14話 稟議
四月二十日メルクス本社・店舗掌握部
榊は二之宮部長の帰社を待っていた。
部長が部の扉を開け帰社した。
相変わらず鼻をハンカチで押さえんがら、ゆっくりと自席に向かい、椅子に
腰を下ろした。
榊はそれを見て小走りに部長の脇に行き薬師寺の件でちょっと…… と言い、
パーテイションで仕切られたミーテングルームに誘った。
昨夜の薬師寺の要求を報告した。
「おお! そうか……。やっと要求が出てきたか!」
目尻が緩み喜色が滲んだ。
榊が薬師寺の要求を説明した。
二之宮は、その要求を聞き終えると、一つ一つの要求を確認しながら慎重に
言葉を選らび、喋り出した。
「今月一杯で店を閉めたい…… 願ったり適ったりだ。 それに契約時の五百か
…… 裏の金が有るだろう…… あれ使おう! 後は本部に貸している
貸し金か…… これは持ち出しは無いな。月別収支報告(PL)で調整可能だ……
後は、搾取金の返金か、それも裏金で処理できる」
二之宮は一つ一つの要求に勝手に回答を与えている。
「はい…… でも裏帳簿の買い取が、三千というのは?」
榊は一番懸念していた要求を口にした。
「香坂役員に訊いてみるよ。どうも、彼が社長から色々と任されている様だから」
「でも、今日中に決裁を貰うのは無理かと……?」
「何に言っているの! 社長も香坂役員もこの件は重大問題になると戦々恐々
としている。だから早く解決したい。そう思っているさ!」
「そうですか?」榊は疑心暗鬼だった。
「そうだよ! 香坂役員 来ているかな? 秘書に連絡して見るよ」
二之宮は椅子から、すっと立ち上がりミーテングテーブルの壁際の電話に
向かい歩き出し振り向きざま、榊に指示を出した。
「榊君、その解約承諾書と稟議書を早速に起案しておいて――――」
「いいんですか?」榊は拍子抜けした。
「いいから、早く!」
部長は、社内電話を取ると
「香坂役員は見えている?」
電話の向こうの秘書の返事を待った。
「一時間程立ち寄りか? 見えたら連絡ください」
秘書に返答すると榊を振り返り
「榊君、と言うことで…… 役員が一時間程後に見えるそうだ。起案は
一時間有れば十分だな!」
押し付けがましい物言いだ。
「はい、起案しておきます」
榊は席に戻った。
二之宮は、香坂の秘書から連絡を受け役員室に向かった。
香坂は渋面を作り、コーヒーを飲みながら二之宮の報告を受けた。
「で…… その要求というのは、三千で良いのか?」
訊き終え二之宮を直視し念を押した。
「はい、三千と云っていますが……」
「それだけか? ほかに要求は無いのか?」
「榊君からの報告だと、それ以外の要求はありません」
香坂は、独自の人脈で薬師寺の交友関係と周辺を洗っていた。
薬師寺オーナーの周辺は、取り立てて不審な点は無く、交友関係もこれと
言っていかがわしい連中は浮かんでこなかった。
逆に毎日判で押したように店に貼りつき、売上げ向上に努力している姿が
みえてくる。
店の成績も地区店舗の平均日販を上回っている。
昼時などは、店の外まで客が並ぶ事が時折見られると報告されている。
香坂には、薬師寺オーナーは、フランチャイジーの模範のオーナーの
ように映る。
報告書を読む限り彼に好意が湧くが憎悪・敵意は微塵も感じない。
ゆえに、香坂には金額が中途半端でとても理解できなかった。
何か裏が有る様な気がして仕方がなかったが……。
「二之宮部長、本当に提示の金額であるならば即答で構わない」
「わかりました」
「ただし相手から念書を入れさせる事が条件だ!」
二之宮に駄目を押した。
「はい 希望の金額であれば問題ないと」
語尾が窄まった様に聞こえた。
二之宮の返答は胡散臭い。
そもそも香坂は二之宮を信頼していない。
「わかった。 社長には言っておくから、稟議書と解約承諾書持ってきてくれ。
相手は今日中にと言っているんだな?」
せがみ立てるように言葉を浴びせた。
「はい、ありがとうございます」
二之宮は深々と頭を下げた。
榊は稟議書を社内持ち回り、午前中には代表印の申請をした。
香坂は、午後一番で二之宮部長から稟議書を受け取り、社長室に向かった。
香坂は、稟議書の説明の前に社長に至急報告しなければならないことがあった。
昨夜遅くに、奈良銀次から社長の娘の交通事故の件で耳を疑うような事実を
聞いていた。
社長は食後のコーヒーを飲んでいた。
デスクには新聞が広げられていた。
「社長、今、宜しいでしょうか?」
「ああ、香坂君か、構わないよ」
デスクに広げた新聞を畳ながら柔和な眼を香坂に向けた。
「香坂君! 急にどうした? ナンカ怖い顔をしているな!」
「ええ…… それが、事故当日、娘さんと一緒に居酒屋で飲んでいた男が
解りました」
「おお、解ったか? で……? だれだ?」
社長が、急き込んだ。
「それが、私も耳を疑ったんですが、我が社の榊のようです」
「な! なにいっ――! な、なんで榊なんだ!」
「調査した奈良銀次の話しですと、娘さんが救急車で運び込まれた病院を訪ね。
娘さんの付き添いで救急車に一緒に乗った男について聴いたところ、その男が
榊とわかったという事のようです」
香坂の口調が、何時になく早口になっていた。
「奈良は次の日、榊の写真を持って居酒屋を何軒か廻ったところ、三軒目の
店で写真の男・榊が娘さんと一緒に飲んでいたと、板前が証言しました」
「そうか? 病院の人は、その男と一緒だったと覚えていたのか?」
「ええ、その男が差し出した名刺が娘さんの医療記録のファイルにあったそうです」
「じゃあ、間違いないな――」
社長が香坂の眼を直視し、一瞬の静寂が訪れた。
(香坂! それは間違いではないな?)
社長の眼は、そのように香坂の眼に聞いているように見えた。
眉間に皺を立てた社長が呟いた。
「私もびっくりしました。当時、榊は未だ独身で荻窪に棲んでいました。
人事記録を確認しました」
「もう、間違いない。それにしても何故、榊は梅美と一緒に酒を飲んでいた?」
社長の眼に憎悪が凍りついた。
暫し黙考した社長はいった。
「榊にその辺の事情を聴いてくれ、テープを廻して後で私に聴かせてくれ」
「社長ご自身で事情を聴かれる意は無いですか?」
「私が聴いても、有りの儘を喋るはずは無いだろう。香坂君は榊の仲人だし、
それとなく聞いて貰えれば、本当のところが解ると思うが……」
「解りました。近いうちに事情を聴きます」
「そうだね。そうしてくれ」云うと、静かに腕を組んだ。
社長は、眼を閉じると、顔は静かに宙を仰いだ。
香坂は社長の横顔を凝視していた。
みるみる顔面を赤らめ眉間に深い皺を立てた。
額には何本かの静脈が浮き出て来た。唇が微かに震えている。
社長は、何かを必死に我慢しているように香坂には見えた。
二之宮は、夕方社長秘書室から急ぎ社長室に来る様にと、連絡を
受けた。
代表印決裁の件で二之宮部長は社長室に向かった。
二之宮が社長室に行くと秘書・生駒恭子がすぐに社長室に通した。
一礼して社長室に入った。
秘書が応接のソファーに案内した。
社長は書類から眼を上げた。
二之宮と目が合った。
二之宮はその目線を逸らす事が出来ず見据えられた。
「財務の香坂役員からは、いろいろ訊いているよ」
「はい……」応えて、唾を呑み込んだ。
「ところで先ほどの稟議案件は決裁したよ」
社長はデスクを立ち応接のソファーに座った。
「ありがとうございます」
二之宮は、軽く頭を下げた。
そのままの姿勢で
「部下の不手際もあり、会社には不利な条件になってしまい申し訳ありません」
「まあまあ、部長この業界長くやっていればいろいろあるよ」
「申し訳ありません」
叱責されるのかと思ったが、意外にも許しているような……?
「香坂役員にも話したが、火種は残らず消すように―――― お願いしますよ」
「解かりました」云ったが、社長の言葉は意味不明で理解できなかった。
二之宮は、社長の足下を見ながら大きく頭を下げた。
冷たい脂汗が脇の下を伝って降りてゆくのがわかった。
社長室を出て香坂の部屋に向かった。
すると秘書が香坂役員は社長室から戻ると
「ちょっと出てくる」と秘書に言い残して役員室を出て行ったと。
秘書は後を追い「お車は……?」と聞いたが、
「電車で行くから良いよ」応えて廊下を曲がりVIP用EVホールに向かった。と
二之宮は、社長から言われた、『火種は残らず消すように――――』が、
頭にこびりついて離れなかった。
自分のデスクに戻っても、何故か膝が細かく震えていた。
両手で膝を擦りながら、気持ちを落ち着けようとした。




