1話 バロック電子撤退
三月三日(火)草薙慶一朗邸・玄関先に木蓮の薄紫色の蕾みが微風に揺れていた。
仄かに柑橘系の香りを漂わせている。
「慶一兄さん、東多摩銀行の日比課長が昨日突然来たよ!」
弟・信次朗の声がいつに無く熱を帯びている。
兄・慶一朗は片耳に聴き、カメラの手入れに余念が無い。
弟・信次朗の話を右から左に流そうと他愛も無い言葉を並べた。
「へえ……日比課長がね……で、何しに来たの……?」
兄・慶一朗は柔和な顔に顎髭を生やし、体躯は細身だ。
身長は百八十近い。何事にも拘らないのんびり屋だ。
弟・信次朗は丸顔で人の良さそう顔付きだ。
身長は百七十前後か。がっしりとした体つきだ。兄とは七つ違いだ。
兄・慶一朗は吉祥寺東町に親父から相続した土地が三千坪強ある。
その土地は、バロック電子に貸してある。建物は慶一朗名義になっている。
バロック電子が撤退する時は、更地にして返して貰う契約だ。
「何でもバロック電子の業績が急激に悪化しているとかで、どうも
大量のリストラをするらしい」
弟が気を揉んでいる。
「バロック電子は太平洋無線の仕事やっているんじゃないの……?」
カメラから目を離さずに聞き返した。
「その太平洋無線は人件費の安い中国だとか東南アジアに部品の発注を
大幅にシフトしているらしい」
「太平洋無線とバロック電子は確か資本提携しているって聴いているけど……」
「それも解消の方向らしいよ」弟が早口で捲し立てた。
「背に腹はかえられない……そんな所か……?」
レンズにブロアーを掛けながら呟いた。
慶一朗は、本来何事にも無頓着で細かい事は余り気にしない。
兄に較べ、弟はかなり心配性で慎重派だ。
今回のバロック電子の件も弟の信次朗にしてみれば三千坪強の土地を
借りている会社が業績不振でおかしくなり掛かっている事を
兄・慶一朗に解って欲しかったのだろう。
話の意味を理解しているのか心配になったのか、
もう一度同じ事を兄・慶一朗に話した。
「解っているよ! 信次朗の云わんとしている事は、だけど今すぐ何か手を
打たなければならない場合じゃないだろう……」
超望遠レンズをキョンセームで磨きながら応えた。
磨き終わって顔を上げると、弟はいなかった。
「日比課長か……。 弟に色々吹き込んで予防線を張っているつもりか?」
慶一朗は、ひとりごちた。
次の日(三月四日)東多摩銀行の日比課長が慶一朗の所にアボなしで訪ねてきた。
日比課長はバロック電子の担当だ。 いつ見ても風采の上がらない、
しけた顔付きで運とかツキとは縁の無さそうな男だ。
慶一朗は四十二歳、プロカメラマンである。写真の仕事はもう二十年近くになる。
今日は明日出発する海外取材に使う器材の準備をしているところであった。
東多摩銀行の太い黒縁メガネをかけた日比課長は慶一朗の後ろ脇で
ゆるい姿勢のままボサーッと立っていた。
「慶一朗さんバロック電子は、昨日の役員会で今期末を以て現在の東町から
埼玉の坂戸へ本社機能の全部を移転すること。更に人員の大幅削減を
決定されました」
慶一朗は、思わず振り返った。
日比を見ると頭を深々と下げていた。
「当社としても精一杯の応援をさせて頂いて参りましたが残念でなりません」
声に抑揚がまるで無く原稿を機械的に読み上げている様に聞こえた。
この男は信用できない。
慶一朗は懐疑的な目線で日比を凝視した。
「そうですか。で、東町はどうなりますか?」日比を見ずに平坦に応えた。
慶一朗の視線はかなり使い込んでくたびれ埃だらけに汚れた
日比の短靴を見ていた。
課長職とはいえ一日中外回りで大変な様子が読める。
しかも移動は自転車のようだ。
「東町の今後のことは、行内で前向きに検討させて頂きたいと思います」
返答が役人の常套句のように聞こえ違和感を覚えた。
これ以上の会話は不要と思い。
「まあ、宜しくお願いします」
カメラのレンズを拭きながら答えた。 頭の中は明日から
二十日間の予定で回るアフリカ大陸取材の事で一杯になっていた。
ふっと振り替えると日比がこちらを向いて、肩越しにカメラを覗き込んでいた。
「まだ、なにか?」慶一朗は訝しげに日比を見上げると
「いえ、それでは失礼します」日比は踵を返し力無く歩き出した。
三歩、四歩と足を運んだところで、ふっと、肩から力を抜くのが見えた。
緊張から解放されたかのように……。