私たちの血には空が流れている
私たち《クローン》には同じ血が流れているけれど、みなが同じ姿をしているわけじゃない。背や身体の大きさだって生育環境によって変わるし、髪型や好んで着る服だって違う。明るく陽気な人だっていれば、臆病で陰気な人だっている。そして何より、私たち《クローン》は、生まれた時から神様からに烙印を押されている。誰の目でもわかるような場所に、誰の目でもわかるような形で。
「ねえ、お母さん。あの人、耳が変だよ」
帽子が風に飛ばされ、慌てて自分の左耳を隠そうとした私を、遠くから小さな子供が不思議そうに見つめていた。隣にいた母親らしき女性は私を一瞥した後で、小さな声でその子を叱りつける。私は大丈夫ですよと微笑んでみせたけれど、母親はバツの悪そうな表情のまま私に頭を下げ、そのまま足早に去っていった。
「大丈夫ですか?」
若い男性が声をかけてくる。彼の右手には飛ばされた私の帽子が握られていた。拾ってくれてありがとうございます。私はお礼を言いながら帽子を受け取り、それと同時に彼の右手に目がいった。その右手を見て、彼が私と同じような境遇の人間であることを知る。
「ここら辺ではまだ私たちのような人間は少ないですから。気にしないでください」
彼はそう言って、指の数が六本ある右手で自分の頭を掻く。それではと彼は一言だけ言い残し、その場を去っていく。
私は帽子の土埃を手で払いながら、もう一度振り返って、先ほどの親子の姿を追った。クローン技術ではなく、おそらく生殖によって生まれたであろう子供は、母親の手を握りしめながら楽しそうに笑っていた。自分の左耳を触る。右耳と同じ前方ではなく、真逆の後ろを向いている、私の左耳を。
*****
『ねえ、ちょっと止まって』
由貴にそう言われ、私は一枚の絵画の前で立ち止まる。クローン人間用教育カリキュラムの一環で訪れた美術館。並べられているのは海外の有名な画家が書いた風景画たち。由貴がじっと眺めていたのは、その中の一枚で、朝焼けに包まれたヨーロッパの港町を描いた風景画だった。
画面の前景には小さな漁船がいくつも描かれていて、静かな海面に反射する朝日の光でほんのりと照らされている。空はオレンジ、ピンク、紫のグラデーションで彩られていて、じっと絵画を見つめていると、海からの微かな塩の香り、そして遠くで鳴るかもしれない海鳥の声まで想像することができた。
私は由貴の方を見る。私と同じDNAを元に、同じに日に同じ施設で生まれた私のたった一人の姉妹を。由貴は絵画を真剣に眺めていて、そして頬には一筋の涙が流れていた。
『どうしたの、由貴? なんで泣いてるの?』
『わかんない。今まで一度も海なんて見たことないのに……』
涙で顔を濡らして、当惑した笑顔を浮かべながら彼女は言った。
『なんだか……すごい懐かしくて』
*****
阿部のり子が住む家は、小さな港町を背にした高台の一番上にあった。
高台には緩やかな傾斜の小道が延びていて、道に敷かれた細かい砂利を踏み締めるたびにシャリシャリという感触が靴底を通して感じられる。道の両脇にはミヤコグサの花が咲いていて、深く息を吸うと、磯の匂いに混じって、甘くさわやかな香りがするような気がした。
坂道を登り切り、私は汗を拭きながら、港町の方へ顔を向けた。目の前に広がる海は、太陽の光を受けて輝いていて、遠くには小さな船が点々と見える。淡いブルーをした海と空の境界はぼんやりとしていて、じっと見つめていると、私の身体と意識が夏の暑さで溶けてしまいそうだった。
目の前に広がる景色を見ながら、いろんなことが頭の中に浮かんでは消えていく。美術館に飾られた絵画のこと。生まれ育った施設のこと。そして、由貴が流した涙のこと。
私は家へと視線を向ける。家の周囲には、よく手入れされた庭が広がり、色とりどりの花々が競うように咲いている。家の外観は綺麗な木造建築の家だが、古い木の扉が、何代にもわたる歴史を感じさせた。
私はゆっくりと歩き出し、玄関の扉の前に立つ。扉にチャイムはない。私は少しだけ迷った後で、扉を数回ノックしてみる。すると家の中から、くぐもった声で返事が聞こえてきた。重たげな足音がゆっくり近づいてきたところで、私は扉越しに名乗った。
「昨日お電話した、田村千春です」
その言葉と同時に、玄関がゆっくりと開く。玄関の前には老婦人が立っていて、待ってましたよと穏やかな表情を浮かべながら出迎えてくれた。
「初めまして、阿部のり子です」
老婦人が私と同じように名乗り、私が頷く。そして数秒間私たちは見つめ合った後で、私が口を開く。
「数日前にお電話した通りなんですが……」
私は彼女の顔を見ながら、真剣な表情で言葉を続ける。
「私がこんな風に生まれてしまった元凶であるあなたを、ぶん殴りに伺いました」
私がニコリとも笑わずに伝えても、阿部のり子は穏やかな微笑みを絶やさずに、「困ったわねぇ」とだけ余裕のある口調で返事をするだけだった。
「とりあえず家の中へどうぞ。辺鄙な場所だし、ここに来るだけで疲れたでしょう?」
阿部のり子がそう言って笑った。私はその飄々とした態度を見て、少しだけ拍子抜けした。私はもう一度改めて、私と同じ血が流れている彼女を観察する。いや、私と同じではなくて、私が彼女と同じ血が流れていると言った方が正しいのだろう。
なぜなら、オリジナルは彼女の方であり、私は目の前にいる彼女のクローンとしてこの世界に生まれてきたのだから。
*****
『ねえ、千春。そこに座って、目をつぶってて』
私が何? と由貴に尋ねるけれど、彼女はいいからと言うだけで教えてくれない。私が仕方なく目をつぶると、近くでゴソゴソと何かを取り出す音が聞こえてきて、それから頭に何かを被せられる感触がした。
目を開けてもいいよ。由貴の声に目を開ける。私の目の前には鏡を持った由貴がいて、鏡の中には深い帽子を被った私の姿が映っていた。
『ちょっと早いけど、誕生日プレゼント。ほら、こういう形の帽子だと、耳が自然に隠れるでしょ?』
由貴が笑う。私は鏡に映った自分の姿を見ながら、ありがとうと彼女にお礼をいった。
『一生大事にするね』
『大袈裟だよ』
そう言って私たちは笑いあった。私はもう一度鏡に映った自分の姿を見る。いつもは目に映るだけでも嫌だった自分の姿も、由貴からもらった帽子を被っていると、少しだけ好きになれるような気がした。
*****
持続的な成長のために必要な人口を維持するため、国はクローン人間を産み育て、人口の補填を行うことを決断した。
クローン人間のオリジナルとなる人間は、科学的な議論を重ねた上で決められた条件をもとに選ばれた。条件にはいろいろあるが、最も重要なのは安全性、すなわちクローン人間を産み出す時に意図せぬ変異が起こる可能性が可能な限り低くなるようなDNAの塩基配列を持つこと。厳格な条件に合致する人間は極めて少なく、現在この国に存在するクローン人間はすべて、ごく限られたオリジナルの人間をベースに作られている。
そして、私の目の前に座っている阿部のり子はその厳しい条件を満たした数少ないオリジナルの人間であり、私を含めた兄弟姉妹のオリジナルの人間。
「詳しくは聞いていなかったけど、一体どういう理由でこんな老ぼれをぶん殴ろうとしているわけなのかしら? 私は確かにあなたのオリジナルかもしれないけど、私は遺伝子を提供しただけで、あなたとは今まで一度もお会いしたことはないでしょう?」
座卓の向かいに座った阿部のり子が、相変わらず穏やかな表情を浮かべたまま尋ねてくる。家の中は、柱のシミや天井の汚れから年季を感じさせるが、掃除は綺麗に行き届いていて、古臭さは感じさせない。襖は開かれ、縁側からは磯の匂いが混じった心地よい風が吹き込んできて、吊るされた風鈴が心地よい音色を奏でていた。
私は出されたお茶に口をつける。それから顔をあげ、じっと彼女を見つめながら返事をした。
「あなたがいなければそもそも私はこういう身体で産まれてくることはなかったからです」
私は無意識のうちに髪をかきあげる。どんな反応をするだろうと私はじっと阿部のり子を観察したが、彼女は何も言わずに私をじっと見つめるだけ。ゆっくりと同じようにお茶に口をつけた後で、穏やかな表情を崩さないまま口を開く。
「DNAの変異は別に私がオリジナルになったクローンだけではなくて、全てのクローンで必ず起こる事象なんでしょう? それに理論上はほぼ発生しないはずにもかかわらず、原因はいまだに不明のまま。そんなことを言われても、科学者じゃないから困っちゃうわ」
「そんなことわかってます。でも、それじゃ私の気持ちが収まらないんです!」
私は持っていた湯呑みを強めに座卓の上に置く。陶器が木材にぶつかる鈍い音が、外から聞こえてくる夏の音に混じって溶けて消えていく。つい感情的になって声を荒げてしまったことに、私は少しだけ罪悪感を覚える。実際、彼女の言っていることが正しいし、私が言っていることの方が変だということも頭では理解している。彼女は遺伝子を提供しただけだし、怒りをぶつけるべき相手ではない。あえて怒りをぶつけるのだとすれば、人口維持という名のもとに私を産み落としたこの国に対してなんだと思う。
それでも。私は無意識に自分の左耳を触りながら、ぐっと言葉を飲み込んだ。
「わかるわ」
阿部のり子は口をつぐんだ私に、優しく語りかけてくる。
「怒りや悲しみを誰かにぶつけでもしないと、やってられないほどに苦しいのよね?」
「……あなたに私の何がわかるんですか?」
「わかるわよ。だって、私と同じ血が流れているんだもの。産まれてきてしまったことを後悔したことなんていくらでもあるわ」
それから阿部のり子は私から顔をそらし、家の外へと視線を向ける。穏やかな横顔をじっと観察すると、長い年月を重ねてきた証が彼女の顔にはっきりと刻まれていた。深い皺は彼女の顔を縦横無尽に走っていて、瞳は時の流れとともに少し色褪せてはいる。それでも穏やかで柔和な表情の奥には、気品と苦労が宿っているような気さえした。
そして、私は彼女の耳に目が止まる。彼女の耳は私の耳とよく似ていた。子供の頃、何度も何度も鏡で確認し、耳たぶの大きさや穴の形まで全てを観察し尽くした自分の大嫌いな耳に。同じDNAを持っている以上当たり前であるにもかかわらず、私はその事実をぐっと食い入るように見つめた。
心地よい風が部屋の中を吹き込んで、頬を撫でる。そして、長い長い静寂のあと、阿部のり子はまるで独り言のように呟いた。
「せっかくのいいお天気だから、お散歩にでも行きましょうか」
*****
こっちから産んでくれと頼んだ覚えはない。
ドラマの中、子供が親にそう叫び、親が悲しそうな表情を浮かべる。私と由貴は寮室にいて、身体をくっつけあってテレビを見ていた。
『そう言える相手がいるだけ、恵まれてるよね』
由貴がポツリと呟く。
『私たちは国の都合で、しかもこんな変な身体でこの世界に産み落とされた。こんなに暴力的なことってありえる?』
私は自分の左耳を触る。宗教によってはクローン人間に現れるこのような変異を、傲慢な人類に対する罰だと考えているらしい。
でも、だったらなぜ。なぜ神様は私たちを作った人間じゃなくて、私たちに罰を与えるんだろう。私たちが生まれてくることが罪だとしても、私たちは自分の意思で生まれてきたわけじゃないはずなのに。
『生まれてこなければよかった』
由貴がそう言って、私の方を見る。由貴の顔半分はテレビの光が当たり、残りの半分は暗くてよく見えない。それでも私と全く同じ彼女の目は私をじっと見つめ、そしてその彼女の目の中には、彼女とそっくりな顔の私の顔が映っていた。
『千春もそう思うよね? 思ってくれているよね?』
問いかけではなく、確認に近い言葉。私は頷き、暗がりの中で彼女をそっと抱き寄せた。ありがとう。由貴は私の肩に顔を埋めながら何度も繰り返した。
『全部が憎くてたまらない』
由貴のその言葉はテレビの音声にかき消されるほどに小さかった。だけど、その言葉は私の耳から頭へと伝わり、ガンガンと耳鳴りのように鳴り続けていた。
『全部が憎いの……。この世界も、この国も、私のオリジナルとなった人間も、そして……千春のことも』
*****
小道の砂利を踏み締める音が二人分、周囲の自然の中で静かに響き渡る。
私たちはゆっくりとした足取りで、家の脇から続いていた小道を歩いていた。高台をぐるりと囲むように整備された小道からは港町が一望できる。家まで続いていた坂道よりも脇道に生えた草木はのびのびと生い茂っていて、風が吹くたびに葉が擦れ合う音が心地よく聞こえた。
阿部のり子は時々立ち止まっては、道端に咲いた花を指さして名前をつぶやいた。そうかと思うと、今度は港町の方へ視線を向け、遠い昔の話を語りだす。私は彼女に相槌を打ちながら、不思議な懐かしさを覚えていた。ここへ来ることは初めてだし、都会で生まれ育った自分にとってこういった自然が思い出深い場所というわけではない。それでも、小道の花に目が止まるたび、水平線から微かに船の汽笛が聞こえてくるたび、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような気がした。
「それは当然よ、あなたには私と同じ血が流れているんだから。ここでずっと育ってきた私にとってこの場所が大事な思い出の場所であると同時に、あなたにとっても大事な場所なんだから」
阿部のり子は微笑みながら私にそう言った。
「記憶は脳で保管されるので、別に同じDNAをしているかどうかは関係ないと思います」
「本当に大事なことはね、頭だけではなく、遺伝子にも刻み込まれるのよ。いつまでも覚えておけるように」
「非科学的です」
「そうね。でも、生きていくためには、科学的かどうかよりも、わたしたちがどう感じるかの方が大事になる時もあるのよ」
私たちは途中にあった寂れたベンチに腰掛ける。ちょうどベンチは、裏の斜面に生えている木々の木陰になっていて、夏の強い日差しをやわらげてくれていた。葉っぱの間から差し込む木漏れ日が、足元に小さな光の斑点を描き出し、風が吹くたびにまるで生きているかのように揺れ動いた。
私たちは何も言わず、目の前の景色を眺める。夏の暑さを全身で感じつつ、先ほどの会話を思い返す。さっき家で私が言ったことを阿部のり子はどんなふうに考えているのだろうか、いや、そもそもまともに受け止めず、若者のよくある悩みだと簡単に流されただけなのだろうか。
私はばれないようにさりげなく阿部のり子の方を向く。彼女は私の視線にも気がつくことなく、ただ黙って目の前の景色を眺めているだけ。彼女の表情だけを見ても、彼女が一体何を考えているのか、全くわからなかった。私と同じ血が流れているはずなのに、まるで彼女は私とは全く別世界の人間のようだった。
「今年はね、庭に植えた初恋草が綺麗な花をつけたの」
長い静寂の後、阿部のり子がポツリと呟いた。私はその言葉に拍子抜けしつつ、そうなんですねと相槌を打った。再び静寂が流れ、思い出したように阿部のり子が言葉を続ける。
「不思議よね。昔は死にたいとか、産まれてこなければよかったと思っていた人間が、庭の花が綺麗に咲いたことでこんなに素直に喜べるんだから」
「……何が言いたんですか?」
突然話題が家の中の話に戻ったことに動揺しつつ、私は彼女に問いかける。
「私が生まれてこなければよかったと思ってるのは、若気のいたりとかそういうことを言いたんですか?」
「いいえ、違うわ。私だって、あの時の気持ちが単なる若気の至なんて言葉で片付けられたくはないし、どうしようもなく苦しんでいたのも本当。
でもね、産まれてこなければよかったといくら思ってても、結局は生まれてきてしまったことはどうしようもないって気がついたの。どんなに悩んだり、人のせいにしたって、今から生まれてこなかったことにすることなんてできない。誰かが私の人生を代わってくれるわけでもないし、生まれてきてしまった以上、自分で自分を、自分でできる範囲でなんとかするしかないって思ったの。世界なんてそもそもが不公平で不平等なんだから、周りに期待したり、責任をとってもらおうとすることの方が間違ってるってね」
「そんな簡単にポジティブに考えられるんだったら苦労しませんよ」
「あら、ポジティブだとは思わないわ。私はね、仕方ないって諦めたの。生まれてきたことと、誰かのせいにして責任をとってもらうことを」
阿部のり子が穏やかに微笑む。私はその表情を見て、ぐっと唇を噛み締めた。彼女の言葉と共に思い出すのは、あの子のことだったから。
「仕方ないって諦めて、結局自殺してしまってもいいってことですか?」
私の言葉に阿部のり子が眉をひそめる。それからじっと私の顔を見つめてくる。なんて言うつもりなのだろうか。私は彼女の言葉を待った。しかし、彼女は私の顔から少しだけ顔を逸らした後で、「そう」と一人でに納得したような表情で呟く。
「誰か身近な人で自殺してしまった人がいるのね?」
私はその問いかけに言葉に詰まった。関係ないです、と強く否定する言葉が喉元まで出かかったところで、私は必死にそれを飲み込んだ。なぜなら、その言葉を言うと同時に、私の中の感情が爆発して、きっと泣き出してしまうと思ったから。
*****
『生まれてこなければよかった』
何度聞いたかわからないその言葉。情緒が不安定になった時、由貴はいつだってそう叫んで、手に負えないほどに暴れた。私はただ彼女を黙って抱きしめて、彼女のその気持ちに寄り添うことしかできなかった。同じDNAで、同じ日に同じ理由で生まれてきた姉妹だからこそ、由貴の苦しみは私の苦しみであり、何もできない自分の無力さをただただ呪うことしかできなかった。
『わかるよ、由貴の気持ち。だって、私たちには同じ血が流れているんだから』
『千春にはわからないよ!』
『いいよね、千春はラッキーで! 左耳が反対側についるって言っても、髪を伸ばせば隠せるもんね! 私は……私は……』
嗚咽混じりに由貴が泣き叫ぶ。
『生まれた時から両足がないのに!』
何度聞いたかわからない由貴の叫び。私は泣きながら由貴を抱きしめる。彼女の気持ちを受け止めながら。
『ごめんね、由貴。本当に、ごめん。私だけこんな身体で生まれてきてしまって。由貴と同じような身体じゃなくて、ごめんなさい!』
私たちは寮室でお互いにお互いを傷つけ合いながら、抱き合い続ける。生まれてきてしまったことを呪いながら。
*****
「由貴っていうんです。同じ日に、同じ場所、同じDNAで生まれた私のたった一人の姉妹でした」
気がつけば私は、阿部のり子に向かって、語っていた。
「父も母もいない私にとって、家族と言えるのは彼女だけでした。それに、私たちクローンにとっては、生殖によって生まれてきた普通の人とは比べものにならないくらいに、兄弟姉妹というのは強い絆で結ばれているんです。生まれつき異常をもって生まれてくるのだから、なおさら」
先ほどまで真上から眩しい日差しを浴びせていた太陽はその日差しを弱め、背後の山の奥へと沈んで行こうとしていた。蒸し暑い湿気を帯びた風は少しだけ夕方の匂いを纏っていて、空の色が少しずつ色褪せていっていた。
阿部のり子は何も言わずに私を見つめ、私の言葉を待ち続けていた。私はどうして彼女に由貴のことを話しているのか、自分でもわからなかった。
「最後の最後まで、由貴は生まれてこなければよかったって言ってました。もっと彼女の気持ちを受け止めていればとか、もっと違った言葉をかけてあげていたらとか、由貴のことを思い出すたびに、胸が苦しくなるんです。どうしたら由貴を助けてあげられたんだろうって」
「人が人を救うなんて簡単なことじゃないわ。由貴さんは自分で死ぬことを選んだけれど、それに対してあなたが責任を負う必要はない。あなたはあなたの人生に責任を持っているように、由貴さんの人生は由貴さんが責任を負っている。それに何より、あなたは生きているわ。あなたに今できることは、自分の人生に対してだけ」
そんなのわかってる。だけど、そんなに簡単に割り切れるものじゃない。ここに来たことだって、阿部のり子に会って、私たちが生まれてきたことの原因として非難しようとしたことだって、きっと私がそうしたいからではなくて、由貴がそうしたいと思っていたことなのかもしれない。
私は由貴のこと思い出す。彼女が苦しむ姿、私を憎む姿、情緒不安定に取り乱す姿。だけど、それと同じくらいに思い出すのは、施設で由貴と一緒に過ごした毎日のこと。
忘れられるわけなんてないし、忘れたくもない。由貴は由貴だって簡単に割り切れるには、私たちは深く絡まり合ってしまっている。同じ日に、同じ理由で、そして何より同じ血を持って生まれてきたのだから。
「今日はせっかくだから泊まっていったらどう?」
阿部のり子が暮れなずむ街並みを見ながら、私に提案する。私は彼女と同じ方向を向きながら、ゆっくりと頷いた。
*****
『ねえ、千春にしかお願いできないことなんだけど、聞いてくれる?』
いつになく気持ちが落ち着いていた由貴は、私に真剣な表情でお願いしてきた。何? と私が聞くと、由貴は引き出しの奥から風呂敷のようなもので包まれた細長い箱を取り出し、私に手渡してきた。なんだろうと思って、それを開こうとした私を由貴が止め、今はまだ開けないで欲しいと告げてくる。
『もし、千春が私たちのDNAのオリジナルである阿部のり子と会うことがあったら、それを開けて中身を見て欲しい。だけど、決してその人の前ではなく、誰にも見られない場所と時間に、こっそり開けて欲しい』
『開けてどうすればいいの?』
『開けたらきっと千春ならわかってくれるよ。私が何を伝えようとしているのか』
そう言って由貴は穏やかに笑った。それは由貴が自殺する前日の話で、それが私と由貴の最後の会話だった。
*****
深夜。阿部のり子が眠りについた頃を見計らって、私はそっと布団を抜け出した。そして、荷物の中から、由貴から受け取った細長い箱を取り出した。
私は暗い部屋の中、ゆっくりと包みを解いていく。風呂敷に包まれていたのは木箱で、それを開けると、中には未使用状態の包丁が一つ入れられていた。障子からうっすらと差し込む月明かりを反射し、鋭い刃先が不気味に輝いている。私は由貴から託された包丁を握りしめながら、彼女が私に何を伝えようとしていたのかを理解した。私は包丁を握りしめたまま音を立てずに寝室を出て、阿部のり子が眠っている別室へと向かっていく。
忍足を立てる必要もないくらい、阿部のり子は寝息を立てながらぐっすりと眠っていた。私はゆっくりと阿部のり子の枕元に立ち、彼女の上下にゆっくりと膨らんでいる胸と私が握りしめている包丁を交互に見つめた。
私は千春の言葉を、そして、彼女に対して、何もできなかった自分の無力さを思い出す。彼女が死ぬ前にこの包丁を私に託したということが、私はどうしようもなく悲しかった。由貴が死ぬ直前まで考えていたことが想像できる。彼女が死ぬ直前までこの世界も、この国も、私のオリジナルとなった人間も、そして私自身をも憎みながら死んでいったことが。
そして、それを踏まえた上で、私は由貴に一体何ができるんだろう。何をすべきなんだろう。
私は包丁を両手で握りしめる。深く息を吸い込む。ごめんなさい。死んでいった由貴のことを思いながら、心の中でつぶやいた。私が彼女にできることは、彼女と同じように生まれてきたことを呪いながら生き続けることしかなのかもしれないから。
*****
『私ね、千春がいてくれて本当によかったって思ってるの』
一緒に施設の外を散歩しながら、由貴がなんの唐突もなくつぶやいた。私は彼女の車椅子を押しながら、どうしたの急に、と尋ねると、由貴は少しだけ照れくさそうに笑った。
『千春がいなかったら私はとっくに死んでしまっていたし、こんなふうに天気のいい日にお散歩しようという気にもならなかったかもしれない』
『言い過ぎだよ』
『ううん、本当だよ。ありがとう、こんな私と一緒にいてくれて』
由貴を後ろから見つめながら、私は小さな声でどういたしましてと答える。
『私も、由貴がいてくれて本当によかったと思ってるよ』
私はお世辞でもお返しでもなく、本心からそう伝える。理不尽に産み落とされたこの世界で、唯一の家族で、大切な人。もちろん近すぎることで傷つけあったり、苦しんだりすることだってある。冷めた人たちから客観的に見たら、私たちはお互いに寄りかかって、お互いを傷つけて、ゆっくりと消耗していくだけの不毛な関係なのかもしれない。
それでも、もし私がたった一人で産まれてきていたらどうなっていただろうと時々思う。苦しんだり傷ついたりすることだって嫌だけど、それ以上に、由貴がいない人生を私はどうしても想像できなかった。この世界にはいつだって苦しみで満ちているけれど、誰かとそれを分け合うことができるのであれば、ひょっとしたらそれは救いになるのかもしれない。
由貴があっと声を上げる。私は車椅子を押す手を止め、どうしたのと尋ねる。
『ほら見て千春』
由貴が指差す。彼女が指差した先には、施設の庭に咲いたきれいなマリーゴールドの花が咲いていた。
『きれいに咲いてるね』
そうだね。私は頷き、由貴ときれいに咲いた花を見つめる。安らかな風が吹き、私たちの頬をそっと撫でていった。
*****
私は荷物をまとめ、音を立てないようにそっと家を出ていった。
夜の静けさは徐々に色を帯び始めていて、空の隅からは淡い朝の光が漏れ出していた。私は立ち止まり、港町の景色を眺める。海の彼方から昇り始めた朝日が、空をオレンジ、ピンク、そして紫色に染め上げていく。
私はその場に立ち尽くしたまま、この光景を静かに見つめ続けた。朝日が完全に地平線から姿を現し、港町と海面にもこの美しい光が反射し、全てが輝きを増していく。この景色が、前に由貴とともに鑑賞したあの絵画とそっくりだということに気がついた時、私の目から自然と涙がこぼれ落ちた。
「私は……生まれてきてよかったと思うよ。由貴と出会えたから」
私は涙を拭うことなく、自分の脳裏に焼き付けるため、目の前の景色を眺め続ける。私が何もしないまま阿部のり子の寝室から出て行った時、背中から小さな声で「それがあなたが選んだ道なのね」という声が聞こえた。私はそれがどういう意味なのか聞き返したり、返事をすることはしなかった。そんなことをする必要はないとわかっていたから。私は振り返ることなく寝室の襖を閉め、私のオリジナルである阿部のり子と別れてきた。
自分の判断が、自分が生まれてきたこと自体が正しいかなんてわからないし、それはきっとこれからも変わらない。いつかあの時阿部のり子を殺しておけばよかったと思ったり、由貴の後を追って死んでおけばよかったと思う日が来るかもしれない。これからもきっとことあるごとに生まれてきたことを恨んだり、由貴を救えなかったことを後悔し続けるんだと思う。
それでも。この空だけは忘れずにいたいと思った。由貴と同じ血に流れている、この空の美しさを。
私は涙を拭った。濡れた袖の冷たさを感じながら、私は一度だけ家を振り返り、それから再び歩き出す。少しずつ明るくなっていく世界に、磯に香りが混じった懐かしい風がそよいだ気がした。