ねえねえ。北海道は人があったかいとか言うけど、そんなのウソだと思わない? 札幌なんて、東京と変わらないわ。田舎くさいぶん、東京よりずっとタチが悪い。やたら外人がいるし」
彼は私の言葉に頬を緩め、「そうかもね」と頷いた。開いた彼の口から白い息が漏れた。
札幌駅を越えて、さらに北に歩いていたが、彼がどこに行くのかはまだわからなかった。私の家はこっちの方向だが、この辺に何かがあるとは思えない。私は「どこへ行くの?」と尋ねたけれど、彼は質問に答えてはくれなかった。
そして代わりに「君はさ、どうしてクリスマスに一人でいたの?」と言った。
「一人じゃないでしょ。あなたといるんだから」
私は雪の中でもがんばって笑顔をつくって、質問を無視されたことも気にしないで、そう答えた。
でも彼はどこか不満そうだった。
きっと照れているんだと、私はそう思うことにした。
東の方へ曲がったので、コンビニにでも行くのかと思った。でも彼は止まることなく歩き続け、コンビニを通り過ぎ、さらに東へと進んだ。
夏はあんなにうるさかったカラスどもも、いつのまにか姿を消した。やはりここは試される大地なのだろう。カラスも住めないところに人間が住めるわけないと思うのだけれども。
私はいい加減寒さに耐えられなくなってきた。
「そろそろどこか入らない?」
私の問いかけに、彼は「うん、もう少し」と今度は頷いてくれた。
道端に積まれた雪の山の中から、黒色のゴムのような突起が出ている。きっと自転車か何かが埋まっているのだろう。
しんしんと降り続く雪があたりの音を奪い去っていった。
コンビニを通り過ぎて、小学校の前を通り過ぎて。私たちは札幌駅の東を流れる川に架かる、橋に差し掛かった。
橋と言っても、川幅は狭く、小さなものだ。手すりは腰ほどの高さもなく、歩道の幅も狭い。橋と呼んでいいかもわからなかった。
彼はそこで、突然立ち止まり、私の方を振り返ると
「どうして君は、僕に話しかけたんだい?」
と言った。
「……あなたが寂しそうだったから、声を掛けずにはいられなかったの」
私はとりあえずそう答えた。 あまり人気の無い、静かで暗い橋の上だったから、キスでもされるのかと思ったのだ。
すると彼は「君は寂しそうな人を見るといつでも声を掛けるの?」と、屁理屈を言った。
「違うかもね。……私も今日は、寂しかったから」
ともかく、儚げに言って見せた。
でも彼はどこか不満そうで、二人の間にある、たった二歩ぶんの距離すら埋めようとしなかった。
すすきのではなく札幌に向かった時点で何かおかしいと思うべきだったと、私は徐々に後悔し始めていた。彼は私の好きな「ちょっと変な人」じゃなくて、「かなり変な人」なのかもしれなかった。
私たちの下を流れる川は真っ黒で、異様に存在感があった。まるで白い街を無数の蛇が蠢いているようで、何だか薄気味悪く思えてきた。
「さっきから思ってたんだけどさ……」
彼は初めてまっすぐに私のほうを見た。
「君は集団からあぶれている人間を見下して、安心したいだけなんだろう? もしくは、自分が良い人間だと思い込みたいだけとか」
彼が突然何を言い出したのか、私には理解できなかった。
「違うわ」と私は否定したけれど、彼は呆れたように冷たく見つめ返してくるだけだった。
「僕はね、君みたいな女が大嫌いなんだ」
彼は整った美しい顔のまま、そんな血も涙もないことを言った。
「みんな勝手だよね。僕のことを映画の登場人物か何かだと勘違いしてる。理想を押し付けるのはやめてほしいよ。僕はただの人間なんだからさ」
黒い川の上に白い雪が落ちては飲み込まれていった。
「君と話していると心底気分が悪いんだ。自分をヒロインだと勘違いしてるんだってよくわかる。君の妄想の世界に僕を招待しないでほしいよ」
私は気が動転して、子どものように首を横に振ることしかできなかった。どうして彼がこんなひどいことを言うのか理解できなかった。
「違わないさ。僕に寄ってくる女はみんなそうだからわかるんだ。前に殺した女もそうだった」
「……ころ、した?」
冷え切ってほとんど感覚の無くなった自分の耳を、私は疑わずにはいられなかった。
「うん、家が生臭くって仕方なくてね。だから帰りたくなかったんだけど、まさか家の外でまでそんな女に絡まれるなんて。とんだクリスマスだよ」
彼は鞄の中をガサゴソと漁り始めた。
革手袋をした彼の手が取り出したのは、細長いケースのようなものだった。
それが何なのか、私はすぐにわかった。昔の彼氏がよく持ち歩いていたものとそっくりだったのだ。
「すぐばれて、つかまるわ。ここは車通りも多いし、大通駅でだって目撃者はたくさんいるはずよ。やめておいた方がいいわ」
金曜の夜遅く。それもクリスマスイブだ。信号が青になるたび少しは車が通れども、歩く人は誰もいない。降り続く雪だけが二人を見ている。
自分の言葉がどこかで観た映画のセリフをなぞっているに過ぎないことを、私は嫌でも思い知らされた。
彼はあたりをくるりと見回した。そして両の手のひらを天に向けて、雪をいとおしむように優しく笑った。
「大丈夫、そんなに車通りは多くなさそうだ。寂しい君のことだから、きっと行方不明になっても、しばらくは誰も君を探さないだろうしね」
彼はまるで風邪の心配でもされたかのように明るく答えた。
「それにこの雪、しばらくは続くみたいなんだ。しっかり埋めるよ。雪の下で、春まで出てこないようにね」
私はまだ信じられなかった。
こんなよくわからない理由で、こんなにもあっけなく、今まさに自分が殺されようとしているなんて。そんな現実を受け入れることなんて、できるはずがなかった。
「ああ、そうだ。さっき言い忘れてたんだけど、僕は東京生まれだけど、札幌での暮らしの方が長いんだ。だから君の話はとても不愉快だったよ。……それだけ、覚えておいて」
彼はおもむろにケースを外した。銀色に煌めく刃が露わになる。
彼の顔は変わらず綺麗に整っていたけれど、私はもうそれをカッコいいとは思えなかった。
なぜだか頭に思い浮かんでくるのは、お父さんとお母さんの顔ばかりだった。
一筋の熱い滴が私の頬を伝った。
「雪が解けたら、きっと見つけてもらえるよ」
彼は今日一番の笑顔で私に優しく微笑んだ。
待って。お願い。助けて。
そんな言葉が脳裏をよぎったが、顔はこわばり口がうまく動かない。
私は言葉にならない悲鳴を上げながら、彼に背を向けて逃げ出した。
目の前の信号が真っ赤に染まっている。彼の手が私の背中に触れた気がした。
もうダメだ。そう思ったとき、私は足を滑らせた。
視界がぐらりと右に傾き、信号の赤だけがやけに目に残る。次の瞬間、腰に鈍い痛みが走った。
勢いよく転んだ私は手すりに身体を打ちつけたらしい。一瞬だけ、世界が止まった気がした。
けれど銀色のてかてかとした手すりが、私を支え続けてくれることはなかった。
勢いは止まらず、私の身体は腰を支点にして橋の向こう側へと投げ出された。
――今日はクリスマスなのに、何も良いことが無くて。素敵な出会いとか、非日常とかが、ちょっとでもあったらいいなって思って……。それだけだったのに……。
後悔にも懺悔にもなる前の、戸惑いという感情だけを抱えたまま、私の身体は宙を舞った。
今度こそ終わりなんだと目をつぶった直後、背中に強い衝撃が走った。あまりの痛みと冷たさに思わず目を開ける。
暗くてよく見えないが、どうやらお尻と手はついたらしい。思ったより川は浅かったのだ。
私は寒さに歯をガタガタ言わせながらも、なんとか立ち上がった。
背中がズキズキと痛んだが、そんなことを気にしている場合ではない。一刻も早く川から上がらなければ凍死してしまいそうだった。
じゃぶじゃぶと水をかいて進み、雪の積もっているところに這い上がる。意外にも足元はしっかりしていた。どうやら中州に雪が積もってできた場所らしい。
そこから伸びる木によじ登り、私はどうにか護岸の上に立った。
ひとまず川から上がれたことにほっとして、あたりを見回した。
護岸のすぐ隣にはフェンスがずっと伸びていて、その向こう側には林のような場所がある。道路と道路に挟まれたその場所は、川沿いにぽつぽつと木が植えられているだけで、どうやら普段は人が入らないところらしい。
橋の上にあの男の姿はない。
近くにも人影はなかった。
けれど、安心なんてできるわけがなかった。
私はともかく細い護岸の上を歩き、北へ逃げることにした。
誰の足跡もない川沿いを、右手でフェンスを掴みながら必死に進む。降り積もった雪が足を飲み込んでなかなか放してくれなかった。それでもどうにか雪をまき散らして足を持ち上げ、私は次の一歩を踏み出した。
あまりの冷たさに、途中で濡れた手袋とストールを捨てた。こんなものをいつまでも身に付けていたら凍傷になってしまう。
黄緑色の手すりを乗り越え、ようやく普通の歩道へと戻ってこられた。
でもまだ恐怖は消えない。近くにあの男が潜んでいるかもしれないのだ。私は冷え切った身体を奮い立たせ走り出した。
降り積もった雪が街灯の光を反射して、街をオレンジに染め上げている。どこまでも変わらない夜が広がっていた。
雪の街を走るのは初めてのことだった。何度も足を取られ、転びそうになる。氷点下の夜風にあたり、髪の毛が凍っていく。うなじを伝う水滴に身体が震える。手足の先が痛くて仕方ない。それでも私は走り続けた。
右足が滑ったら左足で踏ん張って。左足が滑ったら右足でバランスを取って。両方の足が滑って転んでも、冷たい地面に手をついて。私は白い息を吐きながら走り続けた。
いま足を止めたら死んでしまう。
そんな確信が、私を走らせた。
北十五条のあたりにある自宅にたどり着くと、私は転がるようにして部屋に入り、鍵を閉めてチェーンを掛けた。
苦しさのあまり、そのまま玄関に崩れ落ちる。肩を上下させて深く息を吸っていると次第に呼吸が落ち着いてきた。けれど、身体の震えはいつまでも収まらないことに気が付き、私はお風呂場へ向かった。
四十三度のお湯をジャバジャバと出し、びしょ濡れの服を脱ぐ。淡いグレーの色をしていたコートの背中は、藻や泥がたっぷりとついて茶色くくすんでいた。
まだぜんぜんお湯が溜まっていない浴槽で体育座りをしていると、ポロポロと涙がこぼれてきた。
お風呂から出ると、とてもお腹が空いていることに気が付いた。冷凍庫に入っていたジンギスカンを解凍して、キャベツと玉ねぎと一緒に炒めたやつと、早炊きモードで炊いた柔らかめのごはんを大急ぎで準備して、私は夕ご飯をむさぼるように食べた。食べていたら、また涙が出てきた。
独特の臭みが苦手で、いつまでも冷凍庫の隅で残っていたこの羊肉が、こんなにも美味しく思える日が来るなんて思いもしなかった。
お腹が膨れたら今度は無性に誰かの声が聞きたくなってきて、お母さんに電話した。
ココアを飲みながらお母さんのいつもの愚痴を聞いていただけなのに、私はまた涙が出てしまった。
歯を磨いて布団に入り、アラームをセットして目をつぶる。
明日は土曜日だった。
まず、警察に行こう。それで新しい手袋とストールを買いに行こう。あと、コートをクリーニングに出さなくちゃ。
そんなことを考えていると、次第に布団が温まってきて、すぐに睡魔がやってきた。
私にはもう、キラキラした非日常なんて必要なかった。
あったかいふとんでぐっすり眠る。こんな素敵なことが他にあるだろうか。
ガチャリと鍵が開く音がする。
バキンとチェーンが切られる音がする。
けれど、私が目を覚ますことはなかった。
終わり
お読みいただきありがとうございます。
暑い日が続きますので、北海道にいた頃に書いたものを投稿いたしました。
今日、ずいぶん前に応募しました小説の選評を頂いたのですが、
色々思うところがありまして、
月並みな言葉で言えば、なんで小説なんて書いているんだろうとか、
なんで生きているんだろうとか、その程度のことなのですが、
そういうちょっと痛い感じの、中二病なことを思っただけなのですが、
そこから因果関係がねじ曲がって、
暑いから寒い話を投稿しようと思い、
久しぶりに投稿いたしました。
ご感想・アドバイスなどいただければ幸いです。
お読みいただき誠にありがとうございます。