魔法図書室 〜閉じこもり四角関係〜
一:その日の放課後にて
古い伝統を誇る誠信館高等学園は広い敷地と厳格な校風で有名であり、中でも公立図書館に匹敵するほどの図書室は、他に類を見ないほどの敷地面積の広さと在庫量を誇っていた。図書室と言っても校舎とは別に建てられた別棟で、各クラスの図書委員に任命された者はクラスの生徒が借りた図書を図書室の元の位置に戻すという役目を言いつけられていたものだから、進んで図書委員になりたいと言う者はほとんどいなかった。そんな図書委員を二学期の間むりやり押し付けられた形になった内藤香奈は、数冊の本を胸に抱いて親友の千野理沙と一緒に図書室へ向かって歩いていた。
「えーっ!?香奈って三上クンのことが好きだったんだ!」
「ちょっと!大きな声出さないでよっ!」
さんざ突付きあげられてしぶしぶ白状させられた片思いの相手の名前をこんな大声で言われた香奈は、デリカシーのない親友の顔をにらみつけずにはいられなかった。理沙は思わず両手で口を押さえると、苦笑いしながら軽く何度か頭を下げた。さいわい周りに人は少なく、誰も聞いてなさそうだったので安心したふたりは廊下の先へとまた歩き出した。
「へえーっ。でも以外だね。香奈の本命が三上クンだなんて。」
「何度も言わないで!誰が聞いてるとも限らないのに!」
「ああ、ゴメンゴメン。もう言わないってば。アハハ……。でも、いつから?」
ふたりは校舎を出て図書室に向かう渡り廊下に出る。
「一年の終わりごろかな。それまでもかなり意識してたんだけど。私、こんな性格だからとても言い出せそうにないじゃん。」
「うん、それはよく分かる。なんせアンタの天然ボケは筋金入りだもんね!」
理沙は香奈がまったく気にしていないと思って遠慮なく言ってくれるが、香奈は実はそれなりに気にしていた。だが確かに理沙の言う通りである。自分でも重々承知していた。だから香奈は反論することもせず、黙って歩を進めた。
渡り廊下は三十メートルくらいあって、ふたりは上履きをパタパタと言わせながら木々に見え隠れしている校庭の方に目をやる。部活動もそろそろ終わる時間なのか、下校する生徒が目立っている。
「でもさ。三上クンってイケメンのワリには浮いた話がないじゃん?ホラ、なに考えてんのか分かんないようなフシギ系だもんね。そこがいいって噂もあるけどさ。」
理沙は一方的に喋っていて、香奈はただウンウンとうなずいている。いつもふたりはこんな感じだ。学校いちの天然ボケである香奈。男勝りで意地っ張りの理沙。こんな正反対の性格だからこそ、ふたりの相性は良いようだ。
「で、この先どうすんの?」
「この先どうって?」
「だからサ。計画だよ。まさか秘めた想いをそのままに人知れずつぼみのままで終わるなんてヤボを言うつもりはねーよな。」
まるで当然だろうという口調の理沙とは裏腹に、香奈は苦笑いをしながらうつむいた。
「私、そんなキャラじゃないし……。」
「じゃあコクるつもりねーの?聞いた話だけど、三上クン、今ならフリーだってよ。」
理沙がそう言った時にはもうふたりは大きな図書室の重たい扉の前にまで来ていた。香奈はその扉の取っ手に手をかけたままでじっと理沙を見つめたが、数秒後に目を伏せて「告白なんてぜったい無理!」と吐き捨てるように言ったあと、重たい扉を押し開いた。とたんに本のかび臭い香りがあたりに広がって、巨大な図書室はふたりを呑み込んでしまった。
二:図書委員の憂鬱
「人文…、人文…、あ、あった!ここかな。」
理沙が立ち並ぶ本棚の一角を指差す。香奈は持った本の一冊をそこに差し込んだ。それにしても大きな本棚だ。高さはゆうに四メートルを超えているだろう。当然いたるところに脚立や梯子が置いてあって、高い所の本を取る時には必需品となる。奥に行けば更に高い本棚もいくつかあって、上の方にはどんな本が置いてあるのか見ることさえ容易ではない。どうしてこの高校の図書室はこんなにもすごいのか、不思議でならない香奈だった。
「あと、最後の一冊だよね。何の本?」
理沙が香奈の胸に抱かれた本をのぞきこむ。その本には日本語と呼べるものはいっさい書かれてなかった。
「これ何語?誰がこんな本読むの?バッカじゃね?」
馬鹿では読めないだろうと理沙につっこみたかった香奈だったがそれはやめて、本棚で仕切られた道を進むことにする。
「先生に聞いてみようよ。それが確実でしょ。」
「そだねー、そうしよ。」
理沙も香奈に賛成して両手を後頭部に組んで歩きだす。まだ夏服の理沙は、ブラウスが持ち上がって白いヘソが丸見えになっていた。
それからふたりは図書室顧問の先生に本を納めるべき本棚番号とおおまかな場所を伺い、またしても図書迷宮へと足を踏み入れた。もう下校時刻も近く、図書室に生徒の姿はほとんど見られなかった。
「Xの九三三……。Xの九三三……。カナぁ、あったぁ?」
理沙はずっとヘソを出したままで─つまり後頭部で腕を組んだままで─自分の背丈の三倍もある本棚に書かれた番号を探している。香奈も少し離れた場所で、同じように番号を探していた。
「あ、あった!ここよ、ここ!」
香奈がやっと先生に言われた本棚を見つけた。なるほど、同じような文字で書かれた本がそこにはいくつか並んでいた。
「ここでいいよね。」
そう言って最後の本を本棚に戻す香奈はホッとため息をついた。
「じゃ、帰ろうよ。もう遅くなったし。」
理沙はイジワルそうに笑顔を見せる。香奈は少しむっとする。だいたい香奈を図書委員に無理やりさせた犯人は他ならぬ理沙なのだ。だからこうして本の返却を手伝わせているのだ。まったく迷惑な親友である。でも香奈はなぜか理沙のことが憎めなかった。それはなんでも自分で決めかねる香奈の意志の弱さとは逆に、誰かれ関係なくグイグイ引っ張って行くパワーを持った理沙への憧れであり、またそれだからこそいつもそばにいれば頼れるという安心感からくるものでもあった。
本棚に囲われたこの場所から外は見えないが、もうだいぶ暗くなっているだろう。
静かな図書館に理沙の小さな鼻歌が響いている。そんな理沙の後を追いながら、香奈はふと近くの本棚に目が止まった。
「あ、こんな本がこんなとこにあるんだー。」
それは香奈の好きな料理の本だった。手に取ってみると見たこともないレシピがたくさん載っている。料理が趣味の香奈にとっては少し得した気分になった。別の本に目をやると、そちらもまた魅力のあるメニューが本のタスキに宣伝されている。香奈はその場で数冊の本を引っ張り出してパラパラとめくり始めた。
「何やってんの?帰んないの?」
理沙は香奈に気づいて近付いて来た。
「あ、うん、ちょっと気になる本みつけたから……。ちょっとだけ見せてくれない?」
香奈の目が今までと違って生き生きしている。だが理沙はそんなこと全然興味がない。
「えー?また今度でいいじゃん。帰ろうよお。」
「ちょっとだけ。ほんのちょっとだけだからさ。わぁー!こんなレシピまで書いてるんだ!」
香奈はどうやら完全に心を奪われたみたいだ。理沙はすぐにあきらめてしまって、肩の力を落とした。
「んじゃアタシ先に帰るからねー。どうぞごゆっくりー。」
無気力に手を振ってその場を立ち去ってしまう理沙。香奈は本に目をやったままで理沙の方に小さく手を振った。
「うん、またねー。バイバーイ。」
それは本当に儀礼的な挨拶でしかなかった。
三:ありえないシチュエーション
香奈が気付くと、あたりに人の気配はなかった。もう少し見ていたいが、これ以上遅くなっても困る。香奈は手にした本を元に戻すと、この場所を忘れないようにしようと思った。そして他に面白い本が置いてないか、あたりを見回した。すると更に奥に続く道の先に、なにやら不自然な灯りが見えている。香奈は図書委員として何度もこの図書室に来ているが、この先は何もなかったはずである。なぜあんな所に灯りがあるんだろうと不思議に思った香奈は、ゆっくりと灯りの方へ近付いて行った。
その場所に来て少し驚いた。壁しかないと思っていたその場所に鉄の扉があって、扉は開いていたのだ。中はそう広くない部屋があって、電気が点けられている。もちろん、中も大量の本が背の高い本棚にびっしりと並んでいて、カビと印刷の匂いが充満している。
「そっか。いつもは閉まってる扉なんだ。誰が開けたんだろ……。」
心の中でそうつぶやきながら、香奈は部屋の中に足を踏み入れた。そう広くないと言っても、香奈の教室の二倍はあるだろう広さの中に、所狭しと並んだ本棚。その本棚には隙間ひとつなく本が埋まっている。もちろんこちらの本棚の高さも四メートル以上あるものばかりだ。本棚と本棚の間は一メートルほどの幅しかなく、見上げれば両方の本棚に押しつぶされそうに思えてくる。
そんな静まりかえった図書室の中を、足音を押し殺すようにゆっくりと歩く香奈。本棚の本はどれも古くて難しそうで、見たこともない本ばかりだった。本棚のいくつかには梯子が立てかけてあって、上の方の本を取れるようになっている。でもその場所にどんな本が置いてあるのか、下から見上げただけではすぐに判別などできはしない。
むせ返るような古びた本の香りが香奈を包み込む。そんな中で香奈は並べてある本の背表紙をゆっくりとながめながら部屋の突き当たりまで歩いて来たが、ふとあるものを見つけて立ち止まった。それは本棚の脇に打ち付けられたネームプレートだ。そこには『古代料理関連』と達筆で書かれていた。とたんに香奈の好奇心に火がついた。すぐにその場に近寄って一冊の本を選んでみる。うっすらとホコリがたまっているその本には古い日本語で『痩身食事法』と書かれていた。
「これって、もしかしてダイエットレシピ?おおー!」
小声で嬉しそうにつぶやいた香奈は、そのホコリまみれの本を開く。とたんに香奈の目の色が変わった。そこにあるものは初めて見る料理ばかりだった。しかもそのどれもが実に美味しそうだ。香奈は興奮してパラパラとページをめくると、その本を小脇に抱えて別の本を引っ張り出した。その本もまた、香奈を興奮させるに十分の内容だった。そしてまた次の本に手を伸ばす。見る間に香奈の胸に抱かれた本はどんどん増えていった。もう持ちきれないほどになった重たい本を、それでも香奈は腹に乗せるように抱えながら別の本棚に目をやる。足元の床には本棚を止めておくための出っ張ったフックがあるとも知らずに。香奈はお約束のようにそのフックに足を引っ掛けてしまい、思いっきりバランスを崩してしまったのだ。
「あっ!」
香奈の小さな声が上がったかと思うと、胸に抱えた本がその場にバラバラと崩れた。香奈は思わず近くの柱に手を伸ばした。だがそれは柱ではなく、梯子だった。梯子はしっかり固定されていないため、香奈の体重で大きく傾いた。そして香奈はその場に尻餅をつき、梯子は斜め四十五度にまで傾いてから別の本棚に引っかかって止まった。
「うわぁーっ!」
と、その時に大きな声が香奈の頭上でしたかと思ったら、香奈のすぐそばにドサッっと人が落ちてきた。香奈は驚いて両手で口を覆った。落ちてきたのは人間だ。それも男子生徒のようだ。彼は床に叩きつけられたまま身動きひとつしない。香奈はあまりの驚きのために一体何が起きたのか理解できずにじっと男子生徒を見つめていた。だがいつまでたっても彼が動く気配はなかった。
「あ、あ、あの……。」
香奈は震える声で男子生徒に声をかけた。しかし男子生徒はまったく反応を見せない。もしや死んでしまったのではないのだろうか。だとしたら自分は殺人犯になってしまうじゃないか。と、そんなことさえ考えて、ますます不安に包まれる香奈だった。
男子生徒は顔を下に向けたまま動こうとはしない。ただ、かすかに呼吸しているらしく、細身の背中がゆっくりと動いているのが確認できる。死んではないみたいだと思った香奈は、そっと彼に近付くと顔をのぞきこんでみた。そして思わず「あっ!」と小さな声をあげて驚いた。それもそのはず、そこで気を失っている男子生徒こそ、さっき理沙とも話していた香奈の片思いの相手、三上智樹だったのである。
「み、三上クン……、どうしてこんな所に……?」
小さな声でそう言ったものの、三上に意識はないようだ。特に血が流れているようにも見えないが、梯子の上から落ちて頭を打ったことは紛れもない事実だ。香奈は少しうろたえたが、誰かを呼ばなくてはということにやっと気づいて部屋の扉まで駆け出した。だがそこでも香奈は、飛び上がって驚くことになってしまった。さっき入って来た時には開いていた扉が、今はしっかりと閉まっているのである。
「な、なんで?」
香奈は思いながらも扉に手をかけて力任せに開けてみた。だが扉はまったく動いてはくれない。それこそ鉄のかんぬきでも下りているように微動だにしなかったのだ。
「あ、あの……、ちょっと……、誰か……!」
香奈は扉に取りすがって弱々しく叫ぶ。だがそんな声では扉の向こうに人がいても聞こえはしないだろう。香奈はますます困惑して三上の所に戻ってみた。三上はさっきと同じかっこうで気をうしなったままである。香奈の目からは思わず涙がポロポロとこぼれてきた。
「どうしよう、どうしよう……、三上クン、起きて……、起きて……。」
香奈は三上の背中を軽く揺すりながらすすり泣きを始めた。だがそんなことをしていても三上が起きる気配はないし、もし三上が頭の骨でも折っていようものなら一刻も早く病院に連れて行かなくてはならない。そう思うと香奈には泣いているヒマなどないのだ。
やがて香奈は、自分がなんとかしなきゃという気持ちになって涙を拭いた。さてどうすればいいだろう。ここには本以外何もないではないか。と、香奈はあることに気づいた。本?そう、本だ。救急医療の本を探して対処すればいいじゃないか。香奈はすぐにその類の本を探すことを始めた。
目的の本は意外なほどすぐに見つかった。『図解・救急医療の対処法』と題名がある重たい本だ。喜び勇んで本をめくった香奈は、とたんにその内容を見てバタンと本を閉じた。なぜなら本の中には人間の解剖写真やむごたらしい事故写真がびっしりと掲載されていたからである。いきなりハードな本を見てしまい、気分を悪くしながら丁重に本を元に戻した香奈は、もっと初心者にも分かりやすい本はないものかと辺りを見回してみた。しかしここにあるのはその方面を極めたほどの専門家が読む類の本ばかりで、なかなか香奈のめがねにかなう本は見つからなかった。やがて香奈は別のジャンルの棚にも目を移す。それでもなかなか見つからない香奈は、とうとう童話のコーナーにまでやって来た。そこで香奈は一冊の本を手に取り、おもむろにページを開いてハッと息を飲んだ。そこに書かれているのはどうやら英語らしくて香奈にはとてもスラスラと読めないのだが、開いたところに描かれている挿絵に目を奪われたのである。それは「シンデレラ」か、あるいは「眠れる森の美女」だろう。森に眠る美女の唇に、たった今くちづけをして目覚めさそうとする美形の王子様が、まるで夢を見ているかのようなタッチで描かれていた。香奈はしばらくそのイラストを見つめていたが、やがて血走った目を床に倒れた三上の方に向けたかと思うと小さく舌なめずりをした。
そうなのだ。ここは密室。しかも誰も来る気配はない。この部屋にいるのはたったふたりっきり。相手は香奈がずっと恋心を抱いている三上智樹である。その三上はいま、意識を失って香奈の目の前で横たわっている。まさにまな板の上の鯉そのものだ。
「みっ、三上クンの目を覚まさすには、姫のくちづけしかないわ!」
ついに冷静な判断を失ってしまったのか、香奈は両手の拳を可愛く握り締めたかと思うと、三上が倒れた場所に膝をついて座り、三上の頭をそっと持ち上げた。美形の三上はまるで眠っているように穏やかな呼吸を続けている。細いブラウンの前髪がふわりと流れて、三上の長いまつげを揺らす。香奈の目はすでに血走っている。三上の頭をじっと掴んだまま、その唇めがけてゆっくりと顔を近づけていく。三上の呼吸が香奈の頬に届く距離までにくる。もう少しだ。もう少しで香奈は愛しい三上の唇に自分の唇を重ねられる。香奈は目標をロックすると、そっと目を閉じた。そして運命の瞬間を迎えるため、三上のぬくもりへと唇を突き出した。
四:狙われた唇
香奈の震える唇が、今にも三上の口にひっつこうとしたその時!
「ちょーっと待ったぁーっ!」
室内に響き渡るような大声を張り上げて本棚の影から飛び出して来たのは、なんと帰ったはずの理沙ではないか。香奈は血相を変えた理沙の顔を見るなり、持っていた三上の頭を放して飛びのいた。三上はまたしてもゴンというにぶい音を立てて後頭部を床に打ち付けた。
「り、理沙!なんでこんなトコにいんの!?」
「なんでじゃないよっ!あんた今なにしようとしてたんだよっ!」
理沙はなぜかものすごく興奮している。まるで百メートルを全力疾走して来たかのように肩で息をして香奈を睨みつけている。
「な、な、な、何って、その、あの、えと、いや、つまり、実は、そうじゃなくって……、」
たったいま自分がしようとしていたことの恥ずかしさのために、なぜこんな所に理沙がいるのかを問い詰めることも忘れてしどろもどろになってしまう香奈。そんな香奈に対して理沙はさらに追い討ちをかける。
「だいたいさ!あんたコクるのも無理って言ってたじゃん!なのに今の何だよ!いきなりキスかい!?え!?虫も殺さないような顔してサ!やることは手が早いんだから!このドロボーネコ!ぬけがけしようなんて百万年早いんだよっ!」
理沙はめちゃくちゃ興奮してまくしたてる。だから逆に香奈の方が冷静さを取り戻してしまった。
「ぬ、ぬけがけ?ドロボーネコって……、理沙、それどういう意味?」
冷静に戻った香奈に突っ込まれて、理沙は思わず「しまった!」という顔をした。
「それに、だいたい理沙ってば一体どうしてここにいるの?ていうか、今までどこにいたの?先に帰ったんじゃないの?」
香奈はどんどん気づいてしまうので、理沙の勢いは完全にそがれてしまった。
「あ、あ、あはは。あ、あのね、えーっと……。じ、実はね……。」
一気に形勢は逆転してしまい、渋々白状することになてしまった理沙の話によると、あのあと理沙は香奈と別れてから図書室を出ようとしていた。すると三上が図書室に入って来たのが見えたのだ。三上は数冊の本を小脇に抱え、人目をはばかるように図書室の奥へ奥へと歩いて行く。その姿が妙に気になってしまった理沙は、三上に気づかれないようにそっと後を着けたのだ。やって来たのはこの小部屋。彼は勝手を心得ているかのように部屋の中へ入ると、目的の場所にやって来て梯子をかけた。そして上に登って本を探し、梯子の一番上にいるにも構わずにそこで本を読み始めたのだそうだ。
理沙は本棚の隅に隠れながら、いったい何の本を読んでいるんだろうと思案していたが、そこに姿を見せたのはなんと香奈ではないか。これはもしや何かあるのかも。もしかしてここで密会かも知れないという女の勘が激しくビンビンと感じてしまい、隠れてずっと様子を伺っていたのである。
そうしたところが香奈のドジのせいで三上は梯子から落ち、それを良いことに香奈は扉を閉めてしまい─のように理沙には見えた─、あまつさえキスを迫ろうとしたではないか。これは間違いなく女の勘が命中したと思い込み、興奮の末に飛び出して来たということだ。
「申し訳ないけど、その女のカン、百パーセントハズレてるわよ!それに扉はもう閉まってたの!」
香奈は腕組みをして理沙をにらみつけたが、理沙も負けずに香奈をみらみ返している。
「だったらさっき何しようとしてたんだよ?お互いの顔と顔を近づけて!」
それを言われると香奈は辛い。だがもうここは一歩も引けない状況でもある。だから香奈は観念して、というよりも開き直って理沙に言い放った。
「き、き、キスしようとしたのよ!」
香奈の言葉に、まるで鬼の首を取ったかのような得意満面の笑顔になった理沙。
「ほーら、やっぱり!だから油断もスキもないんだよね、この手のおっとり娘は。やるとなったら手が早いんだから!そういうのをぬけがけってんだよ!」
このあまりの言われように、さすがの香奈もプツンときた。
「ちょっと待ってよ!それどういう意味よ!私は三上クンが気を失って目を覚まさないから……。だから目を覚まさそうとして……、それで、キスを……」
「アンタって伝説級のバカやろうかよ!なんで頭打って倒れてんのにキスで目さますんだよ!延髄反射で物事かんがえてんじゃねーよ!」
「だ、だってどうすればいいか分かんないじゃん!せめてキスで目を覚ましてくれたらロマンチックかなーって……。」
「そんなことでキスなんかすんなっつーの!そんなことでキスすんならアタシが先にするわ!」
「なんでよ!なんで理沙が三上クンとキスしなきゃいけないワケ!?理沙なんてカンケーないじゃん!」
「カンケーあんの!」
「なんでカンケーあんのよっ!」
「なんでも!とにかくアタシも関係あんのっ!あるったらあんの!」
いつも理沙は強引だが、今日の理沙は特にめちゃくちゃだ。だから香奈もこればっかりは引けないとばかり意地になった。
「関係ないじゃない!三上クンのこと好きなのは私よっ!理沙は違うでしょ!」
すると理沙は、とうとう本音を暴露した。
「あ、アタシも三上クンのこと、好きなんだよっ!」
理沙の意外な告白に、香奈は大きな瞳をさらに大きくして理沙を見つめた。理沙は真っ赤な顔をしたまま、うつむいて何かをにらみつけている。そのまましばらく空白の時間が流れた。
「理沙!?マジ?」
やっと香奈がそうつぶやいた。理沙は相変わらずほっぺを膨らませて細い眉毛をヘの字にしていたが、そのまま軽くうなずいてみせた。香奈はそれを見てがっくりと肩の力を下ろした。
「ならなんでそう言ってくれなかったのよ!私だけに言わせておいて……。そんなの卑怯じゃん!」
香奈の言葉を聞いて、理沙は熱くなりすぎていた自分に気づいた。そして深い深呼吸をすると小さな声で「ゴメン」とつぶやいた。だがその後、また強い口調で香奈に話し始めた。
「だって、だってさ、香奈言ったじゃん。コクるつもりないって。ね、言ったよね!だからさ、だから……、その、安心してたんだよ……。その、別に香奈がコクらないからってアタシが出し抜こうってつもりはコレッポッチもなかったんだよ。マジで。」
そこまで言ってから理沙はやっと香奈の顔を見る。香奈はじっと理沙の方に向いていたが、もうやり合う気は失せたのか小さなため息をついたあと、倒れている三上の方に目をやった。
「そだ!そんなことより三上クンをなんとかしなきゃ。」
香奈は立ち上がるとさっきと同じように三上のそばに行き、彼の頭を両手で持ってじっと見つめた。
「ちょ!アンタまだキスするつもり!?」
「だって三上クン起こさなきゃ!起こすにはキスするしか方法がないの!」
香奈は完全にキスが最善の方法だと信じ込んでしまっている。
「ちょっと待った!それ論理ちがってるし!どうしてそういう結論になるのか全然イミ不明!」
「どうでもいいのよ!とにかく何かやってみないと分かんないじゃない!」
香奈がこんなに行動力があるなんて知らなかったと関心した理沙だったが、だからと言ってこのまま三上と香奈がキスするのを指をくわえてみているだけの理沙ではない。
「分かった!アタシが三上クンとキスする!それで文句なしよね。」
理沙がそんなことを言うものだから、また香奈は頭に来た。
「も!文句大アリよ!なんで理沙が三上クンとキスすんの!?ありえないでしょ!?」
「じゃあなんでアンタがキスする権利を持ってるワケ?それこそあり得ないじゃん!」
「わ、私が気を失わせたからよ!」
「アタシが先に見つけたのよ!」
「私が先に好きになったの!」
「アタシが先に声かけたモン!」
「私が先に名前覚えてもらえたわ!」
「アタシが先に……。」
五:出られない
ふたりの言い合いは延々と続く様相を呈していた。だがそろそろネタが尽きてきた頃になって、こんなことをしている場合じゃないと、遅ればせながらも気づき始めたようだ。
「わかった!もう分かったわよ!こうなったらふたりで同時にキスしましょう!」
「いいわ!望むところよ!」
という、とんでもなく的外れな位置で両者の合意を得た訳である。ちなみにこの場合の両者は香奈と理沙であって、キスされる側の三上には何の立場も与えられていない。そして仰向けに寝かされた哀れな三上の唇めがけて、香奈と理沙の唇が今ゆっくりと近付いている。
だいたいひとつの唇にふたつの唇を押しつけようというのだから、ふたつの唇側の顔が密着するのはあたりまえだ。げんに今、愛しい三上の唇まであと数センチという所まで迫っていて、香奈と理沙のお互いの頬は密着していた。そこで理沙が香奈をグッと押すものだから、香奈も負けじと押し返す。ふたりの顔が三上の顔の上で左右に行ったり来たりを繰り返している。
「ちょっと押さないでよ!キスできないじゃん!」
「理沙が押して来たんじゃない!そっち行ってよ!」
「押してなんかないってば!もう、窮屈だよっ!」
「押し付けないでよ!気持ちわるいーっ!」
「あんたが押し付けてんのよっ!」
「そっちよ!」
「そっちー!」
横に並んで四つんばいになったまま、ほっぺで押し合いをするふたりの女を傍から見ていた者がいたとしたら、どんなに哀れみを持った目になるだろう。だがそれはそう長くは続かなかった。体じゅうの力を頬に集中して理沙を押していた香奈は、やがてふっと力を抜くとその場から離れて立ち上がった。それで理沙は勢い余って三上の体の横に転がった。
「イテッ!何やってんのよ!」
理沙は立ち上がったが、香奈は理沙に背を向けて静かに言った。
「やめよう、こんなこと。おかしいよ……。」
「はあ!?なに言ってんの?あんたが始めたことじゃん!」
「だって、おかしいよ。眠ってる三上クンにキスしたって、こんなの本当の愛じゃない!」
「いやいやいやいやいや……。あんた言うことおかしいし!もともとそういうことで始めたワケじゃないでしょ?」
「でもさ、理沙!考えてみて!キスされて目を覚ました時、三上クン喜ぶと思う!?」
「いやぜんぜん言ってること的外れ……ってかアンタの天然もソートーなもんね。ここまでとは思わなかった!」
「じゃ、理沙はどうして三上クンにキスするワケ!?」
香奈が叫ぶと理沙は香奈の目の前にまで来てじっと目を見て答えた。
「あんたひとりにツバはつけさせたくないから!」
香奈はにっこり笑う理沙の顔を大きな目で見つめ返したが、けっきょく何も言うことはできなかった。理沙は三上の元に戻って頭を調べながら話を続ける。
「だいたいさ、キスで目が覚めるわけないじゃん。おとぎ話じゃあるまいし……。あ、あった!うわー、ひどいコブできてんなー。」
理沙は三上の後頭部にできた大きなコブを見つけて痛々しそうにそっと撫でた。三上の頬が少しピクッと動いたような気がした。
「そんなこと……、そんなこと、分かってたわよ!」
誰に聞かせるでもなくつぶやいた香奈は、その場にぺたりとへたり込んだ。
「分かってたのかよ。だったらもっと現実的に考えろよな。とにかくここから出なきゃ!」
三上の頭をそっと床に戻すと、理沙は閉められた扉のところまで行って力まかせに開けようとする。だが理沙の力をもってしても扉はまったく動く気配を見せない。
「マジかよ!ピクリともしねーなぁ。」
理沙は力を込めて何度か扉を開けようとしたがビクともしないために開けることをあきらめ、今度は扉とは反対側の壁へと移動した。そこにはみっつの小さな窓が床から二メートルくらいの場所に取り付けられていて、窓の大きさは五十センチ四方ほどだった。みっつの窓のどれもがとても頑丈そうで、曇りガラスのために外はまったく見えない。どうやら外はすっかり日が暮れてしまっているようで真っ暗だ。
理沙は近くの本棚から手ごろな本を一冊抜き出すと、おもむろに窓ガラスに向かって投げつけた。ハードカバーのがっしりした本にも関わらず、ガラスは少しのヒビもできずに本を跳ね返した。理沙は今度はもっと大きめの本を探し出すと、力いっぱい投げつけた。本は窓ガラスを直撃したが、やはりわずかな傷も与えることなくはじき返されて香奈の足元に転がった。
「理沙、やめてよ。ガラスなんか割ったら叱られちゃうよ!」
「バカ!ここで夜を明かせってえの?三上クンだって早くお医者に見せないとアンタと同じバカになっちゃうかも知れないじゃん!」
「バカバカ言うのやめてよ……。」
香奈はふくれっ面をしてうつむくと、スカートのポケットに入れた携帯ストラップのマスコットを指でいじくった。その時、香奈はハッとしてポケットに手を突っ込んだ。
「そだ!携帯!」
こんな時にこそ威力を発揮する文明の利器、携帯電話の存在をすっかり忘れていたではないか。香奈は思った。携帯を作ってくれたエラい博士さんありがとうと。だが次の瞬間、香奈はエラい博士のことを嫌いになってしまう。
「えー!?圏外!?」
キラキラの装飾を施した香奈の携帯のディスプレイにはアンテナ表示はなく、冷たい文字で『圏外』と記されていた。それを見た理沙もスカートのポケットから携帯を取り出して開いてみる。そこには同じように、『圏外』の文字が表示されていた。
「つっかえねー!」
圏外表示の携帯ほど情けないものもないだろう。理沙はなんとかアンテナが立つ場所がないかどうか、手にした携帯を様々な角度にしたり、揺らしたり突き出したりしたが、圏外の文字は消えることはなかった。
六:小部屋の主
「三上クン……、三上クン……起きて……。」
香奈は三上の傍で肩を何度か揺すってみる。だが三上はまったく無反応である。理沙は携帯をあきらめて香奈のもとに戻ると、三上の後頭部のコブを再確認した。
「これ、やっぱ冷やさないといけないかなあ。」
「冷やす?だってここ、冷蔵庫なんてないし……。」
「水でもあればいいのにな……。」
理沙がボソッとつぶやいた。とたん、香奈はハッと頭を上げた。
「あ!そう言えば……!」
香奈は突然立ち上がった。だが理沙はあまり香奈には期待してなかった。
「なに?今度は雨乞いでもしようってえの?」
理沙が冗談を言うと、香奈はふくれっ面をしながら叫んだ。
「違うよ!この部屋の奥にトイレがあるの!本を探してた時に見たのよ!」
今度は理沙も勢いよく立ち上がらずにはいられなかった。
「どうしてそんな大事なこと早く言わないんだよ!」
「だっておトイレまだしたくなかったんだもん!」
偉そうに言うことではない。とりあえず香奈の天然を後回しにして、理沙は香奈が指差す部屋の奥へと向かった。なるほど、そこは部屋の一番奥にあたる場所で、理沙が隠れて香奈を見張っていた所からは反対側にあたるために理沙は気づかなかった。古めかしい小さな木の扉。扉の上には金属のプレートで『WC』と刻印されている。これで水と排泄が確保されたことになるし、うまく行けば窓から出られるかも知れない。理沙と香奈は期待に胸を膨らませてトイレのノブに手をかけようとした。
その時、トイレの中からザーッという水を流す音が聞こえてきたかと思うと、その扉が向こう側からスッと開き、ひとりの男子生徒が姿を見せたのである。
「お、尾崎!」「尾崎クン!」
香奈と理沙は彼を見るなり同時に叫んだ。トイレから出て来た男子はクラスメートの尾崎淳ではないか。尾崎はトイレから出て来ていきなりふたりの女子に見つめられ、唖然としている。
「あれ?内藤と千野?お前らこんなトコで何してんの?」
「尾崎こそ、こんな所で何してんだよ!」
「な、何って……、トイレですることってったらクソだろうがよ!」
その尾崎のデリカシーのないぶっきらぼうな答えに二人の女子はトイレを流す音が聞こえなくなるまで引きつった顔で小太りの尾崎をにらみつけていた。
七:まさかのひとこと
「いつからトイレにいたんだよ!?」
「んー、一時間くらいかな。オレ便秘症でさ。そのくらいフツーなんだよな。長い時には二時間なんてヘーキだよ。はは……。なんか出しきらないと気持ち悪くてさ。」
「二時間って……。ったく!どんな肛門してんだよ!」
尻と頭をボリボリかく尾崎に、嫌悪感まるだしの理沙は吐き捨てながらトイレの中を調べる。
「なんだ?俺のケツが見たいのか?。」
尾崎はぶっきらぼうに言うが、理沙はまったく相手にせずに手洗い場から便座の方へと見て回った。そこは家庭のトイレのように人ひとり分ほどのスペースしかなく、鏡のついた手洗いが一組と、奥に個室がひとつあって洋式便器が取り付けられている。小さな個室は今まで尾崎がずっと座っていただけに少し生暖かくて汗の匂いがする。天井には通気口があって換気扇が回っているが窓はない。壁はどうやらコンクリートのようだ。出口らしきものは見つからなかった。
「ダメ!出口ないよ。」
がっかりして出て来た理沙を腕組みしながら見ている尾崎。
「なんなんだよ!どうかしたのか?なんかあった?」
こんなトイレに一時間も平然と座っていられるほど神経の図太いヤツなど見たこともないという風にアゴを突き出しながら歩み出た理沙は、汗臭い尾崎のカッターシャツの胸元を人差し指で穴が開くくらい突付いた。
「アンタ、いったいどうしてこんな所にいんのよ!いつ、ここにどうやって来たの?」
「な、なんだよ!オレが何したってんだよ。オレはただ急にクソがしたくなっただけじゃんかよ!」
理沙に突付かれてたまらず後によろける尾崎。だが理沙は突付くその手をやめようとはしない。
「なんで校舎のトイレに行かねーんだよ!なんでここにいた!?」
「たまたま図書室にいたんだよ!そしたら久しぶりにモヨオしたんだよ!で、トイレ探そうかと思ったら、そこに三上のヤツが来てさ。アイツ、図書室けっこう来てるみたいだから、トイレどこだって聞いたんだ。そしたら、一番近いのはここだって言われてさ。で、さっさと飛び込んで、後はずっと座ってたんだけど、それが何か?」
言われて理沙は思い出した。そう言えばさっき図書室で三上の後を着けている時、この部屋の手前で三上が誰かと話しているのを見た覚えがある。相手の姿は本棚の陰になってよく見えなかったが、男子らしいということは服装で見て取れた。あれが尾崎だったんだ。
「いったい何だってんだよ。どうしてそんなこと聞くんだよ。」
女子トイレに入っていたわけでもないし、問い詰められる理由が分からない尾崎は納得がいかない。だが何も言わない理沙たちの歩いて行った先で、尾崎は床に倒れている三上を見つけることになる。
「あれ?三上じゃん。どうしたんだよ、コイツ。何かあったのか?」
「梯子から落ちて意識がないのよ。どうしても起きてくれなくて……。」
香奈が三上の傍に座り込んで不安そうに三上を見る。尾崎は三上に近付くと、じっと三上の顔をのぞきこんだ。
「息してるから生きてるようだな。くすぐってみたらどうだ?」
「ちょっと、尾崎クン!そんなことするもんじゃないよ!」
香奈は怪訝な顔をしたが、尾崎は構わず人差し指で三上の脇のあたりをつついてみた。すると三上の頬がピクンと動いた。
「お!反応あったぞ!よおーっし、今度は本格的に……!」
尾崎は両手の指をカギ型に曲げると、三上の両脇をまさぐり始める。
「ほら、こちょこちょこちょこちょこちょ……。」
タランチュラが這い回るように尾崎の太い指が三上の胸から両脇を行ったり来たりする。と、三上の顔がぐにゅーっとゆがんで、「むふふふふふ……」という奇妙な笑い声が響いてきた。
「いいぞ!こちょこちょこちょこちょこちょ……。」
「むひゅ、むひゅ、むひゅひゅひゅひゅひゅ……。」
「いひひ……、そーれ、もう少し、こちょこちょこちょ……。」
「うひ、うひ、うひひひひひ……。」
次第に手足をばたつかせ始めた三上だったが、ついに堪えきれなくなったのかパッチリ目を開いて上半身だけ飛び起きた。
「きゃ!」
三上が急に起き上がったので香奈は思わず叫んだ。三上は体を起こして辺りを見回そうとしたが、いきなり顔を苦痛にゆがめたかと思うと後頭部を抑えて丸くなった。
「みっ、三上クン!大丈夫!?」
香奈が叫んで三上の肩に手をかける。それを見た理沙は、駆けつけるなり尾崎を突き飛ばして三上の前に座り込む。
「三上クン!痛む?しっかりして!」
「イッテぇー!なんだよオイ!えらい扱いちがうじゃねーかよ!」
尾崎は横に転がって不満をぶちまけた。
「ちぇっ!やってらんねーよ、バカバカしい!オレはもう帰るからな!」
尾崎はバカを見たというような顔をしながら立ち上がると、さっさと扉の方へ歩いて行って、思いっきり扉を開けようとした。だが扉はまったく開かない。まるでコンクリートで固めてあるようにピクリともしないのだ。
「ちょっ!なんだよコレ!どうなってやがんだよ!」
尾崎は慢心の力を込めて扉を開けようとする。しかしいくらやっても無駄なのである。
「おい!これどうなってんだよ!開かねえぞ!」
香奈たちの方に向かって叫ぶ尾崎。
「うっさい!いちいちでかい声出さなくてもわかってるよ!」
理沙が叫んだあと、香奈が補足するように尾崎に言う。
「閉じ込められちゃったのよ。ここから出られないの。……私のせいなの……。」
そう言ってふさぎこむ香奈を理沙がフォローした。
「閉じ込められたのは香奈のせいじゃないっしょ。三上クンのコブはそうだけど……。」
香奈は一瞬泣きそうになって三上に深々と頭を下げた。
「ゴメンナサイ!ゴメンナサイ!」
必死で謝る香奈を手で制した三上は、後頭部をなでながら状況を把握しようとする。
「あ、オ、オレ、どうなったんだ?梯子の上で本読んでたハズなんだけど……。落ちちゃった?」
「うん、ゴメンナサイ!私が転んで、三上クンの梯子を倒しちゃったの。それで三上クン……。」
香奈はもう涙ぐんでいる。三上はそんな香奈の涙を見て恥ずかしそうにうつむいた。
「そ、そっか。も、もういいよ。泣くなよ。オレ、大丈夫だからさ……。」
全然大丈夫そうではないが、そんなふたりのお熱い様をのんびり見ているほど尾崎もお人よしではない。実に不機嫌そうに短いため息を吐き出したかと思ったら、また扉にとりついて両手をバンバン叩き始めた。
「おーい!誰かーっ!開けてくれーっ!助けてくれーっ!せんせーい!」
尾崎は何度も扉を叩いたり蹴り飛ばしたりしながら大声で叫んでいる。だが扉は開くどころか、まるで分厚い鋼鉄のように揺れもしない。扉と言うよりは壁そのものだ。尾崎は何度かそれを繰り返したが、やがて矛先を向かい側の壁にある窓へと向けた。
まず尾崎は窓を開けようとしたのだが、どうやらはめ込み式の開かない窓らしくビクともしなかった。それで理沙がやった時とおなじように丈夫そうな本を適当に選ぶと、その本で思いっきり窓を打ち付けた。見ていた者はみんなガラスが粉々に砕け散ると思った。だが本はやすやすと跳ね返され、窓ガラスは無傷なままだった。
「なっ!なんなんだよ、このガラス!防弾ガラスか何かか?」
尾崎は二度、三度と窓ガラスに本をぶつけた。だが窓ガラスはまったく割れることなく、逆に本が潰れていくのだ。尾崎はこめかみに血管を浮き出させると、潰れた本をその場に投げ捨てて小さめの脚立を両手で掴んだ。
「ちょ!尾崎、危ないよ!ケガしたらどうすんのさ!」
「うっせえ!」
理沙の制止も聞かず、脚立を頭の上に振り上げた尾崎は窓ガラス目がけて投げ下ろした。ガッキーンという激しい金属音が室内に響き渡ったかと思ったら、尾崎は後ろに吹っ飛ばされて尻餅をついた。その傍に脚立が派手な音を立てながら転がった。窓ガラスはやっぱり無傷だった。
「ウソだろ、おい!どんなガラス使ってんだよ、この学校は……。」
尾崎もさすがにここまでくると怒りを忘れて呆れてしまったようだ。すると三上は床に散らばった本を見つめたままで静かにつぶやいた。
「もうよせよ、尾崎。どうやったって、人間の力じゃ無理なんだよ……。」
尾崎も理沙も香奈も、今の言葉に驚いて三上を見つめた。
「はァ!?三上、それどういう意味だよ!」
尾崎が立ち上がって三上の傍に近寄る。理沙も香奈も三上が何を言っているのか理解ができなかった。三上は床に座ってうつむいたままで散乱した本を見つめている。そして苦しそうに言葉を吐き出す。
「……すまない、みんな……。オレの、オレのせいでこんなことになっちまって……。」
「なんでお前のせいなんだよ!?」
「み、三上クン、それ、どういう意味?」
「オレのせいって、どういうこと?」
みんな早く理由が知りたくて一斉に質問をぶつける。三上はそれでもすぐに答えずにゆっくりとみんなの顔を見回してから、また床に散らかった本に視線を戻すと信じられないことを言った。
「じつは、オレ……、魔法使いなんだ……!」
八:密室の抵抗
「はあ!?」
三人は同時に叫んで三上を見つめた。だが次の言葉がまったく思いつかなかった。今の三上のセリフをどう理解すればいいのだろう。
「あの……、えっと……、その……。」
香奈は思考回路がすでにオーバーヒートしてきたらしい。すると尾崎がいまいましそうに「ハッ!」と声をあげて息を吐き出した。
「いいかげんにしろよ!こんな時によくそんなバカな冗談言えんな!」
そう言って尾崎はまた窓の方へ戻って行くと、どこかに隙間のようなものはないか探し始めた。
理沙は三上にそっと近付くと、おでこに手を当てて不安の色をいっそう濃くした。
「やっぱり頭打ったんだ。これ、病院は病院でも精神病院に入院かも……。」
「みかみくぅーん……!」
理沙がそんなことを言うものだから、香奈の涙がまたあふれて来る。三上は困った顔をしながら香奈の肩を軽く叩いて不思議な話を始めた。
「信じてもらえないのは分かってる。でも絶対この部屋からは出られないんだ。これは事実なんだからしょうがない。オレが閉じこもりの魔法をかけたんだよ。だからこの部屋は完全に閉鎖されてしまったんだ。」
「閉じこもりの魔法?それってなあに?」
香奈は涙で濡れた瞳を丸くしている。三上はフッと優しそうな目をして香奈を見つめた。
「この部屋、実は特別な部屋なんだ。魔法を使える先生が管理しててね。魔法を使える生徒にだけ教えてくれてるんだ。この部屋に置いてある本はぜんぶ魔法に関係する書物か、なんらかの魔力がかけられてある特別のものなんだ。例えばこの本の場合だと……。」
三上は自分の近くに落ちている本を拾い上げてページをめくった。それは香奈が抱えていた料理のレシピ集だった。
「そう。これは中世の時代に魔女が考案した魔力を高めるためのレシピなんだ。一般の人には理解できないように書かれているけどね。」
「本当なの?本当に三上クンは魔法使いなの?」
まるで白馬の王子様に出会ったように目を輝かせて三上を見つめる香奈。
「で、でも、そんな……、ウソでしょ?」
普段の理沙なら笑い飛ばしてしまうだろうが、なぜか信じなくてはいけないような雰囲気を三上が漂わせているために少なからずも『もしや』と思い始めている。そんなふたりを尾崎が怒鳴りつける。
「よせよ!そいつ、頭打ったせいでおかしくなっちまったんだ!それよりはやくここから出ないと……。おーい、誰かー!開けてくれー!助けてくれーっ!」
尾崎はキズもつかない窓をあきらめると、扉に戻って拳でドンドンと叩きながら大声をあげた。だが扉はまったく無表情のままだった。二〜三度、扉に対して同じことを繰り返した尾崎は、ふたたび窓の方へとって返し、窓に対しても拳を振り上げながら外にいるかも知れない人に大声で叫んだ。
「おーい!誰かいねーのかっ!助けてくれーっ!」
何度も何度も窓を叩いて叫ぶ尾崎。だが窓はまったく壊れる様子もなく、誰かが気づいた気配もない。
「ちょっと!いい加減にしなよ!うるせえよ!」
騒音を繰り返す尾崎に対して、とうとう理沙が立ち上がった。すると香奈も尾崎に向かって弱々しく言った。
「そうよ!図書室で大声を出すなんて、どうかしてるわ!」
理沙はそういう問題じゃないでしょうという目で香奈をにらみつけたが何も口には出さなかった。尾崎は肩で息をしながら近くにあった本を窓に投げつけた。
「ちっきしょう!」
本は窓ガラスを直撃したが、少しのキズも与えられずに跳ね返って床に落ちた。その本に目もくれずに尾崎は声を荒げる。
「じゃあ何か?お前らも魔法信じたのかよ!?俺ら、ここからずっと出られねえってえのかよ!?」
「そうは言ってない!でもちょっと冷静になんなよ!みっともないよ!」
理沙は尾崎が少しパニクっているのを感じていた。だが尾崎の顔は奮起の色を隠せないでいる。
「だってよ!冷静にったって……!どうすりゃいいんだよっ!」
興奮する尾崎の横にゆっくりと近付いて来た理沙は、窓の方に顔を向けて静かに目を閉じた。
「ちょっと静かにしなよ!ほら、何か聞こえる?」
見ると理沙は窓の方から何かを聞こうとしていた。そこで尾崎も耳を澄まして窓の外の物音に神経を集中した。だが聞こえるのは自分の激しい息遣いだけで、それ以外は何も聞こえて来ない。
「な、なんも聞こえねーぞ!?何が聞こえるんだ?」
しばらくして尾崎が理沙に尋ねた。理沙は目を閉じたまま冷静に答えた。
「何も……。何も聞こえないよ。」
「はあ!?」
尾崎はいっしゅん理沙に小ばかにされたのかと思った。だがそうではなかった。
「何も聞こえないよね!これ、おかしいと思わない?たしかこの窓の向こうは国道が走ってんのよ!いくら学校の塀があるからって、こんなに静かなのっておかしいじゃん!」
理沙に言われて尾崎もハッとした。
「た、確かに!窓しめててもこんなに静かなワケねーよな。ゾクのバイクとか、救急車の音とかはけっこうしてたもんな。」
尾崎はうなづきながらそう言ったが、しばらくしてからハッと何かに気づいて笑い出した。
「はっ、あははははは……、あーぶねえ危ねえ!うっかりひっかかる所だった!その手は喰わねえよ!」
尾崎は窓のそばに行くと耳を押し付けてみる。
「国道の音が聞こえたのは校舎の方じゃねえか。図書室とは造りが違うしさ。聞こえねえからって、そんなことで魔法があるとは言えねえぜ。」
「誰が魔法があるって言ったよ。聞こえないのはおかしいって言ってんのよ。」
理沙はふてくされたように尾崎にガンを飛ばしながら三上の方へ戻った。尾崎はフンと鼻を鳴らすと窓際の床にあぐらをかいて座り込み、ポケットから携帯を取り出して開いた。
「チッ!携帯まで圏外かよ!いったいどうなってやがんだ!」
尾崎はいまいましそうな顔をしながら携帯の位置や角度を変えて、電波が入らないか探している。
九:消える望み
「ねえ、三上クンの頭、冷やした方がいいよね。私、お水でハンカチを濡らしてくるね。」
香奈は三上が頭のコブを痛そうにしているのに気づいて立ち上がり、トイレに向かった。するとあぐらをかいたままの尾崎が携帯を折りたたみながら言った。
「あ、内藤。言っとくけどトイレの水なら出ねえぞ。さっき出してみたけど、錆まじりの赤い水がちょろっと出ただけさ。中で詰まってんじゃねえか?」
「え!?マジで?」
とたんに香奈の顔は曇る。同時に理沙が嫌な顔をしながら尾崎を見つめる。
「ってコトは、あんたさっきトイレ行って一時間も座ってながら手洗ってないんだ!キッタネー!」
理沙と香奈がものすごく汚いモノを見る目で尾崎を見つめた。尾崎はまたしても真っ赤になる。
「う、うっせいよっ!しょうがねえだろう!出ねえもんどうしろってんだよ!」
「しょうがないけどサ、その手でアタシら触わんないでよね!」
腕組みをしながら鼻の頭にシワを集める理沙は実にむかつく態度だ。香奈はわざわざ尾崎の半径一メートルを避けるように歩いてトイレに行くと、トイレの手洗いの蛇口をひねってみた。たしかに水はまったく出なかった。どうやら出ないのは手洗いの方だけで、便器の水は普通に流れることも判明した。だがそちらの水でハンカチを濡らすわけにはいかなかったので、香奈は水をあきらめて三上の傍に戻った。
「ゴメンナサイ。お水がなくって……。」
「いや、いいよ。だいぶ痛みも収まってきてるみたいだし。」
三上は無理に笑みを作って見せたが、実際はまだズキズキしているようだ。香奈はそんな三上の笑顔を間近で見れて鼓動が早くなるのを感じた。顔が赤くなるのをなんとかごまかそうと思った香奈は、三上の話が途中になっていたことに気づいた。
「あ、そうだ、三上クン。さっき言ってた『閉じこもりの魔法』って、どういうこと?」
「ああ、そう言えば話が途中だったね。」
三上は香奈から目を離すと、また床に散らばった本を見た。それで香奈は少しホッとした。こんな近くで三上の横顔を見つめていられるなんてまるで夢のようだ。そんな香奈の気持ちを知ってか知らずか、三上は寂しそうな声で話を始めた。
「そう。最近オレの心の中にある変化があったんだ。詳しくは言えないけどね。それで、オレはちょっと塞いでたんだ。」
「何があったの?」
香奈が言うと、三上は香奈を見ずに含み笑いをした。
「それは……、言えないよ……。」
三上のその言葉を聞いて、理沙はハッと何かに気づいた。それはいわゆる女のカンという奴だ。だが理沙は何も言わなかった。三上の話は続く。
「とにかく今のオレは、言ってみれば貝の中に閉じこもってしまいたいって、そんな心境だったんだ。それでさ、そういう魔法がなかったかなって、ここに来てみたんだ。そしたらちょうど良さそうなのを見つけてさ。試しに呪文を唱えてみたんだよ。
どうやら魔法は成功したみたいだった。でもそのとき急に梯子が大きく傾いて……。スローモーションのように宙に放り出されたと思ったら激しい衝撃があって……。気がついてみるとオレは床で寝てた。」
「ゴメンナサイ!本当に、ゴメンナサイ……。」
香奈がしきりに謝る。すると理沙が床に座った三上の前にまで歩み出た。
「ねえ。その『閉じこもりの魔法』っての、解けないの?」
三上は理沙を見上げたが、ミニスカートの中身が見えそうなのに驚いて視線をそむける。
「たぶんできるよ。でも……。あの本が必要なんだ。呪文が載っている本が……。あれがないと呪文の解呪法がわからない。」
「その本、どこに行ったの?」
「それが、見当たらないんだ。梯子から落ちる直前までは確かに手に持ってた。だから床に散らばった中にあるだろうと思ってさっきから探してたんだけど、どこにもないんだ。」
何冊もの本が三上のまわりに散らばっている。香奈が胸に抱いていた本の他に、梯子が倒れる時に巻き添えになった本も多くあるようだ。だがその中に、三上が探す本はないのだそうだ。するとまたあぐらをかいたままの尾崎が大きな声をあげた。
「いいかげんにしろよな、魔法だなんてバカバカしい話は!『ケリー・バッカーと魔法の城』じゃあるまいし!」
「いや、それ微妙にタイトル違ってるし!」
熟練の漫才師も絶賛するほどの間合いで理沙がツッコミを入れる。
「じゃあ本が見つかればここから出られるのよね!」
「ああ、たぶんね。でもここに落ちてる本の中にはないんだよ。」
二〜三十冊ほど散らばった本を指して、三上は力なく言った。香奈は不安そうな顔をいっそう曇らせた。
「それじゃ私たち、一生ここから出られないの?ずっとここで生きていくの?ここで年老いて死んでいくの?」
香奈はそう言って悲観する一方、心の中では三上と一緒にずっとこの場所でいられるのもいいかもなどという思いがよぎって少し嬉しかった。だがそんな考えを理沙が粉砕する。
「あんたホント馬鹿だね!年老いてくワケねーだろ!食い物も水もないんだから三日ももたねーよ!」
「あ、そっか……。」
香奈はようやく現実の危機に直面したようだ。
「と、とにかく本をさがしましょうよ!その本があれば出られるんだから、ね!みんなで手分けして……。」
香奈がやっと前向きな意見を言ったが、尾崎は鼻で笑う。
「よせよせ!何マジメにとってんだよ。そんなウソ話に付き合ったって腹が減るだけだ!」
そう言って尾崎はその場に寝っころがってしまった。続けて理沙も、
「そうね。探すっていってもアタシたちはどんな本か分からないだろうし。三上クンに探してもらうしかないよね。」と、香奈をがっかりさせる。理沙はなおも続けた。
「それよりこんな夜遅くまで帰らないとなると、親とかが心配して探してくれるんじゃない?ねえ、尾崎ん家なんかけっこう心配性なんじゃないの?」
すると尾崎は寝っころがったままで手をブラブラと左右に振った。
「あー、ダメダメ。オレん家はそのテの期待はできねえな。なんせオレの親なんかしょっちゅう家あけてっから。オレが家にいるかいないかなんて関知してねーよ。千野ん家の親にまかせるよ。」
「アタシんトコも無理だよ。母娘ふたりっきりの家庭でさ。しかも母親、今日は夜勤で家にいないんだよね。」
「理沙のお母さん、看護士さんだったもんね。」
香奈がそう言ってから三上の方を見た。
「三上クンとこは?」
「あ、オレは、ひとり暮らしなんだ、実は。オレ、田舎から出てきてっから……。」
「え、そうなんだ……。」
香奈はちょっと驚いた。そんな香奈の肩をポンと叩いて理沙が言う。
「やっぱこういう時はお嬢様のアンタが本命だよね。」
だが香奈はすまなそうに顔をうなだれた。
「あ、その……、どっかなあ……。パパはずっと出張中だし……。それに私のママって、私の数倍上を行く天然なんだよね。私が三日くらい家にいなくっても気づかないかも知れない……。」
「どんな親だよ!」
これで全員、親には期待できないという驚愕の事実が明らかになった訳である。
「で、でもさ、明日になったら先生が気づくっしょ、いくらなんでも。てことは今夜一晩の我慢かな……。」
どうやら今夜はこのメンバーで図書室お泊りが濃厚になってしまったようだと腹をくくる理沙は、また立ち上がると室内を歩き始めたのである。
「ちぇーっ!今夜は帰れねーのかよ!あー、今日は彦六先生の最終回じゃねーか!録画予約してねー!」
「こんな時にドラマかよ!っつうか、もちっと真剣に悩めよ!」
尾崎と理沙のボケツッコミは相変わらず絶頂を極めている。
十:圏外という名の壁
それからしばらくの間、閉じ込められた四人はそれぞれの時間を過ごしていた。三上は本を探すことにして、香奈はそれを手伝った。散らかった本はもとより、梯子を登って本棚の上に並ぶ本まで丁寧に見て回ったが、目的の本はどこにも発見できないと三上は言った。
尾崎はふてくされて寝ていたかと思ったら急に立ち上がって窓を叩きながら助けを呼んだり、扉にタックルをかましたりを繰り返し、それが疲れたらまたゴロンと横になった。理沙は意味もなく室内を歩き回っては尾崎のすることにツッコミを入れていた。夜はすっかり更けているようだ。
「あー……、腹へったー……、ノド乾いたー……。」
「あんだけ叫びまくってりゃそうなるだろうよ。ホンット、馬鹿なんだから。」
本当にノビてしまっている尾崎を冷ややかな目で蔑みながら、理沙は相変わらず室内をゆっくり歩きまわっている。どうやら手には携帯を持っている。だが圏外である以上、電話はおろかメールすらできない。
三上は本を探すのをあきらめ、床に座って本棚に寄りかかっている。コブの痛みはだいぶ落ち着いてきたようだ。香奈は散らかった本を整理して本棚の元の場所に戻し終えていた。
「おかしいなあ。確かに本は手に持ってたのに……。」
三上は落ちる時のことを必死で思い出そうとしている。
「よせよ三上。もういい加減ウソだってみんな気づいてんだからさ。そこまでやんなくったっていいさ。」
空腹で元気のない尾崎が横になったままで力なく言う。そんな尾崎を三上はまったく相手にはしなかった。尾崎はそれが少しむかついて、三上の方に乗り出してきた。
「おい、三上。もし本当に魔法が使えるんなら、それを証明して見せてくれよ。」
三上は尾崎の言葉に含み笑いを見せた。
「尾崎、魔法は証明するものじゃないよ。信じるものなんだ。」
「ハッ!言ってくれるぜ!」
尾崎は体を起こしてあぐらをかいた。
「じゃあ信じさせてくれよ。オレは腹へってんだ。魔法で食べ物を出してくれねえか!」
「尾崎クン、やめてよ!」
「内藤だって腹減ってるだろ!?せめて飲み物ぐらい欲しいだろ!?魔法があるんなら出してくれたっていいじゃんかよ!そうだろ?」
確かに尾崎の言うことには一理ある。だが香奈を気にしながら三上はすまなさそうに言った。
「悪いが今は他の魔法は使えないんだ。」
「なんでだよ!」
「『閉じこもりの魔法』の効果が切れてないからだ。この魔法効果が切れるまでは他の魔法は唱えられないんだ。同時にいくつもの魔法を唱えられるほど魔法は都合の良いものじゃないんだよ。」
尾崎は一瞬、してやったりといった顔をしてほくそ笑んだ。
「オレには都合の良い詭弁に聞こえるけどな!」
言って尾崎はまたゴロンと横になった。三上はもう何も言わずに背中を本棚にもたれかける。香奈はどっちの言うことが本当なのか判断がつかず、ただ悲しい目をするしかなかった。
その時、部屋の隅に姿を消していた理沙の叫び声が室内に響いた。
「立った!携帯のアンテナが立った!ここなら一本だけアンテナが立つよっ!」
その言葉に三人は色めき立った。理沙の声はトイレの中から聞こえる。尾崎を先頭にして三人はトイレの前まで駆けつけた。トイレの扉は開けっ放しになっていて、理沙は手洗いの隅で携帯電話を高く差し上げて見ている。理沙の携帯の電波状態を表すアンテナは、かろうじて一本立っていた。そして理沙はすでに母の携帯に発信を行っていて、発信コール音が聞こえている。尾崎も香奈も、自分の携帯を開いてアンテナ状況を確認しながら、理沙の発信の結果に期待を寄せている。やがて発信コール音は短いノイズと共に消え、ここにいる四人意外の人間の声が聞こえてきた。
『もしも……。……野でございま……。』
それは理沙の母の声だ。だが途中でブツブツと声が途切れ、非常に聞き辛い。
「もしもし!もしもし!お母さん!?アタシ!理沙だよ!お母さん、聞こえる!?」
『もし…………もしも……ちらさ……くきこえな……』
「お母さん!お母さん、助けて!アタシたち学校の図書室に閉じ込められてるの!ねえ、聞いてる!?お母さん!」
理沙は懸命に叫ぶ。だが母の声はほとんど途切れ途切れで、こちらの言ってることが伝わっているかどうかも分からない。そのうち回線はプツッと切れてしまった。
「もしもし!?もしもし!?」
理沙がいくら叫んでも、携帯からはツーという音しか聞こえなかった。電波状態はまた『圏外』に戻っていた。
「どうだった!?助けに来てくれるって?」
「ダメ……。伝わってなかったみたい。すぐ切れちゃった。」
理沙はもう一度電波の入る場所を探したが、アンテナはついたり消えたりで安定はしなかった。
「どけよ!今度はオレがやってみる!」
そう言って尾崎が理沙を押しのけた。どうやら理沙がいる場所でないとアンテナは立たないようだ。尾崎は理沙と同じ位置に自分の携帯を掲げてみる。だが尾崎の携帯のアンテナはまったく立つ気配がない。
「ちっ!くそっ!なんだよ、ダメなのかよ!やっぱ新しいのに機種変しときゃよかったなぁ。オレの全然ダメだよ!」
「三上クンの携帯でやってみたら?」
と、理沙はトイレの外にいる三上に声をかけたが、「ゴメン、オレ、携帯持ってないんだ。」との答え。
「じゃあ香奈のはどう?」
理沙が尾崎の腕を引っ張って香奈と交代させた。尾崎は潔く引き下がって香奈に場所を譲った。香奈も同じように携帯を頭上に掲げてみると、アンテナはしっかりと一本立った。
「立った!私の、アンテナ立ってる!」
理沙も香奈の携帯の横に自分の携帯を並べて差し上げた。同じようにアンテナは一本立っている。
「うん、立ってるね。はやく電話かけてみ!」
「うん。」
香奈は喜んで携帯の中の電話帳から一番よくかける番号を選んだ。発信音が小さく響いて呼び出し音が聞こえて来た。その時、なんと理沙の携帯の着メロが鳴り出した。
「あれ?もしかしてお母さんからかな!?」
理沙は期待のあまり、誰からの電話か確認するのを忘れて通話ボタンを押した。
「もしもし!」
理沙は母の声を期待した。だが通話先の相手は何も言わない。
「もしもし!?お母さん?」
理沙はなおも叫んだ。と、ふと隣にいる香奈を見た。香奈は自分の携帯を耳に当てたまま、気まずそうな笑みを浮かべてこっちを見ている。
「もしもし?私……。」
香奈が横でしゃべったそのままの声は、理沙の携帯からも聞こえてきた。とたんに理沙の頭の血が逆流した。
「だれにかけてんだよ!この大バ香奈!あんた脳味噌あんのか!」
香奈は理沙に耳元で怒鳴られて半泣きになってしまった。
「よせよ千野!もう一度かけりゃいいじゃんか。」
尾崎になだめられるなんてますます不本意だと思いながら、理沙は怒りを抑えて自分の携帯を掲げる。相変わらず理沙の携帯はアンテナが立ったり消えたりの繰り返しだ。香奈はなんて私は馬鹿なんだろうと自分で自分が嫌になりながらも、今度は間違いなく家の電話番号に発信を行った。
数回の呼び出し音が聞こえたあとブツッというノイズがして、実におっとりとした香奈の母の声が聞こえてきた。
『はぁーい。内藤でございますぅー。どちらさまですかぁー?』
間の抜けたような香奈の母の声は三上にも聞こえ、思わずプッと噴き出しそうになるのをこらえた。香奈はやっと母の声が聞こえた嬉しさに「もしもし」と叫ぼうとしたのだが、その前に携帯が突然ピピピと大きな音を立てた。耳から離して見てみると、ディスプレイには『電池がありません!すぐに充電してください』という文字が点滅していた。
「えー!電池切れ!?」
「ちょ!マジかよ!」
「早く!早く話して!」
理沙に言われてすぐに携帯を耳に当てた香奈は、「もしもし!もしもし!ママ助けて!」と叫んだ。だが携帯からは何も聞こえてはこない。もう一度ディスプレイを見ると、真っ黒で何も表示されていなかった。電池は完全に切れてしまったようだ。
「あ……。ご、ごめんなさい……。充電……忘れて……た……。」
理沙は香奈を食い殺さんばかりににらみつけている。香奈はもう、どうぞご遠慮なく食い殺してくださいといった心境だった。人間、本当に頭にきたら言葉が見つからないらしい。今の理沙がそういう状況だ。香奈に何かを言いたくてたまらないのだが、どうしても声に出せない。ただ顔を真っ赤にして息を荒げるばかりだった。
十一:突然の告白
「そんな気ィ落とすなって。しょうがねえじゃんか。電池切ればっかりはどうしようもねえよ。」
「そうだよ。尾崎の言う通りだ。だいたいこんなことになるなんて誰にも分からなかったことだし。キミのせいじゃないよ。」
あれから自分なんかクズ以下だと卑下する香奈を、三上がずっと慰めている。理沙はまだトイレの隅で携帯をなだめたりすかしたりするかのようにアンテナの立つ位置を探している。何度か発信にトライしてはいるのだが繋がるまでに至ったのは最初の一回だけだった。後は発信途中にたいてい切れてしまっている。そうこうしているうちに理沙の携帯の電池も残りわずかとなったようで、へとへとにくたびれた理沙はトイレの便器に腰を降ろすと携帯を折りたたんだ。
「本当に今まで何度も何度も思うの。どうして私ってこんななんだろうって。何やってもドジしないことなんか一回もないし……。私なんかぜったい生きてく資格なんてないんだわ。」
ハンカチで涙を拭いながらそこまで自分をなじる香奈に、三上は穏やかな声で話しかける。
「そんなこと言うもんじゃないよ。人は良い所も悪い所も両方持ってるものさ。悪い所ばかりが目立って見えても、ぜったい同じだけ良い所も持ってるはずなんだよ。うまく言えないけどさ。だから、頼むからそんな風に思わないでくれよ。良い所を見てくれてる人もいるんだからさ。」
「だって……。ドジにも程があるでしょ。まいにち理沙にバカバカって言われるのも仕方ないのよ。ほんっとにバカなんだから私。私がいるせいで、いっぱい色んな人に迷惑かけちゃうのよ。三上クンにも。理沙や尾崎クンにも。」
「ちがう!オレはぜんぜん迷惑だなんて思ってないよ。本当だよ……。いや、誰も迷惑だなんて思っちゃいないって。そんなことないよ……。そんなこと……。」
それでも香奈は床に座りこんでハンカチに涙をにじませている。三上は香奈の横に座って香奈の肩に触れようかどうしようか迷うばかりだった。
少しの沈黙がふたりに訪れた。やがて三上は香奈の肩に手をかけると、香奈の顔をまっすぐに見た。
「あ、あの……、さ。オレ、内藤に……言っておきたいことが……あるんだ……。」
三上が少しあらたまった声で言うので、香奈は涙で真っ赤に濡れた目を上げた。三上は香奈の顔をなるべく見ないように他方を向いていた。だが三上はなかなか先を言い出そうとはしなかった。その時、トイレの扉を蹴破るようにして出てきた理沙は、憤慨した声で香奈に叫んだ。
「ったくもう!何から何までむかつくことばっかなんだから!香奈!トイレ行く時は気ィつけなよ!紙がぜんぜんないよっ!」
理沙のあまりの勢いに、香奈は怒られるのかと思っていっしゅん驚いたが、そうではなかったので少し安心した。三上も香奈の肩に置いた手を理沙にとがめられるのかとすぐに引っ込めたが、勘違いでホッとした。理沙は怒りを納められずに続けざまに尾崎を指差して言う。
「こいつ、トイレの紙、全部つかってやがんだよ!マジいい加減にしろっつうの!」
いきなり振って来られた尾崎は寝っころがった姿勢から飛び起きて反論する。
「ちょっ!待てよ、おい!トイレの紙なんかオレはこれっぽっちも使ってねえぞ!オレが来た時にはもう全然なかったんだよっ!何でもかんでも人のせいにすんなよなっ!」
尾崎がそう叫んだとたん、理沙の怒りはプツッと停止して尾崎の顔をじっと見つめた。尾崎は理沙の顔をみらみ返したが、やがて自分の言ったことに気づいてハッとした。
「そうか!それで分かった!さっきなんかおかしいって思ったんだよね!さっき尾崎がトイレから出て来た時、アタシすぐにトイレに入ったんだよ!なのに汗の匂いしかしなかった!一時間も便秘で座ってたハズなのにね!」
理沙が尾崎に詰め寄る。尾崎は何も言わずに冷や汗を流している。
「あんた出し切らないとすっきりしないとか言ってたよね!いくら男のコでも大したら紙つかうんじゃねえの!?だいたい尾崎が超便秘持ちだなんて今まで一回も聞いたことねーんだけどサ!」
「ああ、それはオレも聞いたことなかったからヘンだとは思った……。」
三上も口を挟む。理沙はさらに尾崎に詰め寄った。
「便秘で座ってたんじゃねーなら、なんでトイレに一時間もいたんだよ!トイレでいったい何してたんだよ!?」
理沙の追及に尾崎の顔がみるみる歪んだ。まるで証拠を突きつけられた犯人のようだ。どうやら言い逃れられないところまで来てしまったらしい。尾崎はとうとう観念すると、ため息を吐いて立ち上がった。
「ちぇ。分かったよ!言うよ!確かにクソしてたんじゃねえし、便秘でもねえよ!」
言いながら尾崎は胸のポケットから四つ折にした紙を一枚取り出した。
「これを……書いてたんだよっ!」
理沙の目の前に突き出された四つ折の紙はノートの切れ端らしく、所々に汚れが目立った。
「何よ、これ……。」
紙を取ろうとした理沙だったが、尾崎は理沙には紙を取らせなかった。そしてツカツカと香奈の所まで歩いていくと、香奈に紙を差し出した。
「えっ!?」
香奈は驚いたが、尾崎は香奈から目をそらしながら「声に出さずに読んでくれよな。誰にも見せるなよ!」と言い、香奈が紙を受け取るとさっさと元の場所に戻って寝っころがった。
香奈はそれを見届けてから紙を開いて読んでみたが、香奈の顔はみるみる赤くなっていった。
「お、尾崎クンっ!こ、これ……、ラブ……レター……!?」
それを聞いて三上はハッとした。だが香奈に悟られまいと顔をそむけた。理沙はとたんに腹を抱えて大笑いを始めた。
「ぷっ!アハハハハハ……!なんだよ尾崎!アンタ香奈に惚れてたのかよ!アハハハハハ!こりゃ傑作ね!」
「なんだよ!オレが誰に惚れようが自由だろうがよっ!」
理沙は尾崎を指差してバカ笑いしたが、そんな理沙を尾崎は本気で怒る気にはなれなかった。やがて尾崎は図書室前の渡り廊下でぐうぜん香奈を見つけた時のことを語りだした。
「お前らがよ、図書室に入ってくのを偶然見たんでよ。それで……、今日こそはなんとしてもコクるぞって思って……。
だって……、だってよ。今までずっと……想ってたんだよな。でも、分かってんだよ。どうせオレなんて相手にされないってさ。だけど、やっぱ何も言わずにあきらめたくねーじゃねえか!だからさ……。一発思い切ってコクってみようって決心したんだよ。
ところがさ、千野だよ!お前がずっと内藤にへばりついてるじゃんか!だから声もかけらんねえんだよな!」
「アタシのせいかよ!」
理沙は唇を尖らせた。尾崎はかまわず先を進めた。
「それで本棚の陰に隠れてどうしようか悩んでたら、ふいに三上と出くわしたんだ。そん時オレ、テンぱってたしさ。悟られちゃマズイと思って、ついトイレ探してるって口から出ちまったんだよ。」
「そっか。確かに挙動不審だったとは思うけど、さすがにそこまでは気づかなかったな。」
三上が口を挟んだ。尾崎の話は続く。
「トイレに入ったものの、便器に腰掛けてどうするか悩んださ。そしたら急に良いアイデアを思いついたんだ。」
「ラブレター作戦ってワケ?」
「ああ、千野の言う通りだよ。でもなかなか良いセリフが思いつかねえ!何度も何度も書き直してるうちに、気がついたら一時間も経っちまってた。内藤のことだからもう帰っただろうなって思って、書き損じた紙を全部ビリビリに破ってトイレに流して出てきたワケさ。そしたらこんなコトになっちまってるじゃねえか。便秘なんてとっさのデマカセよ。」
「あっきれた!ダッセーにも程がある!」
理沙はあいかわらず尾崎の神経を逆なでする。尾崎はむかつく気持ちを抑えつつ、香奈から目をそらしながらも香奈に低い声で言った。
「そ、それで……。その、返事は……。返事はどうなんだよ?」
「ええっ!?」
香奈は困った。さすがにこの状況で尾崎の告白を受ける訳にはいかない。ふと三上を見ると、三上は困った目をして顔をそむけてしまった。ちゃんと言わなければいけないのだろうか。香奈はラブレターとハンカチを握りしめたまま硬直してしまった。すると理沙がまたしても大笑いを始めた。尾崎はさすがに辛抱たまらずに理沙に怒鳴り声をあげた。
「うっせえよ、千野!何がそんなに可笑しいんだよっ!」
「アハハハハハ……!だってさ、アンタめっちゃタイミング悪すぎ!つうか、まずこんな状況で言うことじゃないっしょ!?」
「しょうがねえだろうが!流れでこうなっちまったんでい!」
「まあそれはアタシも絡んでるからいいケドね。でもさ、残念だけど香奈には好きな人がいるんだよ。アンタ以外のね!だから、無理なんだよ!」
理沙の言葉に尾崎は勿論のこと、三上までもが一瞬息を飲んでうなだれた。
「ほ、ホントなのか?」
尾崎は未練がましくとりすがるように香奈を見る。香奈は実にすまなそうにしてコックリとうなずいた。審判を下されてしまった尾崎はフウーッと大きな息を吐き出すと、その場にしゃがみこんだ。だが表情は少し穏やかになっていて、長いこと背負っていた重い荷物をやっと下ろしたような、晴ればれした感じに見て取れた。
「やっぱりな。ま、いいさ。そんなことだろうとは思ってたし。でも内藤、オレあきらめた訳じゃねえからな。オレ、ずっと内藤のファンでいるから。それは構わねえだろ?」
「あ、う、うん……。」
香奈は無理に口元に笑みを作って可愛くうなずいたが、顔から火が出るくらい恥ずかしかった。
「ヤレヤレ。とんだ告白劇になっちゃったよ、まったく。」
と、鼻で笑う理沙に尾崎がきつい口調で言う。
「だからよ!オレはここのトイレの紙は使ってねーんだよ!わかったか!」
「わかったよ!」
それでこのふたりの言い合いは終わった。香奈はホッとして座りなおすと、顔を背けている三上を不思議に思った。
「あ、そう言えば三上クン。なんかお話があるって言ってたよね。」
「え!?あ、ああ、あれは……、えっと、ごめん、なに言おうとしてたのか忘れちゃった。ハハ。きっと大したことじゃなかったと思うよ、すぐ忘れちゃうくらいだからね。アハハ……。」
「そ、そう……。」
急に態度が変わった三上に、香奈は不信感を抱くしかなかった。
十二:魔法と恋と秋の空
時刻はもう深夜になっている。四人は空腹と疲れで床に横になったままぐったりしている。だが神経は興奮していてなかなか寝付かれなかった。
なんだかんだ言っても、香奈はやっぱり理沙に寄り添って横になっていた。理沙も香奈を守るようにして体を休めている。少し離れて三上が、そしてずっと離れて尾崎が本を枕に寝っころがっていた。本当に物音ひとつ聞こえない。四人の静かに繰り返す呼吸がそれぞれ区別できるくらいの静けさだ。そんな中でみんな、朝になれば誰かが気づいて助けてくれると信じていた。そしてただただ朝を待ちわびるばかりだった。
「ぐぅー、腹へったぁー。こんなひもじい思いは生まれて初めてだぜー、ちくしょう。」
ふくよかな尾崎はさっきから腹の虫に手を焼いているようだ。だがそんな尾崎のことを誰も中傷しようとはしない。他の者も同じ気持ちだからだ。食事はもちろんのこと、水一滴さえ飲めないというのは辛い。幸い部屋は暑くも寒くもないのでよかったが、これが真夏だったとしたら流れ出る汗のために脱水症状を起こして命の危険もあっただろう。香奈は体力温存のためになるべく動かずに横になったまま、少し離れた場所で本棚にもたれて座っている三上をじっと見つめていた。なぜかは分からないが、三上が急に冷たくなってしまったようで、香奈は意味もなく不安を覚えた。
「三上クン……。」
香奈はぽつんとつぶやいた。三上はゆっくりとこっちに顔を向けて香奈を見た。この静かすぎる図書室の中だから、少しばかり離れた場所にいてもつぶやくような声で十分会話ができる。
「なに?」
「その……。魔法のこと、聞いてもいい?」
「ふっ、魔法か……。」
香奈の質問に対して、三上はなぜか投げやりな言い方をした。香奈は質問をしようかやめようかちょっと迷ったが、思い切って聞いてみた。
「三上クン、あのね……。三上クンが『閉じこもりの魔法』を使ったのは、それが必要だったからなんでしょ?そんなものが必要だったとしたら、それは……」
「悪いけど!」
香奈の言葉を三上は途中でさえぎった。
「悪いけど、それについては話したくないんだ……。ごめん……。」
そう言って三上は自分の膝に顔をうずめてしまった。
「ごめんなさい……。」
香奈もそう言って黙ってしまった。三上は本当に心を閉ざしてしまったようだ。すると、横で聞いていた理沙が香奈に代わって三上に問いかけた。
「ねえ、三上クン。他にどんな魔法を知ってんの?」
「他に?」
「ウン。他に覚えてる魔法ってどんなのがあるのか教えてよ。」
三上は顔を上げて理沙を見る。理沙は三上の答えを期待して待っているのか、じっと三上を見つめている。その横に座っている香奈も同じだ。三上はしばらく無言でいたが、やがて口を開いた。
「そうだな……。例えば、遠くにいる人が今なにをしているかを鏡に映して見てみるとか……。それから、誰か特定の人が今なにを考えているか、その心をのぞき込むとか……。人の内緒話をこっそりと盗み聞くとか……。」
三上がそんなことを言い出すものだから、香奈も理沙も驚いた。
「ちょっと、三上クン!それってプライバシー侵害じゃん!」
理沙は叫んだが、三上はフンと笑ってなおも続けた。
「そんなのどうってことないよ。他には、自分が気に入った子に自分のことを好きになるようにさせるとかもね。」
香奈と理沙はお互いに顔を見合わせて驚いた。まったく呆れた話だった。だとしたら、香奈や理沙が抱いている三上への恋心も、実は三上の魔法によるものかも知れないではないか。
「ちょっと三上クン!それって最低じゃん!マジで言ってんの!?」
とうとう理沙が立ち上がって抗議した。とたん、三上は両手を広げて詫びを言い始めた。
「ごめん!ごめんよ!ちょっと言い過ぎた!ウソだよ、全部。そんなことできっこないじゃないか。実は魔法なんて全部ウソなんだ。ちょっとからかってみたかっただけなんだ。謝るよ、本当に。ごめん!」
「ウソ!?嘘なの!?魔法って全部ウソだったの?」
香奈は泣きそうな顔になって三上の方に身を乗り出した。三上はそんな香奈から目をそらした。
「……、あたりまえだよ……。信じてたのか……?」
三上の冷たいひと言だった。その瞬間、香奈は三上のすべてを信じられなくなってしまった。三上はもっとまっすぐな人だと思っていた。でも香奈の目の前にいる今の三上はいつも香奈が見ている三上ではなかった。いったい何が三上を変えてしまったのか。香奈は心の底から沸き起こる悲しみに体じゅうが包まれていた。
その時、突然の悲鳴が室内に響き渡った。
「きゃあーっ!」
声の主は理沙だ。驚いた尾崎は飛び起きると理沙の方を見る。
「な、なんだっ!?どうしたんだっ!?」
理沙は両手を胸の前で構えて怯えた表情で足元の何かをキョロキョロと探していた。
「い、今、何か足元を走ってった!黒くて小さいもの……。まるで、まるで……。」
言いながら理沙はふっと隣の本棚の陰に目的の物を見つけて、けたたましい大声をあげた。
「いたぁ!ねずみ、ネズミぃぃぃーっ!」
理沙は今まで見たことないほどの金切り声をあげたかと思うと、香奈の背中に取りすがってガタガタと震えだした。
「り、理沙?」
肩をしっかりと掴まれた香奈が恐る恐る本棚の陰をのぞいて見ると、そこには一匹の小さなネズミが鼻をヒクヒクさせながらこっちを見ていた。香奈はどちらかというと小動物は大好きな方なので、そんなに怖いとは思わなかった。むしろ理沙の怖がりぶりの方が驚きだ。
「なんだ、千野!おめえ、ネズミなんか怖ええのかよ!?」
尾崎は理沙に意外な弱点があったことを知って得した気分になった。確かに理沙は男勝りの性格で、常にリーダーシップを取りたがり、男子をアゴでこき使うようなヤツだ。そんな理沙の唯一嫌いなものがネズミだったのだ。それは子供の頃、寝ていてネズミに鼻をかじられたというトラウマから来ていた。
「うっせえよ!ヤなもんはヤなんだよっ!どっかやってよ、早くゥ!」
理沙は香奈の背中に取りすがったままで叫んでいる。すると今まで座ったままで動かなかった三上が腰を上げ、ネズミの方にゆっくり付いていったかと思うと、そっと手を伸ばしてネズミを優しく掴んだ。
「だめじゃないか、田中サン……。人を驚かすもんじゃないよ。」
三上はそう言いながらネズミの狭い額を人差し指でなでた。ネズミは心地いいのか悪いのか、目を細めて耳をピクピクをさせていた。一同はその様子を唖然として見つめていた。
「み、三上クン……。あの、その……、お、お知り合い?」
香奈が問いかけると、三上はやっと笑顔を見せてくれた。
「うん、ここの住人の田中サン。オレのいつもの話し相手さ。」
「ひぃぃぃぃぃーっ!」
とたんに理沙は悲鳴を上げてひっくり返ってしまった。
十三:ネズミ闘争
「やだ……、やだ……、絶対こんなのあり得ない……!」
理沙は香奈の背中で小さくなったままうわごとのようにつぶやいている。何しろ密かに好きだった彼が、自分が一番嫌いなネズミと友達だったのである。「お前なんてキライだ!」と面と向かって言われるよりもショックが大きかったに違いない。当の三上はネズミを手の平に乗せて愛でている。テレパシーか何かで話をしているのだろうか。さすがの香奈にもその光景は不思議に思えた。もちろん、理沙には信じがたい絵柄だ。
「やめて……、イメージが……、三上クンのイメージが、私の中のイメージがぁ!」
「理沙?ネズミ……じゃなくって、田中サンだっけ。ホラ、よく見るとけっこうかあいいよ?そんな怖がんなくてもいいんじゃない?」
香奈はそっと三上のネズミに近付いて見てみる。だが理沙は大きく首を左右に振った。
「無理!ぜぇーったいに無理!ヘビでもゴキブリでもやっつけてあげる!でもネズミだけは許せない!ぜったいこの世にいること自体ありえないの!いなくなっちゃえばいいの!」
理沙の興奮度は最高潮だ。
「とにかくそのネズミ、こっちに来させないようにして!ネズミなんかがこの部屋にいるってだけで安心して息もできない!ってか、もう早くこっから出たい!やだ、もう!」
叫びまくる理沙に、とうとう尾崎が切れたようだ。
「うっせえな!いいかげん静かにしろよ!寝らんねえじゃねーか!」
「なんだよ!うっせーのはそっちだよ!寝るんなら黙って寝やがれ!」
売り言葉に買い言葉だ。
「なにを!?」
尾崎が勢いよく立ち上がって理沙をにらみつけた。
「ちょっと、ふたりとも、喧嘩はやめてよ!」
香奈はふたりの雲行きが怪しくなってきたのを止めようとする。だが時はすでに遅かった。尾崎はいきなり三上の方に飛んで行ったかと思うと、三上の手の平のネズミを鷲掴みにするなり理沙に投げつけた。ネズミは弧を描いて宙を飛び、みごと理沙の顔面にヒットした。
「きゃあぁぁぁぁぁーっ!」
一番怖かったのはネズミの田中サンだったろう。ネズミは床に落ちるなりものすごいスピードで床を駆け抜け、どこかへ消えてしまった。
理沙はその場にへたり込んでしまい、声も出せずに震えている。尾崎はへへへっと笑ったかと思うと、「ざまあ見やがれ」とつぶやいてから自分がもといた場所に戻った。
「理沙!だいじょうぶ!?」
香奈は理沙の手を取って安否を気遣ったが、何も言わない理沙はしばらくしてから香奈の手を振り払ってスックと立ち上がり、尾崎のところへツカツカ歩み寄った。そしてさっきとは正反対の、ものすごくドスの効いた声で叫んだ。
「おざきぃー!てっめぇぇぇーっ!」
言ったが早いか、座りかけた尾崎の腹めがけて理沙の回し蹴りが炸裂した。
「このクズ野郎!」
理沙の罵声が尾崎の頭上にこだまし、舞い上がっていたチェック柄の短いスカートはスローモーションでふわりと舞い降りた。尾崎は腹部に強烈な衝撃を受け、すでにその場にかがみこんでいた。
「いってぇー!何すんだよ!」
理沙の一撃で尾崎は完全に頭に血が登ってしまった。そして蹴られた腹を押さえて立ち上がると、理沙の胸倉に掴みかかった。
「やろうってぇのかよぉ!」
怒号とともに尾崎は理沙の胸倉を掴んだままで突き飛ばす。大柄の尾崎に突かれて細身の理沙はなすすべもなく、背中から後ろの本棚に叩きつけられた。ガッシャーンという音が室内に響いて、理沙はその場に崩れ落ちた。本棚は小さく揺れ、上から一冊の本が、倒れた理沙のそばに落ちてきた。
「理沙っ!」
香奈は倒れた理沙のもとに駆け寄った。
「よせっ、尾崎っ!」
いつも穏やかな三上も、さすがに厳しい口調で叫ぶと尾崎の腕を掴んだ。だが尾崎は抵抗する様子もみせず、驚いた顔で理沙を見ていた。
「あ、そ、その、わりぃ……。つい、力が、はいっちまって、その……。」
どうやら尾崎は理沙が思った以上に華奢だったことに驚いているようだ。それもそのはず。尾崎の体重は理沙の二倍近くあるのだから、いくら理沙でも力ではかないっこない。
「理沙、だいじょうぶ!?どこか折れてない?」
香奈は理沙を気づかっている。理沙は腰をさすりながら顔をしかめている。
「いってぇー。んにゃろう、キズものになっちまったらどう責任とってくれんだよっ!」
理沙の口は相変わらずだ。尾崎は今度は言い返すことなく、ただ頭を下げた。
「だから、悪かったよ……。お前が、その女だってこと、忘れてたよ……。」
「なんだってぇ!?バカやろう!いったいどこに目ェつけてやがんだよっ!」
理沙は立ち上がろうとしたが、腰を打ったらしくて下半身に力が入らなかった。
「イテテ……、ちっくしょう、後で三倍返しだからな!覚えてろよっ!」
元気なのは口だけで、体は言うことを聞かない。やむなく理沙は床に手をつく。その時、さっきの振動で落ちてきた本がその手に触れて、理沙は思わず手に取った。
「なんだこれ?」
理沙が取った本を見て、目を見開いて驚いたのは三上だった。
「そ、その本!その本だ!オレが見てた魔法の本だっ!」
十四:魔法と嘘と
三人とも三上を見て仰天せずにはいられなかった。三上は理沙から魔法の本を受け取ると、急いでパラパラとページをめくって目的の場所にたどり着いた。
「こ、ここだ!『閉じこもりの魔法』だ!これを試したんだ!」
「ちょ、ちょっと待って、三上くん!」
香奈が叫ぶ。
「三上クン、魔法は本当だったの!?嘘じゃなかったの?」
だが香奈の質問には何も答えず、三上は理沙がぶつけられた本棚を見上げる。
「どうしてこの本がこの本棚の上から……?」
理沙がぶつけられた本棚は、最初三上が梯子をかけていた本棚より三つも手前にある。また本棚の本はぎっしりと埋まっていて、一冊の本を入れる隙間などどこにもなかった。ではこの本はどこから降ってきたのだろう。
「そうか、わかった!」
三上の頭にひらめきがあった。
「あの時、オレは梯子の上でこの本を開いて呪文を唱えた。次の瞬間、梯子が大きく傾いて、オレは何かに掴まらなくちゃと思って本を投げ出す形になったんだ。」
その時、本は意外に遠くまで飛んでしまったようだ。三上の感覚では本はそのまま下に落ちた程度のものだったが、実際には隣の本棚を跳び越して、ふたつ先の本棚の天板に乗っかってしまったらしい。そしてその本棚に理沙が突き飛ばされたために、本棚が揺れて天板の魔法の本が落ちてきたわけだ。
「ああ、それならなんとなく分かるよ。」
三上の話を聞いて尾崎が納得した。
「オレもお菓子とか食べてて足元に落としたりするんだけどさ、探してもどうしても見つかんないことがあるんだよな。そんでずっと後で、ぜんぜん別の場所から湿気てんのが出てきたりしてさ。なんでこんな所にあるんだよって思ったりするよ。」
「どこまで食い意地張ってんだよ!」
腰の痛みが落ち着いてきた理沙がツッコミを入れる。
「あっ、私も覚えがあるわ。目のコンタクト外そうとして落としちゃったんだけどどうしても見つかんなくて。それであきらめて新しいの買っちゃってね。夜になってお風呂はいろうとしたら胸の谷間にコンタクトがひっかかってたの!」
香奈の報告に理沙は冷ややかに言う。
「何?それは暗に自分の胸のデカさを自慢してるわけ?」
「い、いや、えと、私の胸って神経ないのかなって……。」
香奈の苦笑いに誰も意見を言う者はいなかった。
「そんなことより、魔法の本が見つかったってことは『閉じこもりの魔法』が解けるってこと?」
「解呪法が載っていればね……。」
三上は本を読みながら理沙の質問に答える。香奈も尾崎も三上が読む本のページをのぞいてみたが、その字は見たこともないもので、まったく読むことはできなかった。
三上はしばらく本をめくりながら目で字を追っていた。他の三人は、これでここから出ることができると期待に胸をふくらませて待っていた。だがしばらくしてパタンと本を閉じた三上は、残念そうにつぶやいた。
「ごめん……。解呪法は……、載ってなかったよ……。」
「ええっ!?」
三人の希望は一気についえた。尾崎はその場に力なく崩れ、理沙も大きなため息をついて床に横になった。それほど期待に対する落胆は激しかったのだ。
「ほんとうに……、ごめん……。」
三上はそう言うと、本を小脇に抱えてさっきまで自分がいた場所に帰ろうとした。その時、香奈が叫んだ。
「ウソよ!」
三上の足がピタッと止まった。だが三上は振り返らなかった。香奈は構わず続けた。
「三上クン、いま嘘をついてる!そこには『閉じこもりの魔法』の解き方が載ってるんでしょ?なのにどうして嘘をつくの?」
「う、うそじゃない……。ここには、そんなものは……。」
あくまで魔法の解呪法を否定しようとする三上だったが、まるでそれはうわごとのようだった。だが香奈はそんな三上のもやもやした霧を振り払うように言った。
「嘘よ!私にはわかるの!三上クン、嘘を言ってるって!だって……。」
そこで香奈は少し口ごもった。だがだがすぐに思いなおすと、三上を見ながらはっきりと言った。
「だって、私、三上クンのこと好きだから!大好きだからっ!」
三上は頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。他のふたりも大口をあんぐりと開けたまま、香奈を見つめた。
「あっちゃー、とうとう言っちゃったぁ……。」
「そ、そんじゃ、内藤の好きな人ってのは……三上だったのかぁ!?」
一方、当の本人である三上は、真っ赤になってうつむいてしまった香奈を見て震えていた。
「な、内藤……、おまえ……」
「三上クン、お願い、本当のことを言って……。もうごまかすのはやめて。魔法は本当なの?どうして三上クンは『閉じこもりの魔法』なんかを使ったの?どうして解けるのに、解けないなんて言うの?お願い、教えて……。三上クン!」
香奈の赤い頬に綺麗な涙が流れた。その涙を見て三上はその場に膝をついて崩れると、ぼそぼそと自分の話をし始めた。
十五:そして扉は……
「オレは……、オレは長崎の旧家に生まれた跡取りでさ……。大きな屋敷で育った……。人は金持ちの坊ちゃんなんてオレを呼ぶけど、そんな風に呼ばれるのはダイッ嫌いだった。だって、親父もお袋もすごく厳しくて、それこそ朝起きてから夜寝るまでいちいち細かく指示されてた。甘えることなんてまったく許されなかった。そこまで厳しくしなきゃいけない理由があったんだ。それはオレの家に代々受け継がれていたものがあったからだ。つまり、魔法さ。
世界には魔法が使える人と使えない人がいる。使える人は全体の数パーセントしかなくて、使える人たちだけの魔法のルールがある。使う者は責任を持って、しっかりと管理していかなきゃならないってことだ。そうしないと好き勝手に魔法なんか使った日には世界はとんでもないことになる。
魔法を知る者たちは独自にネットワークを組んでいて、お互いに情報を交換し合ったり、魔力を高めあったりもする。特に若い世代に魔法を教えるような学校があれば便利だ。でもそう大勢いるわけじゃないから、数も限られてくる。ご想像通り、日本ではここが魔法を教えてくれる唯一の学校なんだ。この図書室はそういう目的があってここまで立派なんだよ。」
三上は両手を広げて図書室を自慢した。香奈も理沙も尾崎も、図書室の中を見回した。ずっしりと詰まった本たちも四人を見下ろしていた。
「オレは……、そういう訳で長崎を離れてひとり、この学校に入学した。どうしてもこの学校に来なくちゃいけなかった訳なんだ。
生まれて初めてのひとり暮らし。それも右も左も分からない都会暮らし。長崎でも厳しい家のしきたりのせいで友達と言えるヤツらなんてほとんどいなかったオレは、どれほど心細かったことか……。いくら魔法が使えても料理も掃除も洗濯も満足にできない。欲しいものがどこに売っているかも分からない。
だいたい魔法は魔法授業以外では使用禁止になってるから不便なことはこのうえないのさ。そんな訳で、オレはだんだんこの図書室に引きこもるようになっちゃって……。田中サンと話をするくらいしか楽しみがなくなったのさ……。」
理沙はハッと顔を上げてあたりを見回した。だが田中サンの姿はなかった。
「三上クン、辛かったのね……。全然知らなかった……。」
香奈はまるで自分のことのように悲しみを覚えた。だが三上はそんな香奈を見つめた。
「でもね、でもオレ……。す、好きな……人が、出来たんだ!」
三上の言葉に香奈はハッと息を飲んだ。
「オ、オレ、どうしても友達になりたくて……。それで今日の昼休みに……、思い切って声をかけたんだ!」
思わず香奈と理沙は顔を見合わせた。勿論、ふたりにそんな記憶はなかった。三上は構わず続けた。
「でもね、でも、ぜんっぜん相手にされなかったんだよ……。それこそホント、完全に無視されちゃった!それはもうあきれるくらいのかっこ悪さだったよ。
それでさ……。とことんキズついちゃってさ……。もういっそのこと、貝の中に閉じこもってしまいたいって気になったのさ。そしたらそういう魔法が書いてある本を思い出してさ。で、ここに来てその魔法を使ってみたんだよ。しばらくひとりになりたくってさ。まさかキミたちがいたなんて知らずに……。」
「そうだったの……。」
香奈は三上の打ち明け話を聞いてやっとすっきりとした気持ちだ。いや、全然すっきりしない。むしろハラワタが煮えくり返ってきた。
「それにしてもヒドいっ!三上クンの告白を無視するだなんて絶対許せない、その女!」
香奈が叫ぶと、理沙もそれに続いた。
「ホントだよ!いったい何様なの?その女!行って往復ビンタでもかましてやろうよっ!」
「いったい誰なの!?その無神経な女はっ!?」
ふたりは大興奮して三上に詰め寄る。三上は困った顔をしながら口を開く。
「あ、あの……、な、内藤……、キミ……だけど……。」
「ぇ?え?ええぇーっ!?」
香奈の驚きは尋常ではない。と同時に理沙はほとほと呆れ果てたというように香奈の背中をぴしゃりと叩いた。
「あんた!そこまでボケてたの?好きな相手に告白されて無視するって、それもうバカ通り越して原子レベルの無能さよ!よくそんなんで生きてんね!」
理沙の言い様もひどかったが、そんな理沙に三上はひと言つけ加える。
「あの、えっと。その時、千野も一緒にいたんだけどさ……。」
「ゲッ!ウソ!?マジ!?」
「ちょっと理沙!人にさんざん言うくせに、理沙だって知らないじゃん!」
「えぇっ!?今日の昼休み!?って、昼休みのいつごろの話!?マジぜんっぜん覚えないんだけど!」
香奈も理沙も昼休みのことを思い出すが、ふたりで弁当を食べて中庭をジュース片手に歩きながらくだらないおしゃべりをしたことしか思い出さない。三上はその時のことをふたりに話して聞かせた。
「そう、昼休み……。たしか教室でキミらは向かい合って弁当を開いて、お互いのおかずを見せ合ってた……。」
「ああ、えっと今日のお昼でしょ?確か理沙のお弁当は……おにぎりとハンバーグだったのよね。」
「うん。香奈はそぼろごはんに、サラダ。それからかわいいウサギのりんご!」
「うん!可愛かったよね!」
すると三上が口を挟む。
「そう!確かその、うわー、可愛いっ!ってあたりで話しかけたんだけど……。」
また香奈と理沙は顔を見合わせてその時のことを思い起こす。だが近くに三上がいたことすら知らなかった。
「えっと……、たぶん、私たちおかずに集中してて……、ぜんっぜん聞こえてなかったと思います……。」
香奈が言うと理沙はその通りというように力強く何度もうなずいた。三上はがっくりと肩の力を落とした。
「ねえ!それじゃあさ、ふたりとも両想いなのに気づかずにいじけてたってコト?ばっからしー!」
「なんだよ!それで俺たち巻き添えかよ!ったくやってらんねえな!」
三上と香奈が一気にラブラブになってしまったのも手伝って、理沙と尾崎は不満が爆発してしまった。
「それでどうなるのよ!?ここから出られるの?出られないの?」
「そ、そうだよ!そこんとこはっきりしてくれよ!」
理沙と尾崎につつかれて、三上はあわてて魔法の本を開いた。
「あ、ああ……。実は、解呪法は確かに載ってるんだ。載ってはいるんだが……。」
「なに?問題でもあるの?」
香奈が聞くと三上は少し照れるように本の一部を指して言った。
「『我を見つめ、我に背かず、かの呪文を今一度唱えよ』と書いている。つまり、正直な心を持って呪文を唱えればいいみたいなんだ。」
「正直な心?」
「うん。自分に正直に……。」
言いながら三上は香奈をまっすぐ見つめた。香奈もそれに応えるように三上に向き直った。
「さっきはどうしても正直な心にはなれなかった。だから魔法は解けないと思ったんだ。でも今は違う。オレ、正直に言うよ。キミが……。内藤のことが……好きだ!」
「わ、わ、私も……!三上クンのこと……好きです!」
ふたりは真っ赤になってうつむいた。
「よっ!熱い熱い!もう見てらんねえな!」
尾崎が冷やかしを入れる。理沙は突っ立った香奈のところに行くと、「ほら、照れてないでくっつけよ!」と香奈の背中を押す。香奈は理沙に押されて、かどうかは分からないが、三上の腕の中に飛び込んで行った。
その時、ガチャンという大きな音が室内に響いたかと思うと、扉の方から聞き覚えのある声が聞こえた。
「誰?この部屋に誰かいるのっ!?」
それは間違いなく図書室の先生の声だった。
魔法図書室〜閉じこもり四角関係〜 終