その五
哲也は、外に出たがらない息子を無理に連れ出して、デパートの屋上へとやってきた。
平日であるせいか、人影はほとんどなかった。
手摺の手前にはフェンスが立っていたが、一か所だけフェンスが途切れている箇所がある。
整備用のその通路を通ると、手摺の手前まで行くことが出来る。
手摺を超えて少し行けば、眼下の歩道まで真っ逆さまだ。
その時、哲也は一人の女性が立っているのに気が付いた。
三十歳くらいだろうか。
その女性はどこか儚げで、眼前に広がる青空を眺めていた。
すると、女性はフェンスが途切れた箇所へと、ゆっくりと歩き出した。
哲也は、急いでその女性の後を追いかけた。
何か、運命のようなものを感じたのだ。
哲也は息子を近くにある遊技場で遊ばせ、女性と二人ベンチに腰かけた。
やはり、女性は飛び降り自殺しようとしたらしい。
付き合っていた男性との間に子供が出来たことを知らせると、男性はあからさまに嫌悪感を滲ませた。
男性は、中絶するように迫ったらしい。
女性は中絶したくなかったので、男性と別れ、一人で産んで育てていこうと思ったらしい。
しかし、残念ながら赤ん坊は流産してしまった。
一人になってしまった女性は生きる望みもなく、自殺しようと思ったとのことだった。
哲也は、その女性にどこか魅かれていた。
自分よりも十歳以上若いということもあったのかもしれない。
哲也と女性は、なんとなく付き合うようになった。
それから、少しずつ哲也の人生は好転していった。
まず、女性から母親の愛情を受けるようになった息子が、学校へ登校するようになった。
そして間もなく、哲也はその女性と結婚すると、すぐに水道会社のお得意様から、引き抜きの声がかかったのだ。
哲也はかなり良い待遇で、地元不動産会社の部長となった。
手狭になったアパートを引き払い、会社の優良物件を紹介してもらい、職場の近くに少し広めのアパートを借りた。
ある日、哲也は昔のことを思い出していた。
こうして平穏な日々が暮らせるなんて、思ってもいなかった。
そこに妻がやって来た。
哲也は、妻に『立派な大人』のことを話した。
前妻にも話さなかったが、今の妻には自然と言葉が溢れた。
結局自分は『立派な大人』にはなれなかったが、今こうして平穏な日々が送れているので幸せだ、といった。
妻は言った。
「あなたは、私を悲しみのどん底から生き返らせてくれた。あなたは、とても立派な大人です」
哲也の顔には笑みが毀れていた。