第1章「砂漠の沈黙」
目の前に座らされた男は、ひと言も口をきこうとしなかった。
肌の色、装備のくたびれ具合、そして井戸にいたというタイミング──どう見ても地元民だ。だが、それが何だというのか。疑わしければ尋問する。それが前線の常識だった。
「日本人部隊は、どこにいる。知っているはずだ」
弘道曹長の声が低く唸った。砂漠の風が壊れかけた窓を鳴らし、埃が宙を舞う。男の隣に座る子供が、きゅっと父の袖を握りしめた。
「……まったく。口を割らんつもりか」
曹長が拳を握る。張り詰めた空気の中、誰も口を出そうとしない。須藤がそばでそわそわしていたが、声には出さない。弘道には逆らえない。それがこの分隊の、いやこの小隊の“鉄則”だった。
「曹長、そろそろ……」
言いかけたのは富沢だった。現地語通訳、普段は能天気に茶化してくる男だが、今は眉間に深い皺を刻んでいた。「この男、ほんとうに民間人かもしれません。子供も連れてますし」
弘道はゆっくりと振り返り、眼だけで言葉を封じた。
「須藤、足を出せ」
「はっ……はぁ?」
「こいつの足を、撃ち抜く」
須藤は顔を引きつらせた。冗談ではない、という顔だったが、曹長は眉一つ動かさない。命令は絶対だ。それが軍隊という組織の“論理”だ。
富沢が現地語で訳した。男は眉一つ動かさなかった。尋問には慣れている──いや、尋問される訓練を受けている。そう、弘道は確信した。
「いち……」
須藤がカウントを始めた。おそるおそる。声が震えているのが誰の耳にもわかった。
「に……」
子供が泣き出した。父親はその頭をそっと抱き寄せたが、目線は弘道から外さない。強い、強すぎる。普通の市民ではない。
「さん……」
次の瞬間、銃声が響いた。
男の足が跳ねた。銃弾が甲を貫いたのだ。悲鳴をあげる子供。男のうめき。誰かが「クソッ」と舌打ちをした。
「次は頭だ」
弘道が言った。静かに、だが明確に。狂気がにじんでいた。
誰も止められなかった。須藤は立ち尽くし、有里は唇を噛み締め、富沢がうろたえながら子供を庇おうと身を乗り出した。
だが早かった。
曹長は子供を引きずり寄せると、その頭に銃口を押し当てた。
「撃つぞ。撃つ」
有里が絶句した。「狂ってる……曹長は狂ってる……」
その言葉が、風のように隊内を駆け抜けた。
そのときだった。
「やめろっ!」
それは、現地語ではなかった。明確な、しかも流暢な日本語だった。
一瞬、場が凍りついた。
男が叫んだのだ。ひざをつき、手を後ろに縛られたまま、絞り出すように。
「やめてくれ……全部話す……日本人部隊は……確かにこの近くにいる……」
しばらく、誰も動かなかった。誰も言葉を発しなかった。
弘道は子供を放し、銃口をゆっくりと下ろした。血の気が引いていた。富沢が慌てて子供を抱き寄せ、須藤が男の元に駆け寄る。
その瞬間、分隊全員が理解した。
この任務は、ただの哨戒活動ではなかった。
この戦場に、もっと深く、もっと暗い命令が潜んでいる。