第3章「最後の光」
外は、もうすっかり夕暮れだった。
だが砂漠の空には、星など一つも見えなかった。見えるのは、遥か彼方の地平に滲んだ赤い帯。それは太陽の残照ではなく、近くの戦場で上がる煙と、火の粉だった。
深見は壁にもたれ、拳銃の安全装置に指をかけたまま、じっと考えていた。
命令か、正義か。
部下の命か、上への忠誠か。
そのどれもが同じ重さに思えた。だが同時に、どれも取るに足らないもののようにも思えた。
「決めたのか?」
武沢の声が、背後から聞こえた。縛られたままなのに、その声には妙な威厳があった。
まるで、こちらの覚悟を見透かしているかのように。
「お前を撃つ。映像を送る。それでヘルファイアの誘導は止まるだろう」
「それで……君たちは助かる」
「可能性はある」
「なら、ためらうな」
静かだった。金子も何も言わない。ただ、表情に薄く笑みを浮かべていた。まるで、どこかの劇場で、自分の死を含んだ芝居の幕が上がるのを楽しみにしている俳優のように。
「最後に訊きたいことがある」
深見は口を開いた。
「なぜ……あの時、分隊を離脱した? 命令を疑った? それとも……罪悪感か?」
武沢は少し目を伏せた。しばらく沈黙があったあと、静かに口を開いた。
「子供がいたんだ。爆撃の予定区域に。ゲリラかもしれないと上は判断した。でも俺にはそうは思えなかった。……それだけだよ」
「そんなことで命令を無視したのか?」
「そんなこと、で人間は動くんだ。人の本能ってやつは、命令の“上”にある。俺はそう信じてる」
深見は顔をしかめた。その一言が、自分の中にどこか染み込むように響いた。
「始めよう」
金子が言った。腰元から、録画用の小型ドローンを手渡した。録画ボタンが赤く点滅する。
「角度はここでいい。背景に壁の弾痕が映る。照明は手持ちのライトで。あとは……表情だけだな」
「慣れてるな」
「これが“仕事”だからな」
武沢が一度、深く息を吐いた。
「悪く思うなよ。……俺も、お前の選択を否定する気はない」
その時、子供の泣き声がどこかで聞こえた。
富沢が縛られていた捕虜親子を解放し、安全な場所に移送していたのだ。
深見は銃を構えた。
照準が、武沢の額を捉える。
引き金に指をかけた瞬間、武沢が言った。
「その先に何があるか、お前は分かってるな?」
「……分かってる」
「“俺を撃った”という記憶が、一生お前につきまとう。部下は守れる。だが、自分は……守れない」
「分かってるさ」
トリガーが、静かに──引かれた。
だが、発砲音はなかった。
空砲だった。
武沢の額に真っ赤なインクが飛び散る。金子が手早く用意していた血糊だった。
映像はその一瞬で止まった。
「これで、送る」
通信士が即座に処理を開始する。デジタルデータは暗号化され、上層部へ送信される。
「……これで、我々は死んだことになる」
武沢が言った。まるで、これが劇の最終幕だと理解しているかのように。
しばらくして、衛星通信経由で一報が届く。
【作戦目標達成 誘導中止】
「……やったな」
有里が崩れ落ちるように座り込んだ。
金子が言った。
「おめでとう。君たちは、命令を“守り”、同時に“破った”。皮肉な話だ」
風が吹いた。廃墟の中の埃が、うっすらと宙を舞う。
深見はドアを開け、外に出た。
空はもう漆黒だった。星の一つも見えない砂漠の夜。
「武沢」
「なんだ」
「……お前は、これからどこへ行く」
「どこでもないさ。俺はもう、“死んだ”んだ。国籍も、所属も、記録もない。あるのは、風と砂だけだ」
深見は何も言わず、しばらくその背中を見送っていた。
そして思った。
これはただの任務ではなかった。
国の命令でもなかった。
俺たちは、初めて「自分の判断」で動いた。
──それが正しかったのか、間違っていたのか。それは、これからの人生で答えを見つけるしかない。
風が、夜の砂漠をなでていた。
──終章。