【完結】桜の追想【3192字】
桜をみると泣きたくなるのはなぜだろう。
雨上がりの湿った土を踏みながら月明りに照らされる夜桜を見上げて、ふと想った。桃色に滲んだ桜の花と澄んだ夜風が心を昔日へと還していく。
髪を撫でるような優しい夜風に抱かれて、桜の花びらがひっそりと一枚飛ばされて行った。
遠くから吹いてくる風は、私の視界を足元から道の向こうへと、木立や道端の花や建物の屋根へと、少し大きく拡がらせる。
あの日も。
心にあった小さな迷いや悩みごとをぜんぶ吹き飛ばすような、強い大きな風が木々や花を揺らして通り過ぎていった。
吹き抜ける空気の冷たさに思わず身を屈めたところへ、久方ぶりのあたたかい日差しが身体を抱くように包んだ。
私は春風に瞑った目を開いて顔を上げる。ほんのりと甘酸っぱい花の香りがした。
通り沿いの花壇で紫色のスミレが咲いている。
身を寄せ合って咲いているスミレたちは、数か月ぶりに慥かな熱を宿した日光を、楽しむようにゆっくりと花を揺らしている。
私は足を止めてしばらくのあいだ小さく揺れる花弁を見つめていた。
「ねえ、あの先輩に好きって伝えたの?」
明るい、親密さを感じさせる声がそのとき私の耳へと飛び込んできた。
「……まだ言ってない」
聞こえてきた音を辿ってちらっと会話の様子をうかがうと、下級生と思われる女の子がふたり、私と同じ中学校の制服を着て並んで歩きながら話していた。
卒業式へと向かう学生の列はまだまばらで、二人の少女の姿は赤レンガの手前でなんだか少し輝いて見えた。
質問を受けた方の子は、視線を地面に落としたままうつむいていて、恥ずかしがっているような、悩んでいるような、複雑な表情をしていた。
訊ねた子はそれを見て、友達の恋のゆくえを本気で心配しているようだった。
「もう今日しか言う機会ないよ。今日言いそびれたら、ずっと伝わらないまんまだよ」
「うん……」
私は二人の足音を耳で追いながら目の前のツツジに視線を戻した。ツツジも二人の会話に聞き入っているのか、花はぴくりとも動いていなかった。
友達の言葉に「うん」と答えた子が立ち止まり、続いてもう片方も立ち止まる気配がした。
「……うん、わたし、言う。好きって伝える。変わらないままのカタチでこのまま終わるのは嫌だもん」
芯のある声色で言った少女の言葉が聴こえたとき、私は眼鏡越しに春の空を見上げた。雲はほとんどなかった。
二人が歩き去っていってから暫くして、私はツツジの花壇を後にした。
そうして赤レンガの壁を辿って校門をくぐるとき、まるで当たり前のように道の向こうから坂を登る彼の姿が見えた。
なんだか朝からちょっとできすぎていて、私は思わず笑ってしまった。
伝える恋と、伝えない恋。二つの恋が春風のように、校門から卒業式の学校へと吹き込んでいく。
私は頬を緩めたまま、体育館の屋根を見上げながら、言葉にすることの意味ってなんだろう?と考えていた。
伝えることの意味ってなんだろう?伝えないことの意味ってなんだろう?
きっとそれは、花の匂いを嗅いで歩くか、花束を届けに走っていくかの違いなんだろう。
だから伝わったって、伝わらなくたって、かまわない。
どちらも、とても幸せなことじゃないかと思った。
あの年の桜は、とても綺麗に咲いたことを覚えている。
桜をみると泣きたくなるのはなぜだろう。
あの日も私は、綺麗に咲いた桜並木の道を一人歩いていた。
けれども雨降りのかたい地面の上には花の匂いなんてこれっぽっちも漂っていなかった。
桃色の傘のハンドルを掴んだ手は芯から冷えて、白いコンフォートシューズを履いた足も冷たくこわばって歩きづらかった。
私は掌を握る魔法をかけられた人のように傘のハンドルを強く握りしめたまま、雨の中をまっすぐ歩き続けた。
すると道の方が横に曲がり、一本の桜が、黒く硬い幹が目の前を通せんぼした。
それを見たとき、私はなんだか悲しくなってしまって、傘は顔をしっかり雨から隠しているというのに、頬を二筋の水がつたった。
私は滴り落ちる水の中で、どうしてだろう?と思った。
同じ花の匂いを嗅いで、同じ学び舎の地面を歩いているというのに、どうして心が離れていくんだろう?
彼が私に好感を抱いてくれていたのはわかってた。だから私は、一歩遠い場所から、お互いの気配を感じながら、あたたかい時間を一緒に過ごせればいいとただそれだけを願っていたのに。
星に引かれて回る惑星のように、それぞれの引力が私たちの関係を留めてくれると思ってた。
そして本当は、その距離がだんだん縮まることを……そこまで考えたとき、鉄砲水のような感情が心の底から湧き出してきて、私は自分を嘲るように笑った。
本当は、最初からそんな関係存在しなかったのかもしれない。好意を感じていたのは私だけで、最初から私ははるか遠いところにいたのかもしれない。光を反射することもできない、暗い、遠い圏外に。
私は目の前の桜の花を見上げながら考え続けた。
どうして知らされてしまったのだろう?知りたくもないことを伝える意味ってなんだろう?
けれどもその答えは、冷たい雨の底でいつまで経っても浮かんでこなかった。
季節は廻り私たちは人生という名の天球で星のように廻り続け、孤独の引力に引かれて私はいくつもの星と交わり合った。
それは私にとって本質的にとても虚しい営みだったけれど、それでも愛情と呼ばれるなにか、熱くやわらかいものを教えてくれた。
ただ花のそばを歩くだけだった私に、愛され方を、愛し方を教えてくれた。
私は夕陽に染まる歩道を、春風をスーツの襟の中に感じながら歩いていた。
風を切って走る車たちの音をすぐ横で聞きながら、私はすこし疲れていた。
街灯に光はまだ点いていなかったけれど、心はすでに静かな夜の中に沈みかけていた。
帰路につく通行人たちもみな口を閉ざしたまま、優しい自分だけの空間で心身を癒す時間に備えている、そんな静かな瞬間に突然……だけどやっぱり、当たり前のように彼はそこにいた。
彼も今ではオフィススーツを着て、スマートフォンをあの薄い綺麗な耳にあてながら仕事の電話をしているようだった。
びっくりしたけれど、私はもう戸惑ったりはしなかった。
むしろ、彼のいる場所へ向かって歩く私の心が、彗星のように彼に近づいて行って衝突して、二つの心が砕けてしまう、そんな結末が怖かった。
だから私は立ち止まった。自分の心を少し落ち着かせるために。けれども気持ちを整える隙もなく、電話を切った彼は顔を上げて私の方を見た。
反射的に私は神様に祈った。どうか彼が私に気づかず、視線が通り抜けていくようにと。
けれどもどうしてだろう。彼の瞳は私の目を見つめたまま動かなくなった。
私は、私は自分がどうすればいいかわからなくなった。
どうしていつも、伝えたいことは伝わらず、伝えたくないことは伝わってしまうんだろう。
そんな言葉が、またいつものとめどもない思考が、頭の中にぱっと浮かんでいた。
この瞬間が、お互いの心に焼き付くことがわかっていたから、私はどうすることもできなかった。
けれどもそんな瞬間に彼は、彼の方からはじめて私の顔を見て、春の日射しのように。
笑ってくれた。
桜を見ると泣きたくなるのはなぜだろう。
それは悲しみの涙ではなく、歓びの涙でもない。ただ、過ぎ去っていった時間が胸に溢れてきて、行き場のない感情が、涙という形をとって在りたがるのかもしれない。
それは夢のように過ぎていった時間だけれど、たしかに在った。そのしるしが、今もここにあると、この胸の内にたしかにあると、示したいのかもしれない。
春の風に吹かれ、夜桜を眺めながら私は本当に少し泣こうかと思った。
白露のように澄んだ小さな蕾の声が、そんな私の心を引き留める。
「おかあさーん!なにしてるのー?」
私は振り返り黒く硬い幹を後にする。そうして桜並木の中を歩き出す。
季節はこんな風に廻り続ける。どこまでもあたたかく、やわらかく。




