13話 平身低頭
「実は例の帳簿ですが、榊君から棚卸の数字と突き合せたいと申し出が有りま
して、貸し出しました」
二之宮は、お猪口の酒をグイと飲み干すと手酌で酒を注ぎ足しながら
「それで、如何しました……?」鷹揚に訊いた。
「それが……榊君は紛失したと思っていたらしいんですが」
「紛失? な…… な 失くしたと……!」二之宮の語気が荒くなった。
お猪口が持っていた二之宮の手からポロッと畳の上に落ちた。
「あ―――― あ、 はい!」
小早川は膳の上の、お絞りを掴むと、お猪口を拾い上げ、手にしたお絞りで畳を
手早く拭いた。
「あ――――っ! ちょっと待ってくれ、あー、あれは! あれは! 駄目だよ!
駄目!」
二之宮は泡を食ったのか、意味の為さない言葉を並べた。
「はい!」小早川は畳の上に座りなおし額を畳に擦り付けた。
「―――― そんで、見つけたんでしょ……?」
覆い被せるように二之宮は云った。
「はっ! はい! それが、現在吉祥寺東町店のオーナー薬師寺のところに」
額を擦り付けた畳の目が眼前に並んでいた。
「な! 何で、あれが、そのオーナーのところに有るの?」
二之宮は、小早川が畳に額を付けたままの格好で伏せているので、流石に
まずいと思ったのだろう。
「ちょっと小早川君そんなにしなくてもいいから、体起こして、ちゃんと事情
聞かせてよ」
「はい、それが棚卸のときに鞄から抜き取られた様で」
「抜き取られたって……? じゃあ、全部見られたと……??」
「私の管理不行き届きで誠に申し訳ありません」
小早川は再び平身低頭で詫びる姿勢を崩さなかった。
「小早川君その姿勢では、話にならない。これからの事を話そう。誰にでも
ミスはある。そのあとが問題だ。だから如何したらいいか? 一番いい方法
について知恵を出し合おう」
「はい……」顔を上げると小早川は涙目になっていた。
「大体のところは解かったが、何とか返してもらう方法を考えよう」
「はい、その件は榊君が訊いておりまして」
「それでどんなこと云っているの?」
「何でも店の前に大型スーパーが出店すると噂が有るらしく、その話を阻止して
欲しいと」
「それだけ?」拍子抜けしたような答えだ。
「はい、今のところは」
「そう……? それだけなの……?」二之宮は訝しげに小早川を凝視した。
二之宮はフランチャイジーとすれば、ごく当たり前といえば当たり前だな……、
そう納得したのだろう。したがって、次に見せた表情は、そんな事か……?
と拍子抜けした表情が剥き出しになったとしても、至極当然だった。
「で、その件は動いているの?」
二之宮の険しい表情が消えていた。
「榊君が地主の線から東多摩銀行の担当者に直接話しを聞きまして」
「それで……」
「地主は海外に出張中という事で一週間後帰国の予定です。スーパーの話は
その後になるそうです」
「そう、じゃあ、その後でないと、あの帳簿の返却の話にならないのかな?」
「――――と、 思います」
「という事は、そのスーパーという話は、まるで未定という事だね」
「とにかく地主が海外から戻らないと、何も始まらない状態です」
「だよね…… さて…… どうしたらいいかな……? そのオーナー……?
なんと言ったかな その名前?」
「薬師寺―――― ですか?」
「その薬師寺は、その後どうしようと」
「特別訊いていませんが?」
「そのスーパー出店を阻止して欲しいと、それだけなの……?」
「はい、それ以上の要求は、今の所無いようです」
「うん…… そうか?」
二之宮は、頷いてはいるが納得した訳では無いといった様子だ。
二之宮は、暫し黙考した。
途中で膳の上のおしぼりを手にすると花粉症の鼻汁を拭った。
熱燗を手酌し一口で飲み干すと、口を開いた。
「今の状態は、会社の運命を左右する重大な帳簿を握られて、手も足も出ない
状態に陥っているとしか言いようが無い。実際強行に返却を迫れば、手に負え
ない要求を突きつけられかねない。ここは地主が帰国するまで様子を見るしか
ないか……?」
小早川は二之宮の何処か醒めた眼を上目遣いで見ていた。
「小早川君、地主が帰国した後どう動くのか? それ次第というところかな?
地主は、その東多摩銀行に相談に行ったら、その線から情報が入るように
なっているんだよね?」
「はい、榊君が担当者に直接話しを訊いておりますので、その点は大丈夫か
と思います」
「その辺の情報は、逐一私に報告してよ」
「わかりました。ご心配を掛けて申し訳ありません」
「いま直ぐにどうにか出来る問題でも無さそうだな。長期戦に成りそうな気が
するな、Qカードの伝票操作の件は、これが決着するまでちょっと無理だな」
「はい、榊君にはその様に指示いたします」
「そうしてくれ!」 小早川は次の言葉に詰まった。
「小早川君、報告ありがとう。もういいよ」
「あ――――。はい」小早川は帰っても良いと解釈した。
「それでは、失礼します」
「ご苦労さん、 私は、もう少しここでやってくから」
小早川は遅くなった報告に対し厳しい叱責があると思ったが、現在の状況を
説明すると部長は納得したようにも見えた。
報告はしたが自身の自責の念を払拭出来た訳では無い。
小早川は、胸の奥底に黒い澱のような何かが静かに沈んだ様な不快な気分に
なった。
小早川は、料理も酒も一切手をつけずに料亭を後にした。