誰も知らぬ誰かの幸せな話
少女は幸せだった。
「ただいまっ!」
家の扉を勢いよく開ける幼い少女。目の前にあるそこまで広くはない家の居間の椅子に、女性が座っていた。
「おかえり」
元気よく帰りを告げた少女とは対照的に、女性は落ち着いて静かに彼女を出迎える。
「もーっ!もっと元気よく、だよっ?お姉ちゃんはいっつもクールぶっちゃってさ~?もっと素直になろうよ~?」
少女の姉と思しき女性は、少女の言葉にも、「そうね」と軽くうなずいた程度で、その物静かな様子を崩す気配はまったくない。
「母さんにも挨拶してきなさい?」
それだけ言うと、姉は椅子の正面に向き、手元でごそごそと何かを作り始めた。そこからは何かをすりつぶすような音が聞こえる。少女はそれには目もくれず、
「分かった!」
と元気に頷くと、居間の奥、襖で閉じられた和室へと歩いていった。
その背中を、姉はやはり静かに見送ると、フッと優しく笑みを浮かべた。
「やっほーっ!たっだいまーっ!」
少女はやはり意味のないくらいに明るく、大きく声を上げながら、勢いよく襖を開けた。少し立て付けの悪い襖は、若干がたつきながらも、問題なく開き、ぴしゃっと音をたてる。
そこの奥にいたのは、
「おかあさーんっ!ただいま戻ったでございまする!」
布団が敷かれており、その上には姉とはまた別の女性、少女の母が寝転がっていた。母は少女の大きな声に気が付くと、もそもそと上半身を起こし、少女へ笑いかけた。
「おかえり。まだそんなにボケちゃいないんだから、そこまで大きな声出さなくても聞こえるよ?」
フフッと笑いながら冗談交じりで話す母の姿は、多少やつれているものの、皮膚はまだ張りがあり、彼女の強い生命力を感じさせる。
「わかってるよ、もうっ!お母さん、見た目もまだ若いし、お母さんの歳を感じさせるものといえば、白髪くらいだよねっ!」
幾分デリカシーに欠ける幼い少女の声に、
「何を言うの!まだまだお母さんは若いんだから!白髪なんてありません!」
母は怒ったように言うものの、その顔は優しく微笑んでいる。
「えー?あるよー?ほら、ここにも、ここにもー……」
少女は幼い子特有の観察眼で目聡く母の白髪を見つけようとするものの、母はそれをされるのは流石にかなわんと、やめなさいとばかりに少女の手を軽く振り払う。
「むーっ!」
少女は唸り声をあげながら母の隙を伺うも、布団に入りながらも隙のない母の、その余裕そうな顔に、母の白髪を指摘するのは諦め、特に何をするでもなく母に寄り添う。
「お母さん、気分はどう?」
代わりに、母の体調を気遣った。
少女の母は、一見元気そうに見え、確かにある程度元気ではあるのだが、病に侵されていることも確かだ。誰もが飢えや病に苦しむ中、少女の母だけが特別というわけにもいかず、多少の薬はあるものの、栄養失調も相まってなかなか治らないまま今に至る。幸い、症状は重いわけでもなく、見た感じ疾患自体も大したものではない様なので、今のところは大事無いのだが。
「うーん、そうね……」
母は少し考えこむそぶりを見せたものの、
「元気よ」
安心させるように、にっこりと笑いながらそう答えた。
「そっか!じゃあ、治りそう?」
「そうね、この調子だったら治っちゃうかも」
「じゃあ、治ったら一緒に散歩しようねっ!」
「今からどこに行くか決めておいてね?」
「うん!楽しみー」
そんな言葉を交わして、母娘は幸福な時間を過ごす。
しばらく話した後、姉の呼び声が聞こえてきた。
「あ、じゃああたし、お姉ちゃんの手伝い!行ってくるねっ!」
「頑張ってね」
そうして、少女は「お大事にー」等と言って、母のもとを去った。
少女が姉のところに行くと、姉は台所で鍋を混ぜていた。
「あれ?もうご飯?」
「あなた結構遅い時間まで外に行っていたからね」
「ほへー」
会話を交わしながら、少女は台所の棚から皿を取り出す。
「今日のご飯は!?」
「にくじゃ……」
「あ、待って言わないで!あたしが当ててみせるから!」
そんな少女の前に無慈悲に置かれる肉じゃがの小皿。その皿の半分よりも少し少ないくらいの分量が入れられている。
「ああぁーーーーーっ!当てる前に答えを見てしまった……」
まるでこの世のすべてに絶望したかのように打ちひしがれる少女。
「馬鹿やってないで母さんを呼んできて」
冷静に指示する姉。少女はすぐに立ち直り、
「あ、お母さーん!」
ご飯だってよー、肉なんて今日は豪勢だねー、なんて声が和室から聞こえてくる。
かくして、食卓には少女、姉、母の三人が座り、手を合わせた。
「いっただっきます!」「いただきます」「いただきまーす」
三者三様の「いただきます」が食卓に響く。
少女は元気よく、姉は静かに、母はおっとりと。
父はいないものの、性格の違う三人は、それでもお互いに支え合いながら、しっかりと今日を生き延びていた。
貧しくて、たまに飢えるし、苦しいこともつらいこともあったが、それでも少女はこの時間が永遠に続いてくれればいいのに、なんて思っていた。