土下座をすれば許されると思って?
久しぶりに書いたので、誤字脱字がいつもより多くないか心配しています。
「君には申し訳ないと思っている!どうか許してほしい!」
夜会の始まりが告げられてすぐに土下座をしている婚約者を、私は冷めた目で見下ろしていた。
目の前に現れた瞬間に行う素早さと潔さ。床に触れそうで触れない絶妙な額の位置。言い訳よりも先に口にした謝罪。
もし、土下座の美しさを競う大会があるとすれば、上位を獲得しただろうと思えるほど。
何度も行うことによって体得された完璧なフォームが、いかに目の前の婚約者が屑なのかを物語ってくれている。
そして、こうやって土下座さえすれば、全て許されると思っているのでしょう。
夜会の開始早々に喜劇のワンシーンが始まったことから、周囲の貴族たちは好奇心を隠そうとせず、そのくせ関わることのないように一定の距離をとって眺めている。
「ヒューゴ様」
声を掛ければ、大げさなまでに肩が跳ねた。
普段はキラキラした王子様然な態度を女性限定で振りまいているが、こういう時だけまるで私から酷い扱いを受けているかのように、大仰な振る舞いで許しを請う。
本当にドメスティックでバイオレンスな行為が私からヒューゴ様に行われているならば、くだらない粗相で迷惑をかけられないよう、徹底的に教育するか外になど出られないように監禁しているわ。
「ヒューゴ様と婚約して三年。
この間にヒューゴ様のあらゆる問題行動によって幾度となく土下座をされましたが、もともと愛情どころか好意もなかったのですし婚約は破棄させて頂きます」
そんな、と声を上げたが顔は上がらない。この徹底ぶりを土下座ではなく他のところで有効活用できればよかったのでしょうけど。
「もともと、この婚約は現当主である祖父の我儘とゴリ押しで進められただけです。
伯爵の座に執念深くしがみついていている老害とはいえ、当主は当主。
お祖父様が勝手に結んできた婚約に仕方なく了承しただけです」
相手はお祖父様と前当主が親友だというデュバリー伯爵家。
お祖父様への信用値が底辺どころかマイナスである以上、普段から親交などなかった伯爵家なども信用できるはずもなく、両親と私が反対するのは当然の話で。
勝手に婚約を結ぼうとするお祖父様と言い争いになったけれど、既に誓約書を持って帰ってきていることから慰謝料発生は不味いということで仕方なく承諾しただけですわね。それがヒューゴ様を受け入れるということと同義にはなるはずもなく。
「まあ、ヒューゴ様のお噂はかねがね伺っていたので、両親とともに祖父と約束事をしましたけれど。
ヒューゴ様は土下座された回数を覚えていらっしゃいますか?」
「確か、8回だったと思うが」
「残念ながら10回です。二桁に到達していますわね」
ヒューゴ様が「もしかして……」と珍しく察しのいいことを言っているけど、勿論お察しの通りです。
「二桁に至ったらヒューゴ様の有責で破棄して構わない、と祖父やデュバリー家と約束しております。
ヒューゴ様のご家族にも納得頂いて、婚約の際の契約書に追記して頂いておりましたわ」
唯一の救いは、ヒューゴ様の父親であるデュバリー伯爵だけでも常識的だったことかしら。
事情を話したら解消を申し出てくれたのだけれど、横から前当主らしい方が煩くて煩くて。
その方とお祖父様が一緒に喚き散らす始末で、互いにろくでもない身内を持ったものだと親同士がアイコンタクトしていたのを覚えている。
なので、婚約を認める代わりに条件を追加し、その場にいる全員でサインをしたのよ。
当のヒューゴ様はといえば、勉強が嫌だと言ってデュバリー伯爵夫人とピクニックに行ってしまっていたわね。
本人も夫人も同席しないなんて非常識だと思っていたけど、大騒ぎになったことを考えればいなくて良かったのかも。
それに追記した内容は後で見せるなり、説明するなりしているはずですし。
ともあれヒューゴ様が見ていようが見ていなかろうが、正式な書類として国に提出されている。
土下座を始めた時から、使用人達の証言を国の法務官に提出しているから、きちんと数も記録されているので、何回土下座したのかで争いになることもない。
10回目の土下座に関する書類は、今日起きた出来事を記載する欄を除いて完成している。
今夜は帰ってからお祝いね。
三年も我慢させられた対価として婚約破棄の慰謝料他も入り、お祖父様にも当主の座は退いて隠居して頂くのだもの。
その旨も公式な書面として国に提出されているから、どんなにお祖父様が抵抗したとしても法令に基づいて強制執行が可能なのよ。
物凄い顔で睨んでいるけれど、これで当主はお父様。
その言葉に権力は一切付随しないわ。
ふふふ、ざまぁという言葉が流行しているようだけど、これも同じようなものかしらね。
「私が土下座をしたばかりに、こんなことに……」
ヒューゴ様はすっかり打ちひしがれているけれど、土下座をしたからではなくて、それだけの行為をしたことを反省されないのが彼らしいというか。
土下座への後悔はあるけれど、ご自身のしてきたことを顧みない思考が本当にすごいわよね。はき違えるのにも程があること。
三年間で二桁になるほどの問題を起こしてきたヒューゴ様に、多大な問題があるのは明白。
デュバリー伯爵からはご了承頂いているし、他の方が被害に遭われないように、ここで今までの土下座についてお披露目して差し上げましょう。
「ヒューゴ様は土下座された回数を覚えてらっしゃらない様子。
何を覚えていて、何を忘れていらっしゃるのか、ここで答え合わせをしましょう」
念のためとデュバリー伯爵に視線を向けたら、小さく頷いてくれた。
おそらく家を継がせるのをお二人いる弟のどちらにされるか決めたのでしょうね。
デュバリー伯爵に似たら、ヒューゴ様もこんな問題を起こすこともなかったでしょうに。ほんと、残念。
こんな茶番を起こしておいてヒューゴ様とご縁を欲しがる家があるとも思えないけれど、どんな形であれ伯爵家との繋がりが欲しいなんて思う愚か者がいるかもしれないので、きちんと止めを刺しておきましょう。
「一回目は私のドロワーズを盗もうとしたのを見つかったときでしたわね」
瞬時に周囲の騒めきがピタリと止んだ。
そして周囲の女性からヒューゴ様に向けられる、冬の寒さよりも厳しい冷ややかな目。
よかったわ、共感してもらえて。
当時の私は13歳。世の中の男性は皆が皆、変態なのかと関係ないお父様まで含めて男性不信に陥りかけていたもの。
事件を起こしたのは婚約して最初のお茶会で、何気なく少し席を外すとテーブルから離れたヒューゴ様が向かったのが、お花を摘む場所ではなく私の部屋だったのだ。
迷いなく人の部屋へと足を踏み入れるとタンスの引き出しを漁り、女性の下着であるドロワーズを両手に掲げていたところを、たまたま主の不在中に部屋の清掃をと入室した侍女が発見した。
最初の約束事など忘れて、早々に婚約解消に向けて書類を揃えようとした私とお父様の前で、頭を打ち付けるほどの土下座を初めて見せてくれたのよね。
このときにお祖父様が言った、「多感な年頃ゆえに魔が差しただけ」の言葉は今でも根に持っているわ。
誰であれ多感な年頃なんて通っているのよ。それを常識の中で律するのが当然であって、犯罪行為が許されるわけがないでしょうに。
「二回目は私が軽い風邪をひいたときのお見舞いでしたけど、ヒューゴ様は覚えていらっしゃるかしら。
具合が悪いからとお断りしたのに押しかけてきて、私の体を拭くと言い張って手を掛けようとなさったときです」
先程よりも体感温度が下がった気がする。
女性だけではなく、娘を持つ親たちの視線も加わったせいでしょうね。
ただでさえドロワーズ事件があって日もそう経っていないところに、両親がいないところを押しかけての狼藉ですもの。
嫌な予感がしたお父様が従兄を呼んでくれていたから、肌を晒すこともなく無事だったけれど。
「私の従兄に阻まれても襲おうとするヒューゴ様でしたが、従兄が短剣を抜いた瞬間にカエルのように跳びあがって土下座をされましたのは、今でも覚えています」
たった三年で忘れるはずもない。
男性不信どころか恐怖症になりかねない案件だったのだから。
純粋に親切心だと主張されたけれど、親切な人間は具合が悪いと言っている婚約者の部屋に押しかけないわよ。
「三回目の土下座は、デュバリー家の屋敷で働く侍女との不貞でしたわね」
「だって、あの時の君ときたら忙しくて構ってくれなかったじゃないか」
あら、土下座したまま黙っているから寝ているのかと思ったけれど、一応聞いてはいらっしゃったのね。
言い訳をされているけれど、それが言い訳になるとでも思っているのかしら。
「ええ、同じ家格の家に嫁ぐのだというのに、ヒューゴ様の母君でいらっしゃるデュバリー伯爵夫人が、そこらの侯爵家なんかより歴史も格式も上な家に嫁ぐのだからと仰って。
子爵家から運よく成り上がっただけな伯爵家の娘が生意気だと、八つ当たり混じりで花嫁修業を押し付けたからでしたわね。
そうでなかったとしても、婚姻前に肌を重ねるような破廉恥なことは致しませんが」
ご自身の子息の躾すら終わらせていらっしゃらないのによく言えたこと、と付け加えれば、周囲で笑いが起き、視界の端でデュバリー夫人の顔が真っ赤になっていた。
実に愉快だわ。ざまぁってこういうことね。
歴史と格式を常に自慢されていたけど単にダラダラ長く続いただけで、伯爵位から上へと陞爵された貴族の方々がいらっしゃるというのに、何をどうしたら誰もが自分より下なのだと見下すことができるのかしら。
「四回目はブロワ子爵令嬢、三女のマデライン様との不貞でしたわね」
長女のペリーヌ様、次女のオフェリー様ではないことを伝えるために、誰が該当者なのかははっきり言っておかないと。
あのお二人は大変勤勉な淑女で私の友人なのですもの、末の我儘なトンチキとご一緒にされては困るわ。
茶番が終わったらヒューゴ様に声を掛けようとしていたのでしょう、近くに立っていたマデライン様へと一斉に侮蔑の視線が向けられる。
あら、無言のままにブロワ子爵がマデライン様を引きずって行かれたわ。
デュバリー家への対応は、マデライン様の言い分を聞いてからってとこかしら。末っ子だからって甘やかさないよう、ペリーヌ様やオフェリー様から散々言われていたでしょうに。気づいてからでは遅いということを今頃身に染みて学んだでしょうね。時既に遅し、ですけれど。
「だって、あの時の君は我が家に来ても、私に全然会ってくれなかったじゃないか。
それにあれは学園にいる間だけと約束した、期間限定の甘酸っぱいロマンスだよ」
「ええ、ええ、そうですわね。まさか私の友人の妹に手を出すなんて、従兄から聞いて本当に驚きましたわ。
大体私が忙しいのは、跡を継ぐヒューゴ様に領地経営の手腕が全くないとわかった時点で、私で切り盛りできるようにとヒューゴ様の祖父君から、現当主であるデュバリー伯爵の許可なく仕事を押し付けられていたせいですし。
それも現当主からの許可を貰ったと嘘をついてまで、私を引きずって行くのですもの。ヒューゴ様に会う暇なんてありませんわよ」
「向き不向きは仕方ないだろう。私が向いていないなら妻になる君がサポートするのは当然のことだし。
それに引継ぎは一年で終わっていたはずだよ」
ヒューゴ様の周りで囁き声が密度を上げて、空気を染めていく。
誰も彼もが「ゴミクズ」「最低男」「無能」「役立たず」と言っているのだけど、ヒューゴ様には聞こえているかしら。聞こえていても自分のことだと思っていないかもしれませんが。
「確かに無理矢理でしたが一年で終わらせましたわね。
けれど引継ぎ後には前伯爵ご自身が領地の雑務を一切されなくなってしまったせいですので、そのフォローのために時間が無かったのは私のせいではありません。
そして何度でも申し上げますが、どのような理由であっても不貞行為が許されるわけではありません」
私の言葉を聞いて、周囲の大人たちがデュバリー前伯爵に侮蔑の視線を向ける。
当然ですわね。まだ結婚もしていない孫の婚約者に対して、仕事を丸投げしていたのがバレたのですから。
「違うんだ」と言っているけれど、何がどう違うのやら。
私に否定してこない時点で全て真実だと言っているようなものなのに。
「五回目から七回目の土下座は、悪いご学友とやらに誘われて賭博に興じた挙句、ご両親に知られたくないからお金の無心をされた時かしら」
周囲の視線が呆れへと変わっていく。ざわめきに含まれた言葉の数々は聞き取れないけれど、だれもが同じような表情で見ていたので察することができますね。
とはいえ、次の言葉を聞いたらもっと酷いのだと、皆様に理解頂けるでしょう。
「実際は賭博で積み上げた借金が半分、娼館に居続けてお金が払えなくなった分が半分。
どちらであっても不良行為であるのは間違いありませんわね。
よくもまあ恥ずかしげもなく、娼館通いの支払いを婚約者の家に借りようと思うこと」
床からカエルが潰れたような呻き声が聞こえた気がしますが、近寄るだけで変態が感染しそうですし無視しましょう。
「八回目は懲りずに娼館へと向かって、病気になられた時です。
今年に入ってすぐの話ですから、いくらヒューゴ様でも忘れていないでしょう?
大層な病気だというから仕方なく見舞ったところ、患部を見せようと服を脱ぎだしたことを覚えてないとは言わせませんわ」
悲鳴を上げて卒倒しそうになっている年頃のご令嬢達を、各々の侍女や護衛達が外へと誘導していく。
そうでしょうね。私だって当事者でなければそうしてもらっていた側よ。
お見舞いになんて行く気もなかったけれど、執拗に手紙があった時点でよからぬことを考えているのだろうとお父様と相談し、婚約破棄のゴールが見えてきたことから土下座の回数を増やそうと誘いに乗ったんだもの。
お母様のご実家である侯爵家にお願いして、第三者からの証言を得られるように女性騎士の方を連れてきてもらい、メイドに変装の上で同伴して頂いたのだけど、お陰で脱ぎ始めてすぐに実力行使で止めてもらえたことが不幸中の幸いだったわ。
「あのときに仰った、見せると興奮するんだという言葉、ただただ気持ち悪かったのですけど」
ヒューゴ様の周囲にいた貴族たちがドン引きした様子で後ろへと下がる。
さすがにないなぁ、と言ったのは誰かわかりませんが、私もそう思っています。
僅かに下がったままのズボンを直すことなく、土下座をしていた姿はここまでくると滑稽でしたわね。
「九回目は街のパン屋の看板娘、でしたっけ」
名前は忘れたわ。確か、アミィとかアンとかそんな名前だったはず。
「だって君に会おうと部屋を訪れても、君は窓も開けてくれないじゃないか。
せっかくロマンティックな演出して訪れたっていうのに」
「どうして理性と常識がない方に対して、信用が貯蓄されていると思うのかしら?
婚約者とはいえ、人目を忍んで家へと侵入してくる男性なんか、何されるかわかりませんから部屋に入れたりしません」
動物の方が知性を持ち合わせているのだと思えるぐらい、慎みも理性も取り繕う頭もない男、誰が入れるものですか。
犯罪対策を相談した先に助言を頂き、窓に鉄格子を取り付けておいて良かった。
目の前の変態は下手すれば窓を割ってでも入るでしょうから。
「君がそうやって私を受け入れてくれないから、早朝にパンを配達してくれていたアリーと知り合うことになったんだよ」
「いかにも人のせいだという言い方をしないでください。
不埒な目的で侵入した人を絶対にお入れしませんし、不貞は正当化されません」
「不貞って言うけど、アリーは可愛いペットみたいなものだよ。
君と結婚しても離れに置いて養ってくれるだけでいいって言ってくれているし。宝石やドレスも時々譲ってあげたら満足するらしいし。
君が使わない物を下げ渡せばいいだけじゃないか」
わあ、気持ち悪い。
思わず口に出しそうになったわ。危ない危ない。
代わりに周囲の夫人たちが「ただの愛人じゃない」と口に出していたけれど。誰もが嫌悪の表情を隠さず、ご年配のご婦人に至っては眉間に皺を寄せてヒューゴ様を見ているわ。
これは後日どこのパン屋なのか、他の家から問い合わせを受けそうね。
我が家も今まではパンが美味しいから購入していたけど、頭がお花畑になりそうだから購入は止めてしまった。
パン屋には取引中止の知らせを送り、仕事場で枕営業している娘がいたからだと伝えておいたけど、興味が無いから顛末は聞いていないまま。どうでもいいもの。
「そして今回のお相手は、聖女でいらっしゃるキャステリーナ様ですわね」
途端に周囲で一番大きなどよめきが起きた。
さすがに慌てた様子で顔を上げたヒューゴ様が周囲を見渡しているけれど、その顔は真っ青になっているだけでなく、額に脂汗まで浮かんでいる。
そうでしょうね、なんてったって国が認定した唯一無二の聖女様に手を出したんだから。
我が国での聖女は庇護と地位が約束されている代わりに、三年間の役目を終えるまでは清純な乙女であることを求められているのを知らないなんて言わせない。
今夜は国王陛下主催の夜会だ。
ここには陛下もいるし、該当者である聖女のキャステリーナ様もいるし、聖女の婚約者である第三王子であるグレイゴール殿下も並んでいる。
「それは内緒にするよう頼んだのに!」
「頼まれはしましたが、別に私は承諾しておりませんよ。
後、誰も何も言わないからといって、お二人が王宮内でも王宮外でも逢瀬を楽しんでいらしたのは、誰もが知っている周知の事実ですわ」
きゅ、と悲痛な鳴き声が上がったが、知ったこっちゃない。
ヒューゴ様の表情は既に土気色だ。これ以上顔色が悪くなれるのかが気になるけれど、今が一番修羅場でしょうから確認する術はないわね。残念。
そしてキャステリーナ様はといえば、隣で立っているグレイゴール殿下に言い訳を始めたようだった。
「ち、違うんです!私はヒューゴ様の他の女性達と違って、純潔は守っています!
言い寄られて困っていただけなんです!本当に迷惑していました!」
無理矢理だった。王子様に好かれるために綺麗なアクセサリーがほしかっただけ。口付けまでしかしていないから全然セーフ。お金を貰っていたから恋愛ではないので、当然のように不貞でもない。胸は直接触らせていないから。
まあ、こちらが把握していなかったことまでお話し頂けるのね。
自ら墓穴を掘るタイプで良かったわ。
キャステリーナ様は平民出身。
戒律は厳しくとも聖女様だからと大事にされて、低位の貴族と同じくらいの水準で生活を長く続けていたから、今更街に放り出されたりしたら生きていけないはず。
だからこそ立場をわきまえて生きていけばいいのにと思うのに、気が大きくなってしまわれたのかしら。
「誰だか知らないけど、私がグレイゴール様と婚約しているのを嫉妬して陥れたのでしょう!」
びしり、と音を立てそうな勢いでキャステリーナ様が私を指さしたけれど、普段から接することのない相手に対して何を言っているのでしょう。
喋るときに邪魔だろうと閉じていた扇を開く。
ことさら優雅に口元を隠して、ニッコリ嗤ってやった。
「言いがかりは止めて頂けます?
殿下の新しい婚約者は別に私ではありませんから、嫉妬して陥れる理由がありませんね」
そう、グレイゴール殿下の新しい婚約者は既に決まっており、私ではありません。
いくらお母様が侯爵家出身でも、そして子爵から陞爵して伯爵になったのだとしても、グレイゴール殿下は正妃様のお子ですので我が家では家格が釣り合わないのです。
キャステリーナ様の後釜は隣国の公爵令嬢と聞いています。
殿下より2歳上ですが妖精の名をほしいままにしている可憐な方なので、きっと僅かな年の差なんて気にならないでしょう。
婚約破棄の為の準備を進めようとしていた我が家と王家。そして無能な長男を生贄に差し出すならば、一族全員の罪は問われず、むしろ茶番のために息子を利用して国のために働いたことにできると伝えられたデュバリー伯爵。
全員の思惑が一致したので、ヒューゴ様がこの夜会で土下座すれば一考すると伝え、その時に聖女の愚行をバラす手筈だったのだ。
キャステリーナ様が何を言おうと証拠が腐るほどある以上、聖女であろうと不貞を働く不誠実な相手など婚約は解消されて当然。
王家が婚約破棄をした以上、ありがたいことに私達も右に倣って同じ対応をする必要がある。
ヒューゴ様の謝罪を受け入れたら、二人の不貞を許したことになるからだ。
それは王家に対して不敬を働いているようなもの。
祖父が顔を真っ赤にしているが、さすがに何か言うこともできない様子で愉快だわ。
家に帰ったら誓約書通りに領地に追い払わないと。
デュバリー伯爵がヒューゴ様に廃嫡を告げている。
あの変態を貴族籍から抜いて放逐したとしても、次の代でも苦労されることになるでしょう。
可哀そうな気もするが、誓約書があったとはいえ早々にヒューゴ様有責での婚約破棄へと踏み切れば、ここまでにならなかったはずでしょうし。
今回の件はこちらが被害者となるので表立ったお付き合いもできませんし、没落することがないようにと祈るばかりですわ。
デュバリー伯爵領は蜂蜜の特産地で有名ですから大丈夫でしょうけど。
と、そういえば。
「ヒューゴ様、最後に質問をよろしいでしょうか?」
もはや床で潰れたカエルのようになっている、間もなく元婚約者となる相手に声をかければ、のろのろとした動きで私へと視線だけ向けた。
「あんなに土下座してまで婚約の続行を望まれていましたけど、どういったおつもりでしたの。
婚約してから一切名を呼ばれたことがないのですが、私の名前、覚えていらっしゃらないですよね?
そんなに執着される理由なんてなかったと思うのですが」
今宵の夜会の空気は冷え込み続け、周囲は都度ざわめきやらどよめきやら、さらには当事者の茶番劇で相応の賑やかさを生み出しているが、ここにきて再び静まり返った。
数秒の後、
「む、胸が大きいのが好みなんだ」
私の手の中で、いえ、周囲の女性たちの手の中で扇が折れた。
本当に、なんて、気持ちの悪い男。
「念のためですけど、私の名前、知っていまして?」
「と、当然だとも」
視線が逸らされ、目が泳いでいる。
……これは完全に覚えていないわ。
「そうですか。今まで一度も呼ばれることなく『君』としか言われなかったものでしたから聞いてみただけですけど。
聞く必要のなかった情報だけが増えましたわ」
それではごきげんよう、とだけ言葉をかけて、茶番の舞台から降りるために背を向ける。
お父様とお母様は、この後王家やデュバリー伯爵との密談があるので残るけれど、私は参加する必要はないと言われているので帰るだけ。
誰に捕まってもくだらない話をされるでしょうし、婚約者がいないことに対して憐れみを垂れ流されるか、それとも下世話な人物から後妻にならないかと声をかけられるぐらいなら、夜会にいる必要なんてないわ。
侍女を伴って夜会会場を抜けると、夜の闇を落としたような従兄が待っていた。
黒檀の髪に同色の瞳は無機質に見えるが、表情豊かで周囲が思うほどに冷ややかで接しがたい人物ではない。
差し出された手のひらに、指先をそっとのせる。
「遠くから見学していたが、とんだ喜劇だったな」
「そうでしょうね。お陰でとても疲れたわ」
溜息とともに短く返せば、指先をのせた手に引き寄せられる。
「内容はくだらなかったが、舞台の主役が美しくて目を奪われたとだけ言っておくよ」
送ってくれるらしい彼の胸元で照明を反射しているタイピンの宝石は、私の瞳の色で淡い青紫。
「ウィスタリア、俺の唯一。
やっとお前が俺の元に返ってくる」
額に触れた唇の感触は3年振り。
泣きそうになるのを堪えて、強く瞳を閉じた。
元々私の婚約者は従兄のはずだったのだ。
口約束であったけれど互いの両親の間で話は進めていたし、私たちの関係はとても良好だった。
それを壊したのがお祖父様。
従兄がお祖父様を毛嫌いしていたのと同様に、お祖父様も自分に従順ではない孫を嫌っていた。
せめて貴族らしい政略結婚であったならば私も納得しましたけど、単なる老害の我儘に振り回される気なんてなかったわ。
土下座ばかりがお上手な愚か者との婚約期間中、従兄は私に一切触れることなく怪しまれるような行動は取らなかったし、親戚の集まりや夜会以外で会うことがなかったから噂されることもなかったけれど。
あの婚約者に婚約破棄を突きつけるために、どんな噂も一切流れないように注意していたもの。
だから私達の事情を知る一部の貴族の間で、悲劇の令嬢だと噂されていたのも知らなかったでしょうね。
でも、これで全部終わり。
今宵で私の役割も終了して、これからは彼と一緒に過ごしていくことができるのだから。
私の名前を呼んでいいのは家族と私が愛し、私を愛してくれる人達だけ。
先の相談をしようと、私たちは馬車に乗り込んだ。