アンビヴァレンツ
最初からここで最後にするつもりだった。僕は、忘れたかったのだ。
足元の落ち葉の山から飛び出していた、子供の頭ほどもある石をよろめきながら持ち上げると、背骨が軋む音がした。気にせずゆっくり歩き出す。一歩ずつ――その子の元へ、近づいていく。
僕―――リネは、深い森の奥にいた。森の奥のもっと深いところだ。湖に向かって、落ち葉の積もった獣道を急いでいた。僕は未だに履き慣れない、逃避行用の厚底のブーツを、一歩ふみだすごとに鈍く鳴らしながら、森の奥から湖へと歩を進める。ずりっ、ずりっ、と革靴の下で濡れた落ち葉が擦れて、周囲から立ち上る甘ったるいような雨の匂いが鼻の先を漂った。頭上高くの葉と葉の間から、朝の白い光がぽろぽろとこぼれ落ちてきて、足元の薄暗さの中で時々ぬらりと光る落ち葉や、僕の頬や、まぶたの薄い皮膚の中に染みていく。嫌になるくらい細い、ひじの目立つ僕の腕は細かく震えていた。石の重さに両腕は痺れきって、もう感覚が消えている。ずりっ、ずりっ、と歩き続けながら、また少し、僕は殺人者に近づいていく。辺りは今にも突然茂みから熊か、ラビ(猪に似た獣)が歯をむき出して出てきそうな、ホラーシーンの前兆のような押し殺した静けさだった。いつのまにか、蝉は鳴くのをぱったりと止めていた。
ふと森が開けて、僕は、あぁ、やっぱりここにいたのだなあ...と思って、哀しみに心臓をひくひくと痙攣させた。
あなたを見つけたくなかった。
見慣れた細い後ろ姿を見つけて、悲しくなるのは初めてだった。
痛くて痛くて堪らないけれど、でも僕がここで殺さなければ自分も死ねたりしないので、僕はあなたを殴るための石をもって少しずつ、近づいていく。
―――――――――その子は、開けた森の真ん中でいつもと同じ、綺麗な立ち姿で佇んでいた。先天性の病気で真っ白に色の抜けた髪の毛が、肩の高さで揺れていた。丈の長い外套を羽織っていて、触れれば瞬く間もなく熔けて消えてしまうだろうと思わせるような、細い細い背中を見せて、湖を見つめているのだった。
「...カフカ」
僕がささやくと、少し間があった。辺りに一瞬、耳が痛くなるような沈黙がほとばしる。
カフカがいつもよりもゆっくり、振り返った。陶器のように白い滑らかな頬の輪郭が、産毛で光の筋になっているのがありありと分かった。その人は、僕が人間の顔に初めて見る、透明な感情を浮かべていた。
最初に震えはじめたのは足だった。背中にそっと冷えきった指を這わせられたみたいだ。僕は耐えて、唇を噛みしめ、地面に踏ん張った。
ずっと守りたかった顔。
みんなが壊したがった、異形の美貌。
この世にいては、いけない美。
僕は泣きそうになって、カフカの前に立って俯いた。カフカは、こんなときまで美しかった。こんな――――ぎりぎりの、最後になるまで。
「...ね、リネ」
黙り込んでしまった僕の、脇に抱えた不穏な大きさの石には何も頓着せず、カフカは顔にかかった白髪をかきあげて、硝子玉のような眸を半月にした。
「一緒に逃げてくれて、ありがとう」
「...うん」
「楽しかった。リネといられて」
「う、...ん...」
震えだしそうな唇はきつく噛み締めて、かろうじて堪えた。聞きたいことは山ほどあったはずだった。今ここで逃したら、もう二度と解らないままのような気もしていた。
だけどやっぱり、目の前の大好きだった人の口からは、聞きたくなかった。
君が、あのひとを殺しただなんて。
「信じたくないよ」
引き結んでいたはずの唇から、勝手に言葉が滑り出した。
言葉にしたら、あっという間にとらわれた。ねじれるような激しい痛みが胸の奥を締め上げる。
霞んだ視界の中で、カフカは力を失ったように、だらんと両腕を弛緩させていた。揺らした首をこちらに向けて、苦しげに息をついた。
「...でもね。でも、僕は殺してしまったんだよ」
ひゅっ、と喉が悲鳴のような声をあげた。決定的だった。それだけ聞ければ十分だ。
1歩前に出た。カフカの凄まじい美貌が、息もできないほどすぐ目の前にある。せかいでいちばんうつくしい、その貌。僕は静かに泣いていた。
だって、ずっと、世界で一番好きだった。
「さよなら」
それに向けて、僕は一息に大きな石を振り上げ、まっすぐ下ろした。




