1967年前後の中東危機(いわゆる「第二次スエズ危機」)
■ 背景(1965〜1967年)
1960年代中盤、中東は急速に近代化を遂げつつも、
民族主義・宗教対立・大国の思惑が絡み合い、
**「独立と反帝の熱狂」**が再び高まっていました。
• エジプトのナセルはアスワン・ハイダム完成を機に「アラブ復興」を宣言。
• シリアとイラクでは、バアス党政権が反イスラエル政策を加速。
• ソ連はこれを支援し、中東での失地回復を狙って軍事顧問団と兵器供与を増やす。
• 日本・英米は「中東石油機構(MPO)」との関係維持を優先しつつも、
ソ連の南下を警戒して防衛線をイラン=トルコ=イスラエル軸に再編する。
この段階で、
中東=再び冷戦の最前線となりつつあった。
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シリア・イスラエル国境の緊張(1966年〜)
• シリアがゴラン高原に対空砲と戦車を配備、イスラエルとの小競り合いが頻発。
• ソ連がシリアにMiG-21、T-55など最新兵器を供与。
• 日本はエジプトを通じて停戦仲介を試みるが失敗。
• イスラエルは防衛のために動員を開始。
1967年5月、エジプトが紅海のティラン海峡を封鎖し、イスラエルの南方貿易を遮断。
これが「第二次スエズ危機(あるいは中東大戦)」の直接の引き金となります。
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戦争の勃発(1967年6月)
■ エジプト・シリア連合軍の奇襲
• 史実とは逆に、イスラエルの先制ではなく、エジプト・シリア側が主導。
• シナイ半島とゴラン高原から同時に侵攻。
• ソ連製兵器による近代的な奇襲攻撃で、イスラエル軍は一時後退。
■ イスラエル・日英米連合の反撃
• イスラエルが空軍戦力の大半を温存しており、三日目に大反撃を開始。
• 米海軍第6艦隊が地中海東部で展開し、**日本海軍艦艇**も参加。
• 日本空軍のF-104J部隊がシナイ上空で作戦参加(防衛名目)。
• エジプト空軍壊滅、スエズ西岸まで後退。
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外交と停戦(1967年7月〜)
• 戦局がエジプト不利に傾く中、ソ連は「停戦勧告」を出すも、イスラエルは受け入れを
拒否。
• ナセルは「帝国主義の侵略に屈せず」と演説、しかし国内経済は崩壊寸前。
• 日本政府は東京で「中東緊急和平会議」を提唱。
→ エジプト、イスラエル、ヨルダン、シリア、日本、英、米、インド、ソ連が参加。
→ 日本外相・松平康隆が議長を務める。
結果、
**「東京停戦協定」**が締結される(史実の国連決議242に相当)。
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東京停戦協定(1967年8月)
主な内容
1. 停戦ラインはスエズ運河西岸=ゴラン高原東端=ヨルダン川西岸。
2. イスラエルはシナイ・ゴランを占領するが、恒久的占領を否定。
3. 日本を中心とした「中東停戦監視団(J-MEF)」が現地に常駐。
4. MPO加盟国は石油禁輸を回避。代わりに日英米に「価格再協議権」を要求。
5. ソ連はエジプトへの軍事顧問団撤退を表明するが、シリアでは継続。
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戦後の中東再編(1968〜1970年)
• エジプトは戦後、日本の経済支援を受けて復興。ナセル後継のサーダートが親日・親英
米路線に転換。
• シリアは事実上ソ連の衛星国化し、冷戦の新たな最前線に。
• イスラエルは安全保障上の優位を得るが、日本の圧力により占領地の漸進的自治化を受
け入れる。
• 日本は停戦監視と経済復興援助を通じて、中東での政治的地位を確立。
→ 結果、
「日本=中東和平の仲介者・技術支援国」
というイメージが国際的に定着します。
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国際的影響
項目 史実との違い この世界での意味
戦争の発端 エジプト側の先制攻撃 ソ連支援の拡大と反西側民族主義の行き過ぎ
日本の役割 史実ではほぼ中立 停戦監視・和平仲介の主導的立場
ソ連 威信を失う 中東での拡張を一時的に停止
米国 日本に仲介を委任 アジア=中東での共同外交
エジプト 再度経済再建へ 親日化・西側復帰
イスラエル 過度な拡張を抑制 「現実主義的安全保障政策」へ転換
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総括
この世界の「1967年中東危機」は、
史実の「六日戦争」ではなく、
**「四十日間の総力戦と外交戦」**として記録される。
そしてこの戦争を通じて、
日本は「経済的後方国家」から
**「国際秩序の調整役・和平外交の中心」**へと脱皮したのです。




