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アルトゥステア歴七百十二年、七月七日。今日は流星群が降るとされる恋人たちの祝日で、日本でいうところの七夕伝説の男女ような星座が二つ、昇るはずだった。しかし残念ながら朝から曇り。このぶんでは星空は見えないだろう。


「綺麗なお星さまのためにー、頑張ったのに曇り空。つまらなくてよー」


と歌うように愚痴りながら、リュシヴィエールは針を動かした。刺繍である。無心になれる作業は好きだ。ゲームの周回に似ている。


「しょうがないじゃない。お空のご機嫌ばっかりはどうにもならないよ」


と笑うエクトルは、珍しく昼日中にクロワ邸の中にいた。


使わない部屋は全部家具に埃除けをかぶせて締め切ってしまい、解放されているのは二階リュシヴィエールの部屋と図書室、それから一階の朝食室、何かの時のための応接間くらいだった。使わない金の燭台だの見せるための食器だのはまだ暖炉の上を飾るけれど、そのうち売り払わなくてはならなくなるだろう。


「姉上、何やってるの?」

「おまえのためにハンカチに刺繡をしてあげてるのよ。貴婦人手ずからの刺繡が入ったハンカチは騎士の名誉ですからね」


彼女と一緒に買ったペアリング、彼氏に買ってもらったブランドバッグみたいなものである。エクトルが王立魔法学園に行っても思い出してもらえたらと思って。


「ふうん。俺は別にどっちでもいいけど。もらってくれって言うんなら、もっていってあげるよ」


と、憎まれ口とは裏腹にエクトルは嬉しそうに足をぱたぱたさせた。夜の口づけの気配のかけらもなく、エクトルは正しく少年である。


曇り空の最中に稲光がした。遅れてゴロゴロという轟音も。昼になる前に雨戸を閉めた方がいいかもしれない。


「姉上、ここの解説が納得いかないよ。教えてくれる?」

「ん? これはねえ……」


と、くっついて構文集の問題を解く。これもリュシヴィエールが使っていたもののお古だ。


エクトルは身体を動かすのも勉強も好きなようで、どちらかといえばどっちも嫌いだったリュシヴィエールとしては珍獣にも見える。貴族社会から縁遠くなりつつある今、知らない貴族の大人たちとの会話文例などは異世界の言葉を学ぶようで面白いらしい。外国語も数学もエクトルは好きだ。


勉強道具を並べ、インクが切れたら自分でつぎ足す。水差しの中身も自分で汲みに行く。暖炉の火を熾すのも、眩しいからとカーテンを閉めるのも。何から何まで自分たちで用意した空間は心地よかった。そうした仕事をするはずの侍女や上級侍従のほとんどが暇をもらって出て行ったので、屋敷に残ったのは下級使用人ばかりだ。掃除や洗濯、キッチンは回るから、なんとか屋敷の切り盛りされている。けれど残った上級使用人の家令一人では正餐会も昼食会も開けない。


クロワ侯爵家は――クロワ侯爵領キャメリアは貴族社会から落ちこぼれ、あとは衰退を待つばかりである。あとに残るのは逃げられない者たちばかり。


それでも人の血に濡れて歩む道よりはずっといい、はずだ。


リュシヴィエールは玉止めした刺繍糸を糸切りハサミでぱちんと切った。窓の外で雨が降り始めた。


「ああもう。星見は諦めなくてはダメね」

「でも雲の上に星はあるよ。見えなくなっただけ」


エクトルは美しく微笑んだ。


「手が届かない星を思って夜を過ごすのも、悪くないと思うでしょう?」


リュシヴィエールは立ち上がって換気のために小さく開いていた小窓を閉めにいった。席に戻ろうと振り返ると、思った以上に近いところにエクトルが立っている。体温が感じられるほどだった。


少年は濡れた目でじっとリュシヴィエールを見つめていた。手が伸びてきて、身体を引き寄せられそうになる。唇がわずかに尖り、目が口づけを望む。彼女は静かに首を横に振った。強引に彼を押しのけて、まだ細い身体の横をすり抜ける。


「姉上……」


母犬に邪険にされた子犬のような声は切ないが、そこばかりは譲れなかった。


ロンド王国では文化的に親愛のキスは認められるが、頬や額へするのが一般的だ。本当に、よっぽど仲のいい、たとえば兄弟姉妹やいとこ同士であれば軽く口に口づけることもある。リュシヴィエールとて木石ではないから、エクトルの望む口づけが親愛以上の意味を求めていることくらいわかる。


「勉強しないのなら別のことをしなさい、エクトル。それともわたくしが出て行った方が集中できる?」


リュシヴィエールは隣の席を指し示してそう言った。目は不自然にエクトルから外していた。おまえなど眼中にない、と言外に強く示した。


エクトルはすごすごとリュシヴィエールの隣、きょうだいとして正しい距離の椅子に戻り、背中を丸めて教本の上にかがみ込む。


いくら親に見捨てられ妙な求婚者しか望めず、二十歳にもなって婚約者すらいない寂しい令嬢とはいえ、半分血の繋がった、それも十二歳の男の子相手に発情するほど見境なしではない。


閉ざされたキャメリアの地の、さらに寂れたクロワ邸で同じ顔ぶれとばかり付き合っていては、世間からずれるのも当たり前である。


……やはり彼はストーリーの通り王立魔法学園に行くべきなのだろう。そこで同じ貴族身分の少年少女たちと交わり社会を知る。もしかしたらヒロインと恋に落ちるかもしれないし、王太子ルートで当て馬にされるかもしれないし、隠しキャラの実は先々代の王の隠し子で学園の庭師をやってる男のルートで噛ませ犬にさせられるかもしれない。


(いやだ……)


と、その未来を思えば不潔さに嫌悪が湧いてならないけれど、なんかもうヒロインへの憎悪まで沸いてきそうで地団駄踏みそうだけど。でもそうやってエクトルは姉に対して何らかの気持ちを抱いたことなど忘れるだろう。いわゆる黒歴史になるのかもしれない。


(たぶんこの子にとってはその方がいいのだわ。そもそもなんでわたくしなんかを愛情の対象に選んだのかわからない)


そりゃ、まあ、クロワ侯爵家は代々美貌を選りすぐって掛け合わせられた名家だから、リュシヴィエールの顔面偏差値はちょっとしたものである。それにしたって身近に若いメイドも農作物の納品に来る農村の娘だっているのに、八歳年上をターゲットにする理由がわからない。


エクトルは若すぎる。身内の愛情と性愛の区別がつかないほどに。リュシヴィエールは彼を突き放すべきだ。


(わたくしが子離れすべきってことなのよね、たぶん)


雨はどんどん本降りになった。暖炉の熾火も灰色になり、寒気と夕闇が部屋を覆った。エクトルが北の塔に戻りたいと言い出すことはなかった。


指一本分ほどの距離に佇むエクトルの体温を、リュシヴィエールは意識しないよう必死になる。彼はかわいいおとうと、母親が産んだ赤ん坊なのだ。おむつを替えたことがあるし、離乳食を顔に吹き出されたこともある。


そう思いながら佇んでいた。エクトルの小さく硬い熱い手がリュシヴィエールのたおやかな手を覆ったのは、いつの頃だったか。


ざあざあと、雨は降り続いていた。窓の外は真っ暗で、雷の音がした。



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