面白くないとは何か
1. はじめに
僕は長い間、作品は面白くなければ価値がないと思っていた。
だから作家は面白い作品を作ろうと努力する。映画も、小説も、漫画も、ゲームも、「面白い」が作品の価値を決める最も重要な要素だと考えられている。僕自身も、それを疑ったことはなかった。
しかし、作品について考え続けるうちに、一つの違和感が生まれた。
世の中には、面白くなくなったものが驚くほど多い。
子どもの頃に夢中になった遊びは、大人になると遊ばなくなる。流行語は一年もすれば古くなり、何度も見返した映画は、最初ほどの感動を与えなくなる。前稿『面白いとは何か』で述べたように、一度言語化された面白さは、繰り返し経験されることで新鮮さを失い、cheap化していく。
ここまでは、多くの人が経験として理解できるだろう。
しかし、ここで一つの疑問が残る。
もし面白さが失われるなら、人はなぜ面白くなくなったものを捨てないのだろうか。
スポーツは百年以上ほとんど同じルールを繰り返している。
祭りは毎年同じことを繰り返している。
宗教も同じ祈りを何百年と続けている。
ニュースも昨日と似た構造を毎日繰り返している。
どれも、新鮮さだけを見れば、とうに失われているはずである。
それにもかかわらず、人は繰り返しそこへ戻っていく。
もし人間が本当に面白さだけを求めているなら、この現象は説明できない。
そこで僕は考えた。
もしかすると、「面白くない」とは「面白さを失った状態」ではないのではないか。
それは、面白さとは異なる価値を持った、別の作品の状態なのではないだろうか。
本稿では、この疑問から「面白くない」という現象を考えてみたい。
2. 面白さはcheap化する
前稿『面白いとは何か』で、僕は「面白い」と「感動するほど面白い」を区別した。
「面白い」とは、すでに知っている知識や経験が整理され、顕在記憶として思い出される現象である。
一方、「感動するほど面白い」とは、まだ言葉になっていなかった潜在記憶が初めて言語化され、世界の見え方そのものが更新される現象である。
両者は異なる。
しかし、一つだけ共通点がある。
どちらも、理解された瞬間から新鮮さを失い始める。
何度も聞いたギャグは笑えなくなる。
感動した映画も、二回目には驚きが薄れる。
人間は理解したものを圧縮し、「あれね。」という短い記号で思い出せるようにしていく。
僕は、この認識の圧縮をcheap化と呼んでいる。
cheap化とは、価値が下がることではない。
理解が進み、少ない情報で認識できるようになることである。
そして、この現象は例外なく起こる。
面白さは必ずcheap化する。
3. cheap化では説明できないこと
ここで、一つの矛盾が生まれる。
もし面白さがcheap化によって失われていくなら、人は面白くなくなった作品から離れていくはずである。
しかし現実はそうではない。
人は昔好きだった作品を見返す。
同じスポーツを何十年も観戦する。
同じ祭りへ毎年向かう。
同じ宗教儀式を繰り返す。
つまり、cheap化は「面白さが薄れる過程」は説明できるが、「なぜ人は面白くなくなったものを繰り返すのか」は説明できない。
ここで一つの仮説を立てた。
cheap化と「面白くない」は、同じ現象ではない。
cheap化は、人間の認識が変化する現象である。
一方、「面白くない」とは、cheap化したあとに作品が獲得する、別の価値の状態なのではないだろうか。
4. 『面白くない』の儀式性
第3章で、僕はcheap化と「面白くない」は同じ現象ではないという仮説を立てた。
では、「面白くない」とは何なのだろうか。
ここで重要なのは、「面白くない」を単に「面白さが失われた状態」と考えないことである。
もし本当にそうであるなら、人は面白くなくなった作品を繰り返し消費しないはずである。
しかし現実には、そうはならない。
一度すべてを理解した作品でも、何年か後に見返したくなることがある。
長く続くシリーズ作品は、新鮮さを失っても支持され続ける。
古典と呼ばれる作品は、何世代にもわたって読み継がれる。
つまり、人は面白さだけを求めて作品へ戻るわけではない。
作品には、面白さとは異なる価値が存在しているのである。
その価値とは、「すでに知っているものを繰り返し経験できること」にある。
未知だった作品は、理解されることで未知ではなくなる。
しかし、その理解された状態こそが、人間に反復を可能にする。
内容を知っているからこそ、人は安心してその作品へ戻ることができる。
そして、その反復は偶然ではない。
毎回ほぼ同じ内容を受け入れ、その変わらなさを確認し続けるという、一つの構造を持っている。
僕は、この反復の構造を「儀式」と呼ぶ。
儀式とは、新しいものを発見する行為ではない。
変わらないものを繰り返し確認する行為である。
面白さは、一度理解されればcheap化する。
しかし、そのcheap化した作品は消滅するのではなく、儀式へと姿を変える。
つまり、「面白くない」とは作品の終わりではない。
作品が面白さを提供する段階を終え、反復され続ける儀式へと移行した状態なのである。
5. 儀式は奇跡を成立させる
しかし、ここで新たな疑問が生まれる。
もし儀式だけに価値があるなら、人はただ同じことを繰り返すだけで満足するはずである。
しかし現実は違う。
人は、儀式の中で何かが起こることを期待している。
サッカーなら、九十分の試合の大半は大きな変化がない。
それでも最後の一瞬のゴールが、試合全体の価値になる。
ゴールだけを切り抜いて見ても、同じ感動にはならない。
九十分という秩序があったからこそ、その一瞬は特別になる。
宗教でも、人は祈ること自体ではなく、その中で語られる奇跡を信じる。
祭りでも、毎年同じことを繰り返すからこそ、思いがけない出来事が忘れられない記憶になる。
つまり、儀式の価値は反復そのものではない。
反復によって秩序を維持することにある。
そして、秩序があるからこそ、その破れは特別な意味を持つ。
僕は、この秩序の中で起こる例外を「奇跡」と呼ぶ。
奇跡とは、混沌の中で起こる出来事ではない。
秩序があるからこそ成立する、秩序の破れなのである。
6. 作品には二つの価値がある
ここまで考えると、作品には二種類の価値が存在することが見えてくる。
一つは、面白さによって世界を書き換える価値である。
まだ言葉になっていなかった感覚を言語化し、人の認識を更新する。
これが感動である。
もう一つは、面白くなさによって世界を維持する価値である。
理解された作品は秩序となり、人はその秩序を繰り返し確認する。
そして、その秩序の中で、ごくまれに奇跡が起こる。
つまり、感動と奇跡は似ているようで、まったく逆の現象である。
感動は、世界を更新する。
奇跡は、世界が変わらないからこそ成立する。
しかし、この二つはどちらも作品に価値を与えている。
作品とは、更新だけでも、維持だけでも成立しない。
世界を更新する力と、世界を維持する力。
その両方を持つことで、人は作品を繰り返し求め続けるのである。
7. 面白くないとは何か
ここまで考えてきたことで、僕は「面白くない」という言葉を以前とは違う意味で捉えるようになった。
一般に「面白くない」は否定の言葉である。
退屈であり、失敗であり、価値がない状態を指す。
しかし、本当にそうなのだろうか。
僕はそうは思わない。
面白さは、人の世界を書き換える。
しかし、その面白さは必ずcheap化する。
そしてcheap化した作品は、人間が何度も帰ってくる秩序となる。
その秩序は儀式として繰り返され、その中で奇跡が生まれる。
テンプレート小説も同じである。
ありふれた設定。
ありふれた展開。
ありふれた人物。
それだけでは新しい感動は少ない。
しかし、その型があるからこそ、一つの台詞、一つの演出、一つの感情が強く立ち上がる。
秩序があるから、逸脱が奇跡になるのである。
だから、「面白くない」とは作品の失敗ではない。
それは作品が、面白さとは異なる価値を獲得した状態なのである。
面白い作品は世界を更新する。
面白くない作品は世界を維持する。
そして、維持された世界の中で奇跡は生まれる。
つまり、「面白い」と「面白くない」は対立する概念ではない。
作品という現象を支える、互いに補い合う二つの価値なのである。
8. 世界は儀式化していく
ここまで僕は、「面白い」と「面白くない」を、それぞれ異なる現象として考えてきた。
面白さは、人間の世界の見え方を更新する。
しかし、その面白さは理解されることでcheap化し、新鮮さを失う。
そしてcheap化した作品は消えるのではなく、儀式となり、人はその秩序を反復するようになる。
つまり、世界は面白いものによって作られるのではない。
面白かったものがcheap化し、儀式へと変わることで、少しずつ世界を構成していくのである。
それは作品だけではない。
文化も、価値観も、娯楽も、やがて理解され、反復される。
世界は新しさによって拡張されながら、その大部分は儀式として積み重なっていく。
人間は、その儀式の中で奇跡を待ち続ける。
ごくまれに秩序が破られること。
ごくまれに世界の見え方が変わること。
その二つを求めながら、人は作品を作り、作品を読み続ける。
しかし、もし世界がcheapで飽和したならどうなるのだろうか。
現時点のAIは、すでに理解された情報を整理し、再構成することを得意としている。
それはcheap化した世界を管理する能力と言い換えることもできる。
もし未来が、理解された作品だけで満たされ、その反復をAIが支える世界になるなら、人間は儀式だけを繰り返す存在になるのかもしれない。
AIは人間の潜在記憶を言語化できないので、感動は生まれない。
また、儀式の規則を破ることもできないので、奇跡も起こらない。
あるのは、秩序だけである。
だとすれば、作家という存在は、世界を書き換える者ではなくなる。
すでに理解された世界の中で、小さな違いを作り続けるだけの存在になるのかもしれない。
人類はすでに、その方向へ静かに歩き始めているようにも見える。
もしそうなら、作家はすでに敗北している。
cheapによって儀式化した世界は、僕が生きる時代ではないだろうけど。




