夏目漱石について考へる
近代日本文学の幸運は、夏目漱石と森鴎外がいたことであろう。俳句においては正岡子規もいた。
現代の文学作品ですら、彼らの恩恵がなければ存在できない。
しかし、現代において、彼らの作品が読めるかどうか。
森鴎外や正岡子規は、存外に大丈夫である。特に森鴎外の明晰な文体は、今なお惹かれる者もいる。俳句や川柳が詠まれることから、正岡子規も問題ない。獺祭書屋俳話 は読む必要がないが。正岡の俳句は、当時の写生から歴史という風味が加わって、味わい深いものになっている。
さて、夏目漱石である。
正直に言うと、私はげんなりした。
我が輩は猫である、坊つちゃん、こころ、明暗……
一つの独立した作品として読めば、
好きな人は好きなんじゃないの
と、終わってしまう。
夏目漱石はむしろ、『明治の日本』という要素を考慮して読む方が良いかもしれない。
幕末の動乱から、『近代国家』樹立を目指した極東の島国が、あらゆる面で先進国であろうとした。明治の日本は、常に明暗を抱えている国であった。
私は、『明治時代』のファンでありますから、どうしても甘くみてしまう。
『明治の暗部』は、後に『昭和』へと繋がると言う評論家がいる。しかし、私からすると、『明治の明部』を捨てたから、『昭和』になった。そう思っております。
明治の光とは何か。
武士道である。
武士道とは、一言で言えば、『やせ我慢』でありましょう。
夏目漱石は、非常にその『やせ我慢』で成り立っていた人物だったんじゃないか。そう思って、彼の作品を読むと、痛々しいものがあります。
『日本文学』を樹立しないと、大英帝国の植民地になる。あるいは、フランスかロシアか。アメリカは南北戦争以来、国家の方針をどうしようかという時期だったと思います。もっとも、その後に、国力を『膨張』のみに注ぐということをやってのけますが、今は日本文学と深く関わりません。アメリカという存在が深く関わるのは、いわゆる『戦後』で、戦前や戦中からは考えられないような関係だったと思います。
話は戻って、夏目金之助。漱石というと、非常に金之助くんの『士族』的立場が浮かんでおります。
夏目の金ちゃん。
そう呼んだ方が、かえって、作品を読み解けるのではないか。
金ちゃんの『我が輩は猫である』というのは、辛く厳しい英国留学ということを考えると、なにやら同情を禁じ得ません。明治日本という生まれたばかりの国家が、どうして英国と同じ文化水準を持てましょうか。しかし、それをやらなければ、日本人は人扱いはされない。
夏目金之助は『士族』であるがゆえに、自殺は出来なかったんじゃないかと思います。
余談ながら、福沢諭吉の『脱亜入欧』というのも、こういう緊迫した国家状況を説明したものであります。
例えば、現代の文学作品、むろんライトノベルも含めます。
それが、イギリス人、フランス人、アメリカ人、ロシア人から賞賛を受けなければ、全ての日本人が奴隷になる。
この状況に、現代の作家は耐えられるのか。
今、現代のベストセラー作品をもって、
「これが日本文学を代表するんだ」
と、言えましょうか。
いくら帝国主義だからといって、文学ひとつで戦争は無いだろう。そう言う人はかなりいます。
しかし、帝国主義は、それが可能でした。
『ペリー侵寇(黒船来航)』は、その最たる例です。
大砲を撃ち込んで、死ぬのが嫌なら港を開けろ。
アメリカ外交の基本姿勢が、このあたりで出来たと思うと感慨深いですね。
本一つで、鉄の大砲から、鉄の砲弾を撃ち込まれる。
個人なら、芸術家やジャーナリストは命がけで当然と言えるでしょう。
しかし、夏目金之助は、『日本人全員が殺される』というようなことを思っていたのではないか。
これを金ちゃんの『思い過ごし』と見ると、夏目漱石という像が浮かび上がる。
夏目漱石は、夏目金之助という士族が、己を皮肉って笑ってやろうという気概から生まれた。
私は、そう思えてしまいます。
一方で、正岡子規は、非常に無邪気です。子供っぽい。
夏目漱石は、正岡を思って『坊つちゃん』を書いたかもしれません。漱石なりの勇気づけや、哀悼で、他人には分かりづらい。
ラフカディオ・ハーンが関係したともありますが、そうだとすると、漱石は『外人』にどれだけ悩まされたのか。
漱石を論ずるにあたり、『病気』も重要な要素と言われます。
これは、むしろ、『漠然とした死』の方がいいのではないか。私は思います。
日本人全員が死んでしまうということを考え、
やがて、己個人の死と向き合うことになる。
近代日本文学の樹立は、夏目漱石の
『使命』
によってもたらされたかもしれない。
二葉亭四迷はどうした?
そう思う方がいるかもしれません。
私は、彼が近代日本文学の樹立に寄与したとは、思えません。