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長ネギ(現代版オマージュ『檸檬』)

作者: 綾川混沌

 



 世界が灰色に見える。心の中が空虚で、何を見てもモヤがかかったように、一段遅れて胸に伝わってくる。あれほど好きだったバンドも、今聞くと唯のギターとドラムと何某かの集合体にしか聞こえない。心を躍らせるメロディーは死んだ。否、受取手である私の心が死んでしまったのだろう。

 苦しい。でもこの世の中を生きていくしかない。心はこれ以上何も受け取ることもできないほどに、許容量を超えているというのに、だが腹は減る。私は食料を調達するためにスーパーマーケットに向かった。仕事帰りの九時まで空いているこの店は優しいのか。九時まで、いや閉店作業も鑑みるとそれ以降までも働かされている従業員は地獄なのか。そんな感傷的な考えと並列して、生きていくための金勘定をしているもう一人の私は、閉店間際の値下げの此の時を好機だと捉えている。いらない。吐きそうだ。しかし、合理性が全てを屈服させる。

 この食事は明日分の燃料だ。


 ショッピングカートにカゴを乗せ、歩みを進めた。

 ……寒い。これは私の体調のせいではない。生野菜を保存するための冷気のせいだ。冷たい。なんて冷たいんだ。これも世間が冷たいから悪い。上司が陰険だから悪い!

 見てみろ!誰一人、生身で接してくれるやつなんていない!きゅうりは三本入りで、ジャガイモは三百円パック、トマトは五個セット、全部ビニール袋に包まれている。これも都会だから悪い。私は地元の無人販売所で、むき出しになって並んでいる野菜たちに思いを寄せた。あの生命力に満ちあふれ、みずみずしく大ぶりで、実直で嘘のない姿を。そんな妄想は霧散して、目の前には綺麗に整えられた陳列棚があった。

 ダメだ。都会には、ビニールに巻かれた冷たい人間しかいない。


 そんな中、野菜コーナーの端に、気になるものがあった。長ネギだ。

 その長ネギは、そのままの状態で、ビニールに包まれることなくそこにあった。私の胸に衝撃が走った。今までの言説が覆ったからだ。そうだ、長ネギとは、買い物袋からもはみ出るような存在だった。

 その縛られぬ姿に、私は、最もの自由さを感じた。その長ネギたちは、空気に触れすぎたのか少し萎びていた。しかし、私にとって良し悪しは関係がなかった。その存在に感銘を受けたからだ。これを買って帰る。私はそう決め、他の食材のことはそこそこにレジへと向かった。

 合理性の悪魔は言った。長ネギを一本、一人暮らしの女が使い切れるわけがない、戻してきなさい。私はセルフレジを選んだ。長ネギにはバーコードがなかった。手動で長ネギのことを探した。私にとって、そのような経験は初めてだった。



 次の日。いつもと変わらずに、朝の九時に朝礼が始まる。私は家電量販店で働いている。

 先月の売り上げ目標が確認される。私の売り上げはまた足りていなかった。「福山さんね! 今日は日曜日だから頑張ってこうね!」と店長が言った。私は、覇気のない声で「はい」と返事をした。いつもより大きめの、自分のリュックを眺めながら。

 店が開く時間、十時だ。

 私はテレビコーナーに配置されていた。常時つけているインカムから「外扉開きました、今日もよろしくお願いしまーす!」と中村君の声が聞こえる。「はい、よろしくお願いします」と皆が返答をして、回線が混雑して音が潰れていく。だから私は返事をしなかった。どうせ聞こえないからだ。そんな小さな反抗をしたって何も変わらないことは知っている。でも、やらずには居られない。

 十数個の大小のモニターが、一様に同じ画面を映している。大河ドラマが始まったようだ。


 今日は確かに盛況していたが、テレビコーナーはあまりそうではなかった。これは私にとっては悪い兆しだった。

 「福山さん! 今いくら?」と暇になった店長が、インカム越しに声をかけてくる。

 「すみませーん、店員さん!」と、家族連れらしきおじさんが声をかけてくる。これは良客そうだ、と思った時に、「福山さーん?」とまた店長から話しかけられる。頭がおかしくなりそうだ。

 「すみません、店長。対応中です」と発言する。


 「うーん。そんなに画質は良くなくてもいいんだよね」とお客様、もといおじさんが言った。話が長くなりそうだ。面倒だな。

 「大きさは大きめがよろしいんですよね? でしたら、こちらかこちらのタイプが……」と、何択かに絞って案内した。

 インカムでは、店長が「中村くん? 洗濯機の案件決めた? 今週中に決めないとやばいよ」と全体用ボイスチャットで言っている。ひどく耳障りだが、このインカムは皆ずっとつけていなければいけない。

 左目のまぶたが、独りでにピクリと痙攣した。


 「うーん。その値段だったらネットで買った方が安いかもしれんな……」「あらそうなのお父さん」おじさんが、その奥さんと相談を始めた。さらに面倒になっていく。もっともらしいことを、もっと言わなくてはいけない。

 「うちでは、他社と比べて安くするようにしておりますので、他社の値段を教えていただければ、お値下げできると思いますよ~」と言いながら、笑顔が保てているかの心配ばかりをしていた。

 「え~安くしてくれるってさ、じゃあ三万より安くなると思うんだけど」「いえあの、お客様。他社の商品の、お写真か何かお持ちですかね?」「え?持ってないけど?」「一応、我々としても確認がとれないと何とも言えなくてですね……」「ええ、あ、そう……。ねえお母さん!やっぱり値下げダメだってよ!」と、冷蔵庫コーナーを見ていた奥さんを呼び戻してくる。古いインカムがジジジッと音を立てる。

 「福山さーん! まだ対応中?」有象無象から、私の名前だけを拾いあげることにも注力しなければならない。

 「すみません、まだ対応中です」「そうか、良いところで切り上げろよ」「はい」これでしばらくは来ないだろうと思いながらも、タイムリミットをつけられてしまった焦りが生まれた。

 一面のモニターを見ると、十数個の龍馬がまったく同じ動作で、刀を振り回しているところだった。


 「うーん。また今度にするよ」お客様が帰ってしまった。しかも売り上げなしで。やけくそのような気持ちでインカムのマイクを入れた。

 「福山、対応終わりました。何かご用件ありますか?」「おおー、福山。そういやさっきの売れた?」「……さっきのお客様はダメでした」「なーにやってんだよ! あんだけずっと居たのに?!」「……すみません」「ま~こっから目標頑張ろ! 五十万! おーい夏井、来客数は今何人?」「二十人くらいです」「うん悪くない悪くない。頑張ってこー!」そうやって、この日曜日は過ぎていった。

 ……その日、また私の売り上げ目標は達成出来なかった。



 その日私は帰り際に店長に呼び出され、売り場で待っていた。

 ロッカー室ではなく、わざわざ売り場に呼び出すとは何がしたいんだろう。「テレビコーナー先行ってて」とインカムで伝えられる。

 帰るところだったため、私は片手で私物のリュックを持ち歩いていた。


 店長がやってきた。

 「福山さんね、仕事が雑じゃない? 一つのことを始めると、他まで手が回ってないというか」「……すみません」痛いところを突いている。私の頭はもうパンク寸前なのだ。もっと嘘をつかないといけない。

 「すみません、気が回らないことが多くて……」打開案を考える。笑え! 取り繕うにはそれしかない! 特攻のような気分でヘラヘラと笑みを浮かべる。店長は笑っていなかった。

 「あのねえ。こっちは真剣に言ってるの。何笑ってんの? 真面目にやってる?」私の顔からは一瞬で笑みが消えた。もともと、全く楽しくないのに笑っていたのだ。笑みを消すと、本来の無の表情が浮かんできているだろう。いや、真剣な顔を作るべきなのか? 分からない。嘘をついたのに、その嘘が間違ってたなんて損過ぎるじゃないか。

 「この後、テレビコーナーのレイアウトを変えといてよ」と店長が言ってくる。正気か? もう閉店後だぞ? そう言って、店長は消していた電気をまたつけていく。

 明かりがつく度に、決定が覆らないことを実感する。電源が繋げられて、大きなテレビのモニターに、龍馬伝が再び映った。私の中でも、何かが繋がった。


 私は、リュックの中から長ネギを取りだした。

 「長ネギ……?」と店長が言う。私も、まさか取り出すとは思っていなかった。ただお守りのために持ってきていたけど、この長さが収まるカバンを探すのは大変だった。

 私は、長ネギの端を両手で握りしめた。剣道の構えをする。高校時代に打ち込んでいた剣道部のことを思い出した。むき出しの姿のままで、仲間たちとぶつかり合えていた、学生時代のことを。

 「なにをふざけてるんだ!」と店長に怒鳴られる。私はずっと真剣だ。そう思いながら、素振りをしてみる。すると、その先にあるモニターが真っ二つに割れた。

 「……そんな馬鹿な!」と店長が言うも、それくらい出来るだろう、と私はなぜか冷静に思った。何もかも一刀のもとに切り伏せられる気がした。構えをしたまま一瞬止まる。刹那、すり足で距離を詰め、「面―ッ!!」と大きく振りかぶり頭をスパーンと打つ。

 店長の頭もスイカのように割れた。



 ――目が覚めた。いつも通り、八時のアラームだった。ああ。何も変わってないんだ。今日もシフトだ、向かわないと。いつも通り、スーツの準備をして、髪のセットをして、と流れ作業を行いながら、ふと立ち止まる。

 ……そうか、私は頭がおかしいらしい。先ほどの夢を受けて、自身のおかしさに自覚的になった。もうそろそろ限界じゃないか? そうか、私はもう頭がおかしくなりたかったんだ。精神科にでも行って、休みの理由の申し開きでもしたかったんだ。

 私は、いつのまにか流れていた涙が、頬を伝ったのに気がついた。それに気がつくと、もう止まらなくなってしまって、あふれ出す涙を両手で拭っていた。

 そうして、あれ、と気がつく。鼻をひくひくとさせる。手のひらを鼻の前に持ってきて、息を思いっきり吸う。

 ……青臭い。涙が縁にたまった状態で、声をあげて笑ってしまった。


 私はおかしいけど、どうやら長ネギは間違っていなかったらしい。店長へと電話をかける。

 「……おはよう、福山さん。どうも今日は頭が痛い。低気圧かね――」と電話に出ていた。店長は生きてるらしい。息をすうっと吸った。

 「店長、私、仕事やめます。都会は向いてなかったみたいです。地元で農業の手伝いをしようと思ってます」

 これが、私が初めて都会で言った真実かもしれない。








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