2話 練りワサビ
榊は行きつけの店を替えた。
店を替えて二日目に、梅美が再び現れた。
榊の隣の席に堂々と座った。
「場所を変えても無駄よ! 直ぐに判っちゃう!」いうと、カウンター越しに
「板さん! 熱燗ちょうだい! あと、お刺身の盛り合わせと、てっぺんサラダ!」
「板さん! てっぺんサラダって! 面白い名前のサラダだね?」いうと
「はてな?と、思われるネーミングがキャッチコピーみたいで売れる」
板さんの答えに淀みはない。
「食べてみりゃ……、うまいって解るよ!」
板さんがニイ~と嗤い返した。おかしな雰囲気だ!
板さんの目線は梅美の谷間を覗いている。
梅美は、それと解っても、平気な様子で板さんに頬笑みを返した。
梅美は頬笑んだまま榊に首を回し素の顔に戻すと、榊の眼をのぞき込んだ。
目線がかち合った。俺はさり気なく目線を外した。
「俺は一人がスキなのよ。 ほっといてくれ!」
「あたし、あんたみたいな男。チョー。タイプなんだ!」
梅美は、唇に薄笑いを浮かべて、榊をジロッと、一瞥した。
「運動神経なんか良さげだし~。特にゴルフなんか得意そうだし……!」
褒められて、怒る奴は希だ!
やっぱり嬉しい!
そこに、梅美の熱燗とお通しがきた。
特にゴルフという言葉で褒められた。
先日コンペで優勝しているので尚更だ!
自尊心を擽られて、嫌な気はしなかった。
「それに~、一緒に飲んでいるだけで、倖せ!」
梅美は歌う様に台詞を弾ませた。
まだ、酒を飲んで無いのに……、天然でテンションが高いのか?
周りの人間の事など眼中にない。歌うような声を控える訳でもない。
カウンターの中の板さんが、梅実の歌うような台詞を聞いていた。
梅実の谷間をちらっと横目で見ながらゲス笑いを浮かべた。
梅美は備前焼のぐい呑みを指で摘まんだ。
徳利を持つと無言で榊の前に突きだした。
榊はやむなく、その徳利を掴み、ぐい呑みに熱燗を注いだ。
梅美は、それを一気に口に放り込んだ。
「おいしい!」一息つくと、続けた。
「もっと云えば~、この辺りの、あんたと同じ空気を吸っているだけで、しあわせ!」
この女、人を乗せるのが得意だ!
キャバ嬢のような喋り回しに若干の疑いを持った。
梅美は、手酌で熱燗をぐい呑みに注ぐと又、口に放り込んだ。
喉が渇いているのか? そんな風に見える。
榊はその仕草を見ながら横顔越しに、長い付け睫毛の奧の瞳を見た。
梅美は唇に微笑みを漂わせた幸せそうな顔を俺に向けた。
しっかり見られているのが解ったのだ。
「この付け睫毛ね!『3D多層ふさふさボリュームつけまつげ』って! 名だよ!」
「結構するんだよ! これ!」何度も瞬きをして見せた。
「へ~。付け睫毛に名前があるんだ! それにしても、それ重くないか?」
「多少重くないと、付けている感じが、出ないジャン!」
梅美は携帯の自撮りモードで睫毛をつぶさに観察した。
ケータイをカウンターの戻すと、その指で徳利の首根っこをつまみ
ぐい呑みに手酌で熱燗をなみなみと注ぐと、一気に口に放り込んだ。
まるでアル中寸前のオヤジだ!
「ぐい呑みに唇を付けると、ルージュが剥がれてイヤなのよ!」
「そんな事、聴いてないって!」
勝手に話しを進める手合いは嫌いだ。
「聴きたそうだったから、先回りした。嬉しいでしょ!」
「嬉しいか嬉しくないかと聴かれれば、多少嬉しい方に針は揺れたような気がする!」
話を合わせた。
俺は正直すぎると……いつも思う。
「――でしょう!! あんたの思っていること大体判る」
この女! 勘が鋭すぎる。生理前か? 勝手に決めつけた。
ペースが早い。又、ぐい呑みに熱燗をなみなみと注ぐと
「かんぱ—い、しよっ! グラス持って」と、促された。
仕方なく焼酎のロックのグラスを持ち上げた。
梅美は備前焼のぐい呑みを勢い良く榊のグラスにぶつけて
「かんぱ—い!」喜色満面だ。
備前焼の熱燗が半分ほど焼酎のロックの中に飛び込んだ。
梅美は大口で笑い転げた。
「たくっ~!」最悪だ!
ロックの焼酎に熱燗が混じった。頭に血が上った。
ロックの焼酎を一口啜った。やっぱりおかしな味がする。
「板さん! 焼酎をロックでお替わり!」グラスを翳した。
「同じお酒の仲間なんだから、別にお替わりしなくても良いのに!」
「勝手な理屈を何処から捻り出すんだ!」
「別に捻り出してないけど……?」
梅美は真っ赤な唇を尖らせた。
「梅美とは、もう、二度と乾杯はしない!」
「今!!なんて……?」
いきなりマジ顔を寄せて来た。
ふさふさボリュームつけまつげをバシバシとウルサイ。
「別に……?」いって
焼酎を一口啜り、残しておいた最後の一本。焼き鳥のネギマを頬張った。
「今……! 云ったよね。――ウメミって。あたしの名前を呼んでくれたよね!」
「そんな事――? 云ったかな?」バックレル、つもりだった。
頬張った、ネギマを串からゆっくりと抜いた。
「あたし、確かに聴いた。ウメミって!」
頬に梅美の生ぬるい日本酒臭の息が掛かる。
こそばゆい。
「空耳だ! ……空耳!!」
惚けを強調してロックの焼酎を一口啜った。
やっぱり純粋の焼酎は旨い!
「嬉しい! 名前覚えてくれた」
梅美は顔をヌーッと俺の目の前に持ってきた。
「名前ぐらい! 覚えるさ!」いって、
異常に近くに来たウメミの顔から自分の顔を遠ざけた。
強烈な香水の匂いが頭をクラッとさせた。
間近で見た3Dの付け睫毛は長くてフサフサしていた。
今まで見た事ない長さだ。
「失敗したなって、顔だね? その顔、いけてるジャン!」うれしそうに云うと
レインボーネイルの指でぐい呑みを持った。
熱燗を大きく開けた口に放り込んだ。
拙かった。俺は独りごちた。
思わず口から漏れた。
完全におちょくられてる!
こんな些細なことから俺の牙城が崩される。そう思った。
「大人をおちょくって、面白いか?」多少強気の発言。
「あたしも大人だよ! 同類項ダッショ!」いうと、
箸を指に挟み、刺身にワサビを乗せて摘まみ、口に入れた。
「美味しい!! あんたも食べなよ! 刺身美味いよ! 」
梅美は箸で俺が食べていいタコの刺身を指した。
「中トロは、あたしが食べるから他の……タコとかだったら良いよ!」
中トロを箸の先で皿の脇に寄せた。
「お前! マジせこいね! 自分のだけ脇に寄せやがる!!」
「タコアレルギーでね! 中トロしか喰わねえんだ。俺!」
「あれ! 前の店でタコブツ美味そうに喰ってたぞ!」
「人違いだろう~。俺! 喰わないからタコは……」
「あんたの隣に座って、タコブツ美味そうに喰うの見ていた。あたし」
横目で睨まれた。
「あたしに、嘘は通らない!」
梅美は云うと、皿の脇に寄せた最後の中トロを素早く口に入れた。
「あ~あ! 喰っちまった!」
「食べたかった?」又、横目で睨まれた。
刺身の皿を榊の前に滑らせた。
「タコが残った。食べなよ! 好きだろう!」
「あたし、タコ刺しは駄目なんだ」タコ刺しを箸で摘まんだ。
「ガムみたいで噛んでも、噛んでも、これでいいって云ってくれないから、イヤなんだ!」
「へ~。誰が良いよって云うんだい」
「普通、タコさんが言ってくれるでしょ!」
「そんな事。云うわけは、ないだろう。タコ如きが……」
この女やっぱ。どっか吹っ飛んでいる。
「それに、タコの吸盤があたしのベロをチューって、吸い付きそうで、マジやばいじゃん!」
榊は完全に梅美の喋りから置いてきぼりだ。
こんな喋りには、付いていけないと思った。
「タコだって人を選ぶだろう。吸いやすい奴とそうじゃない奴を!」
「そっか! あたしは吸いやすい方だろうな……。どっちかと云えば? いやっだ!」
「勝手にやってろ!」いって、
タコ刺しにワサビをたっぷり載せて口に入れた。
きた~! つ~んと!
鼻腔に強烈に来た。
涙が出た。
練りワサビだ。
居酒屋なのに練りワサビかよ!
後悔した。
「う~っ!」鼻を摘まんで背を丸め堪えた。
「う~って何よ! タコアレルギー!」
梅美は慌てた様子だ。俺の背中を擦ってくれた。
「やばいじゃん! マジ! アレルギーが出たの!! 救急車呼ぶ!」
榊はワサビの辛みを堪え、おもむろに背を伸ばした。
水を口いっぱいに含んでブクブクした。そのまま呑み込んだ。一息ついた。
頬まで垂れた泪を手の甲で拭って、ズボンに擦り付けた。
「なーんだ! 泣いちゃったの? 救急車見たかったな~!」
何事もなかったかのようだ。素っ気なく云って
ダイコンのサラダを頬張った。
一緒に熱燗を口に流し込んだ。
「やっぱりタコは駄目だな!」負け惜しみだ! 辛さは消えた。
「救急車どうした?」聴くと
「あたし心配になって! マジ、119番押したんだ」
云いながら、119と表示されたケータイ画面を俺の目の前に翳した。
「そしたら、あんたムクッって、間一髪だったよ!」
「悪かったな、騒がせて」ボソッと言った。
「ケバイ外見に似合わず、案外優しいんだな!」
「助けてやったのに、ケバイは無いでしょ!」
梅美はホッペタを丸めた。
「そっか?それもそうだな」俺は折れた。
そう云った後、助けて貰ったかな?? 思い返したが、思い当たらない。
不思議だ!! ドサクサに紛れて言い包められた。
「普通、口の中でブクブクしたら、吐き出さない? 初めて見た。ゴックンする人」
いちいち、細かいことを大袈裟に言う女も嫌いだ。
云いそうになって押さえた。
さっぱりした口に焼酎をゆっくり流し込んだ。
氷が溶けてきた。味が薄くなっている。少し焦る。