ロミオは気づかない
中西明人は、演劇部の部室で脚本のプリントを折りながら、またため息をついた。
窓の外は、夏の終わりの空。文化祭まで、あと十日。
「……ため息、多いね」
背後から聞こえた声に、思わず肩が跳ねた。
振り返ると、そこには高谷詩織がいた。
彼女は、明人の幼馴染であり、同じ演劇部に所属するクラスメイト。
だが、それだけじゃない。
勉強も運動もできて、顔も良くて性格もいい。誰からも好かれる“高嶺の花”。
「え、あ、いや……その、ちょっとさ、ロミオって柄じゃないなーって」
明人は苦笑いを浮かべる。
文化祭の演目は『ロミオとジュリエット』。
主演に選ばれたのは、男子からの投票で明人、女子からの投票で詩織だった。
「似合うと思うけどな。まっすぐで、優しくて……それに、声がいい。練習のとき、ロミオの台詞が沁みたもん」
「いやいや、それは……」
「ねえ、明人は、自分のこともっと信じていいと思う」
詩織はそう言って、微笑んだ。
その笑顔に、明人は心臓が一瞬止まりかける。
(ダメだ……勘違いするな、俺。詩織は誰にでも優しいんだから)
明人は、自分に言い聞かせた。
自分は“ただの幼馴染”。彼女は、遠い場所の人だ。
でも、それでも。
その距離を、たった一度でも埋められたなら。
そんな願いを、どこかで抱いていた。
「……ジュリエット、君は、なぜジュリエットなんだ……」
演劇の稽古が始まった。
明人は演じることが好きだった。だが今回は違う。
詩織を見つめながら言葉を重ねる度に、胸の奥が苦しくなる。
稽古の後、片付けの最中に詩織がぽつりと言った。
「ロミオってさ、気づかないよね」
「何が?」
「ジュリエットがどれだけ想ってるか。どれだけ怖かったか。好きって言うのも、会うのも、全部……」
明人は、手にしていたライトのコードを止めた。
「……お芝居の話だよね?」
詩織は少し微笑んだ。でも、目だけは真剣だった。
「もちろん。お芝居の、ね」
けれど、明人の心はざわついていた。
言葉の裏に、何かがあった気がした。
けれど、気づけない。
いや、気づいても、踏み込めない。
(俺じゃ、ダメなんだよ)
そう、いつも心が引き留めてくる。
文化祭前日。体育館でのリハーサルが終わった帰り道。
校門を出ると、夕焼けの色が街を染めていた。
「ねえ、明人」
「ん?」
「覚えてる? 小学校のとき、二人で“王子とお姫さまごっこ”したの」
「……覚えてる。俺が王子で、詩織が……いや、あれ逆だったっけ?」
「ふふ、そう。私が王子様って言い張って、明人が照れてた」
二人で笑う。懐かしい思い出。
「ねえ、あのときから――ずっと、私は明人が好きだった」
明人の時間が止まった。
「……え?」
「ずっと。小学校のときも、中学のときも、高校に入ってからも。ずっと、ずっと」
胸の奥にしまっていた何かが、破裂しそうになる。
「でも、明人って、私を“遠く”に置くでしょ。ずっとそう。なんで?」
詩織の目が潤んでいた。
その問いに、明人は答えられなかった。
「……俺は……お前には、もっと似合う人がいると思ってたから」
「そんなの、私が決めることじゃない?」
言葉が、喉につかえた。
こんなときに限って、演技の台詞みたいな言葉が浮かばない。
「……明日、ちゃんと、ロミオやるから。そしたら、言うよ。俺の言葉で」
詩織は、少し泣き笑いでうなずいた。
「うん。待ってる」
文化祭当日。体育館は満員だった。
ざわめく観客の中に、明人の両親や、詩織の妹の姿も見えた。
幕が上がる。
舞台の中で、明人は“ロミオ”になった。
けれど、台詞の一つ一つは“中西明人”として紡がれた。
「……君を、君のすべてを、愛している。例えこの身がどうなろうと」
詩織の“ジュリエット”もまた、震える声で言った。
「もしこれが夢なら、もう目を覚まさなくていい……あなたを愛してる」
台詞の裏に、本当の気持ちがある。
観客席には届かないかもしれない。
でも、二人には確かに届いていた。
幕が降りる直前、明人は詩織の手をそっと握った。
「……俺も、ずっと好きだった。小学校の頃から。気づかないふり、してただけだ」
詩織は、小さくうなずいた。
そして、ゆっくりと幕が降りた。
公演のあとは拍手喝采だった。
先生も、生徒も、保護者も、誰もが「素晴らしかった」と言ってくれた。
でも
「一番、よかったのは……」
「うん」
「ちゃんと伝えられたこと」
帰り道、手をつないだままの二人は、夕暮れの坂をゆっくり歩いた。
あの距離は、もう遠くない。
ジュリエットはもう、気づいてほしくて泣くこともない。
ロミオももう、思い込みに囚われて立ち止まることもない。
そして、明人は思った。
“演劇”って、すごいな。
だって、台詞の中でしか言えない言葉が、本物になることもあるから。
終幕のない恋が、今始まった。