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父クロワ侯爵も母クロワ侯爵夫人も、どちらにもすでに別の女、男との子供がいるのをリュシヴィエールは知っている。噂とはいやでも耳に入ってくるものだから。


そして人がクロワ侯爵家の跡取りと見做すのは、父と平民女がつくった男の子の方だ。エクトルはただの……ただの、居候の男の子だ。わかっている、だって彼は父の血を継いでいない。クロワ侯爵家が養育しているだけの子だ。


でも、じゃあ。思考は混乱する。エクトルのことしか考えられないでいる。


(じゃあ、エクトルの寂しさは……どこにいけばいいの?)


うわごとさえ言えない高熱の中、ずっとそんなことを考えている。


アルトゥステア歴七百十三年十二月二十五日、深夜。リュシヴィエールは火事場から救出された。頭の大半は痛みを感じ、痛みを感じないようにして、痛みから逃れようとしている。その片隅で、エクトルの笑顔が、すんなりとした立ち姿が、ずっとリフレインしていた。


リュシヴィエールは暗闇の中を漂っていた。赤い暗闇だ。炎天下で瞼を閉じると見える自分の毛細血管の色。


麻痺した身体はそれでも痛みに取り囲まれている。生まれたときからこうだった気さえした。逃げられない痛みから目を逸らし続け、しまいには追いつかれたのだと、思った。


(ヒロインが別の攻略対象を選んでしまうとエクトルは裏社会で本当の暗殺者になって、姿を消してしまう。それはいやだ……)


思考は支離滅裂に点滅する。突然、自分の身体が引き攣れたのがわかった。意思で止めることができない痙攣だ。まだ、身体はあるのだ。燃え尽きてはいない。


(エクトル、エクトル)


彼の顔が見たい。声が聞きたい。笑いかけてほしい。思い出すのはあの髪、あの目、あの少年のことばかり。わたくしを愛して。


……普通の貴族令嬢ならば、いや、普通の女の子ならば――父母のどちらかが外で作ってきた子供などを受け入れないし、どんどん減っていく使用人や綻びていくドレス、質が下がる一方の食事、どこかの誰かに毟り取られ続ける財産目録に、耐えられまい。


元々、エクトルのことは好きだった。お気に入りのルートで、キャラクターだった。好きなゲームの好きなキャラクターのそばにいられて、幸せだった。


そしてそれ以上に。たとえ前世の記憶が蘇らなくても、赤ん坊のエクトルがあれほど美しい子でなくても、彼が愛してくれなかったとしても――ともに人生を耐え抜く相手として自我のない赤ん坊は最適だった。


彼をリュシヴィエールの外側のかたちに沿わせて育てたのは、リュシヴィエールの所有欲と前世の記憶の持ち主の愛だった。あなたは優しい少年だった。ヒロインと恋を育み、必要を感じれば身を引くような。暗殺を担う自分の血みどろの手を恥じるような。あなたがあれほど優しく、まっとうでさえなければ、姉に殺されかけることもなかったのだ。


リュシヴィエールというキャラクターを舞台装置以上に思ったことはなかったが、もしゲーム通りの自分が目の前にいたら間違いなく殴り飛ばしていただろう。


だからリュシヴィエールはこの結果に後悔はなかった。エクトルは五体満足で生きている。焼ける前、この目で確かに確認した。魔法の火は彼に危害を加えることはなかったのだ。リュシヴィエールの勝ち、だ。


身体じゅうを刺し貫く痛みがある。誰かの魔法が痛覚を鈍らせ、リュシヴィエールを眠らせる。眠りはありがたかった。意味のない思考を止めることができるから。気が触れてしまいそうな焼け付く思考を。


(わたくしはずっと頭がおかしいと思われてきた……)


と、思った。


(わたくしを見てくれる人は……エクトルだけだった)


洗脳するように愛でくるんだ美しい銀色の少年だけが、リュシヴィエールの全部である。エクトルはリュシヴィエールを愛してくれている。でもそれは、本当の愛か? 彼がリュシヴィエールに抱いた劣情は、本当に彼が自力で抱いた欲か?


きっと、違う。真相は。そうではない。リュシヴィエールがエクトルを好きだから、キャラクターとしての彼を愛していたから、人間としてのエクトルに同じものを注いで、そしてエクトルは優しいから、注がれたぶんを注ぎ返してくれた。きっと結論はそう。刷り込みみたいなものだ。


恥ずかしく惨めだった。自分が卑怯者だというのをリュシヴィエールは知っていた。


生まれた時からそばにいる特権を使って子供が自分を愛するよう誘導した。そうまでしないと愛されなかった。


けれど、それでも。


「エ……ル……」


と唇が勝手に動いて、その名を囁く。


銀と金を織り交ぜたような髪は風になびくたび光沢を放つ。青い目は海の色、晴れ渡った夏の日を映した色。たまに現れる銀色のふちが怪しく光るのを、リュシヴィエールは綺麗だと思っていた。とびきり腕のいい職人が生涯にひとつだけ生み出した精巧な銀細工、自然よりも自然らしく光を模した少年。


八歳年下の義理の弟を、エクトルという少年のことを、リュシヴィエールは愛していた。


破滅しつつあるクロワ侯爵領キャメリアで、まるで世界で二人きりのように暮らすのは楽しかった。彼に寄りかかり、彼に頼り頼られて生きることが喜びだった。かつて望んでも得られなかったものが全部、かたちを変えて手の中にやってきたように思えた。


なんて身勝手な。


なんて馬鹿馬鹿しい。


どうして、そんなことしてしまったんだろうね。


「先生、ご令嬢に意識があります」

「まさか?」


医療魔法大学出の医者とその助手の驚きの声をリュシヴィエールは聞き取れなかったが、廊下で待つエクトルの耳には届いた。彼は顔を上げ、細い息をヒュウッと吐き出した。


魔法と薬が導く眠りにリュシヴィエールの精神は沈んでいく。火傷は重く、柱に押し潰された足の損害はさらに重い。


金の髪が燃え尽きてしまったことに、リュシヴィエールは気づかない。たとえ生還できても続く人生は過酷なものになるだろう。彼女は美しい令嬢だったが、これからそのように扱われることはないだろう。


けれどエクトルの魂がリュシヴィエールを呼ぶので――彼女は生き返り、これから先もまた歩んでいくのに違いない。



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