誰も知らぬ誰かの幸せな話
少女は幸せだった。
「ただ、いま……」
いつも通りに声を出してみるものの、少女には呆然とすることしかできなかった。
気が付くと家の前にいて、街は少女が森に行く前よりも蹂躙されていて、死体は見当たらないものの、至るところに血が撒き散らされていて、よく状況が呑み込めないままに少女は姉と母がいるであろう地下に足を踏み入れた。
そしてその先には、いつになく険しい顔をした姉と死んだように横たわっている母がいた。
少女の声にも反応する余裕はないのか、姉は地下室の奥でひたすらに母の手を握り、掠れた声で呼びかけている。
よく状況は呑み込めていないけれども、ただならぬ雰囲気であることは少女にもわかった。
「おねえ、ちゃん……?」
掛ける声が分からず、とりあえず姉を呼ぶ。その声にやっとその存在に気付いたのか、姉は顔を上げ、少女の方を見つめた。その顔は強張りつつも、いつもの無表情に近いものとなっている。
「おかえり……」
いつも通りを心がけようとしているのは分かるが、やはり思うようにはいかず、その声は震えていた。
「おかあさんは……?」
恐る恐る少女は尋ねる。母の体調が芳しくないどころか、悪いものであることくらい、訊く前からわかっている。それでも少女は本のわずかな期待を込めてそれを尋ねざるを得なかった。
「母さんは……」
姉はその問いに答えようとして、言葉を詰まらせる。
状況はもうわかりきっている。それを口に出すことも簡単だ。しかし、ほんの僅かな期待を込めて尋ねる幼い少女にそれを伝えていいものかどうか、少女の希望を自分が絶っていいものかどうか、仮に嘘をついてもすぐにばれるのに意味はあるのか、姉の瞳に逡巡の思いが揺れ、次に出す言葉を見失った。
しかし、その沈黙は答えと同義だった。
「お母さんは、大丈夫だよね……?すぐに良くなるよね……?」
僅かな期待も折れて、それでも何とか否定してほしくて、目を滲ませながら、震える声で姉に縋りつく。
それでも、姉は沈黙を守り続けた。
姉自身も、それを口に出すことは憚られたのだ。
姉が何も言わないことが分かると、少女は母の方に走り寄り、その手を握る。
「お母さん……!大丈夫……?」
握った母の手は、冷たかった。
少女の声に母は、微かに、弱々しくうなずいたように見えたが、もしかするとそれは、母の無事を確かめたい少女の心が見せた幻影だったかもしれない。胸が呼吸に合わせてわずかに上下する様を見てやっと生きていることを確認する。それがなければ、死体と見紛えても仕方がなかった。それほどまでに母は弱っていた。
「ねぇ……おかあさん……」
母の声を聞きたくて、少女は何度も呼び掛ける。それは、少女が来るまでに、姉が母に呼びかけていた姿とそっくりであった。
何度も呼び掛けた甲斐があったか、声は聴けなかったけれども、母の手がピクリと動き、ほんの少しの力がかかる。
「お母さん……!」
それに気づき、より強くその手を握り、少女は母に呼びかける。様子の変化に気付いたか、姉も近くに寄ってくる。
見ると、母の口元は微かに笑みを浮かべていた。暗い地下で、辛うじて見るくらいのほんの少しの変化。少女はそれを読み取り、無理やりに笑みを浮かべる。
「お母さん……ただいま……」
絞り出すように言葉を出す。それに母は、僅かに口を開ける。
その言葉は音として紡がれなかったけれども、少女の耳は確かにこう聞こえた。
――おかえり。
* * *
母の灯は今にも立ち消えそうなくらい、その容態は悪かったけれども、幸運なことにその命は未だ吹き消されていなかった。
「お母さん、お母さん!ただいまっ!」
元気な声で少女は寝込んでいる母のもとへ駆け寄る。
そんな彼女に対し、ほとんど意識のない母の反応はとても薄いものではあるが、少女にはなんとなく母が心の中で笑顔を浮かべながら「おかえり」と言ってくれている気がした。
「あのねあのね、お母さん……」
無反応な母を前に、少女は今日あった何気ない日常の一コマを語り始める。曰く、家は壊れちゃったけど農地は無事だったどこぞの誰々さんから野菜を多めにもらっただとか、壊れた家の欠片から玩具屋の誰々さんがおもちゃを作ってくれたとか、そんな、なんて事のないことばかりだ。その日常は壊れてしまったようで、まだ街の中に潜在していた。そんな日常の断片を少女はかき集めて、母に聞かせる。
それらの多くは、街の皆に愛されていた彼女だからこそ、見せてもらえた“日常”だったのかもしれない。本来、皆も少女の家と同じように自分のことで手一杯のはずだ。少女がそれを理解していたかどうか、そこまでは分からないが、少なくとも街の皆は少女にその苦労を悟らせようとはしなかった。
少女の行動に意味があるのか、彼女自身もそれを疑問に思うこともあったが、いつかに魔女が言ってくれた「笑顔が好き」という言葉を胸に、少女は笑顔で母に語り聞かせ続けた。
そんな健気な彼女の行動も、結局は実を結ばず、母の容態は悪くなる一方であった。
いつ死ぬかもわからぬ日常が続く中でのそんなある日、元から悪かった母の容態が著しく悪くなった。
それは少女が街に繰り出し、彼女の姉が一人で看病している時のことだった。
「……あ、ま………ん、ひさ……り……」
うわ言のように、消え入りそうな声で母がこんなことを言い出した。
「……!母さん、どうしたの!?」
今までほとんど声を発さず、反応するとしても微かに頷いたり微笑んだりするばかりだった母が、ほとんど聞き取れないほどの声量とはいえ、言葉を発したのだ。彼女の驚きも無理からぬことと言えよう。
「あ…た…かわ………ね」
母は彼女の声が聞こえていないようにうわごとを続ける。そんな母の声に、彼女は黙って耳を澄ませる。
「わた……だ、…と、……………け」
耳を澄ませてみても、言っていることはほとんど聞き取れなかった。
「……ね、もう……かし…」
心なし母の表情が柔らかくなった気がする。
「だか…、うん、…かっ……」
母が虚空に頷いた。彼女がその視線を辿ってみても、そこには何もない空間があるだけだった。
「あ…がと……、魔女さん」
「魔女さん……?」
母の口から聞き慣れない単語が飛び出してきて、彼女は眉を顰める。しかし、その意味をさらに考える前に、
「ね、あの子は……いるかしら……?」
母が彼女に声をかけてきた。今度はしっかりと聞こえる声で。
「い、いや、今はいないけど……」
突然の声に、彼女は素直に答えてしまう。
「……そう、それでも……いいかもね……」
母はここで咳き込む。その口には血が混じっていた。
「母さん!大丈夫?落ち着いて、しゃべらないで……」
口内や気管が切れたのか、そんな母の様子を心配し、彼女は母の言葉を止めようとする。
「ね、これだけ……言わせて……」
それでも話そうとする母に、彼女の頭に嫌な想像が浮かんでしまう。その想像を振り払って、母を止めようとするものの、弱々しく微笑んだ母の姿に、彼女は行動を止めてしまった。
まるで、これが最後とでも言うかのように。
母は儚くもどこか力強く笑みを浮かべていて、その姿は綺麗だった。
母の手が動き、彼女の手に触れる。
彼女はその手を引き寄せ、力強く握る。それに感じたのか、母の方からも弱々しく握り返される。
「助け合って、仲良く……ね?」
それだけ。
それだけ言うと、母の手からは力が失われていた。
元から冷えていたその身体は、心なしさらに冷え切ったようで、彼女が握っている母の手は、力を失って重くなったはずなのに、どことなく軽かった。
「え……?」
死んだ。
それを認識することに、そう時間はかからなかった。口元に耳を澄ませると、もう呼吸音は全く聞こえず、胸に耳を当てると、拍動ももう聞こえない。
聞こえない拍動が聞こえた気がして、もう一度耳を澄ませてみるが、やはり何も聞こえなかった。
その表情は依然笑みを浮かべているものの、目の端から大粒の水滴が一粒流れ落ちていた。
認めたくない現実ではあるが、受け止めるしかなかった。
もう、彼女は頼ることができないのだから。その人はもういないのだから。
母は、死んだのだ。
少女が家に駆けこんできたのは、それからほどなくしてのことだった。
「ただい……」
いつものように元気よく帰ってきたことを知らせようとするものの、いつもとは明らかに違う雰囲気に押し黙ってしまう。
嫌な空気だ。
それが何なのかは分からなかったけれども、漠然と頭に浮かんできて、それを形にすべく少女は口を開いてしまう。
「……どう、したの?」
その問いの答えを、姉が口にする前に、少女は母のもとへ駆け寄った。急いで握ったその手は、ひどく冷たかった。
漠然としたイメージが、だんだんと形を成していく。
そして、
「母さんが、亡くなった」
姉の一言で、そのイメージが完全に形を成した。
「そ、か……」
一言だけ漏らす。
少女は母の手を握ったまま俯く。思ったよりも心は安定していたけれども、少女の頬には地下の闇に光る筋が走っていた。
姉は、そんな彼女の姿を見遣って、近くからそっと見守る。
声を出して泣き出したりするかとも思ったが、そんなことはなかった。ただ、母の死を悼み、静かに涙を流していた。
それは明らかな強がりではあったけれども、姉は黙っていた。
幾ばくかの時が経ち、少女は立ち上がった。そのまま、地下から出ていこうとする。
「どこに行くの?」
姉の問いに、少女は振り返って笑う。今にも壊れそうな顔で、それでも彼女は笑って答えた。
「食べ物、手に入れないとねっ!」
そうやって出ていった少女は、やっぱり無理をしているのが丸見えで、姉は小さくため息をついた。そして、横たわったままの母に向き直り、手を合わせた。
* * *
トン、トン、トン、トン。
スキップで少女は壊れた街を進む。その顔には眩しく見える笑顔を貼り付けて。
壊れた街は人もいくらか少なくなっていて、どことなく寂しく感じる。この前の襲撃で死んだ人も多くいるが、その死体は見つかっていない。噂では、襲撃してきたあの機械がどこかへ持っていってしまったとのことだが、少女は現場を見ていないため何もわからない。
寂しくなって、悲しみが散在する街に少女は笑顔を振りまいていく。無邪気な少女の無垢な笑顔はなんとなく人を幸せにし、この街の人は、いつもはそれを微笑ましく見ていくが、今はそれが強がりであることが簡単に見て取れ、むしろ心配そうに送っていく。
農家の誰さんから僅かばかりの食料を恵んでもらい、代わりに姉が調合した薬を渡して、お互いに利益を得る。断ったものの、その人からは余分に食料を恵んでもらった。それほどに少女の姿が、痛ましかったからであろう。
誰もそれには触れないが、誰もがそれに気付いている。
みんな少女のことを気にかけていたし、少女の一家自体、街唯一の薬屋だったから、彼女の境遇は誰もが知っていた。
トン、トン、トン、トン。
スキップで進む少女は、一見機嫌がよさそうに見える。それがただの強がりであることは、少女自身は気づいているのだろうか。
いつぶりかの森を、少女は進む。無人に見えるこの森が、実は無人でないことを少女は知っている。
適当な方向に進んでいくが、今日はいつもよりも深くに入った。それ自体に意味は無く、単に深い霧が森の奥を覆っているのが遠目に見えたからだ。その霧は森の奥を占拠したままゆらゆらと揺れている。
つまり、そこに少女の目当ての人物、霧の魔女がいるのだ。
いつもなら少女が入った時点で魔女はこちらにやって来る。けれども、今日はやってくる様子がなかった。霧がその場で溜まったままなのだ。だから、少女は自らの脚で魔女のもとへ歩く。
本来ならそれなりに迷うところかもしれないが、魔女と一緒とはいえ、何度も歩いた道を辿るだけでそこに着くことができた。
「魔女ちゃんっ!こんにちはー!」
少女が声を張り上げる。魔女が霧の中にいるのはほぼ確実とはいえ、霧の範囲はそれなりに広い。その中のどこにいるのかまで少女にはわからない。極論霧の反対側にいるかもしれないのだ。
せっかく大きな声で呼んでみたものの、聞こえなかったのか魔女の姿は現れない。
「魔女ちゃーん!」
魔女を呼びながら霧の中に足を踏み入れる。濃度の高い霧は一寸先も見通せず、たびたび目の前に突然樹木が現れてはぶつかりそうになる。そのたびに方向転換して、歩き回る。
すぐに方向感覚を見失い、自分がどこにいるのかもわかなくなったけれども、それでも歩き回った結果、霧の内部の半球状に霧が晴れた場所に出た。
「魔女ちゃー……」
さらに呼びかけようとしたとき、その中央に魔女が座り込んでいることに気付いた。
「……魔女ちゃん、どうしたの?」
真っ直ぐに届けられた少女の声に、魔女はハッとして少女の方を見た。
「あなた、なんでここに……!?ていうか私が見え……!?」
珍しく取り乱した様子の魔女が慌てて立ち上がり、その拍子にローブの裾を踏んづけ、盛大に尻餅をつく。
「あいたっ!」
「だ、大丈夫!?」
少女が心配そうに声をかけるが、魔女はその場で霧に覆われた空を仰いだ。
「あー……なるほど」
なにがなるほどなのか分からないが、魔女は何かに納得した様子で呟いた。
「で、なんであなたはここに来たの?」
何もなかったかのように魔女は少女の方に向き直った。
「い、いやそんなことよりも、お尻大丈夫?」
短い少女の人生だが、その人生で見たことないほど勢いよく盛大に魔女が尻餅をついたので、思わずそんな心配をしてしまう。
「大丈夫よ、このくらい。なんてことない。大丈夫じゃないのは醜態をさらしてしまった私の心だけね」
言外にこれ以上触れるなと警告してくる。その目はジトっと少女を見つめている。
「で?なんであなたはここに?」
そしてもう一度魔女は尋ねた。
「あ、そうそう、そのね、もしかするとしばらく会えないかもしれないから、それを伝えようと思って……」
少女は遠慮がちに口を開いた。
端的に言えば、少女は魔女にお別れを言いに来たのだ。母が死に、確かに物資の負担自体は減ったものの、母がいないという状況は年端も行かぬ彼女にとって、今までよりもずっとしっかりとしなければという思いを抱かせるには十分だった。つまり、今までサボり半分でやっていた仕事をもっと集中して果たそうと思ったのだ。
「ふーん、まあ、いいけど」
その言葉に、魔女はなんて事のない風に答える。
「ちなみに、それはなんでか聞いてもいいの?」
何気ない風を装って魔女は尋ねる。それに少女は頷いて話し始めた。
「えっとね、その、わたしのお仕事をもっとちゃんとしようと思って」
「それは何でかしら?」
「だって、今までサボり気味だったから……」
魔女が問い詰める意図が分からず、少女は困惑気味で答えた。その答えを聞いて、魔女はふぅとため息をつく。
「ねぇ、私はね、あなたが来ようが来まいがどうでもいいの」
それは流石に嘘であろうと少女は思う。証拠に魔女の顔は不安そうな顔をしている。胡散臭く見えるときも多いが、根本的に自分の心に嘘をつけない人なのだ。
「でもね……あなた、嘘ついてるんじゃない?」
それは魔女の方だろうと思うが、少女はなぜだか言葉に詰まってしまう。その理由は少女自身にもわからない。
「あなたのお母さん、どうなったの?」
病気であることは前にも話した。そこからこのように来ることは何も不自然ではあるまい。
その問いに少女は、
「あたしの、おかあ、さん、は……」
答ようとしても、声が震えて、それ以上は言葉が出ない。
全てを見通しているかのように、魔女は手を挙げて少女を止める。そして、魔女は話し始めた。
「まあ、いいわ。無理に話す必要はない。あなたのお母さんがどうなったか、もう十分にわかっているし」
魔女は柔らかく微笑みながら話を進める。
「私が本当に聞きたいのは別のこと」
一拍置いて、魔女は口を開けた。
「なんで、泣いてるのに笑おうとしているの?」
それは決して非難するようなニュアンスがあったわけではなく、ただ本当に不思議そうにそれを尋ねた。反射的に少女は目元に手を遣る。少女は先程まで、母がどうなったか聞かれるまで笑顔を貼り付けており、涙の痕などはどこにもない。
「泣いてなんか……」
「異論は認めない。あなたが嘘ついているのは、私に対してじゃない。自分に対してよ」
少女は何も言うことができず、ただ沈黙する。
そんな彼女に、いつの間にか立ち上がっていた魔女は一歩近づいた。
「泣いて、なんか……」
消え入りそうな声でもう一度少女は呟く。魔女は少女のすぐ前に立った。
「いいえ、泣いてる」
そう言って、彼女の身体を両腕で抱いた。
「なにをす……」
「私はあなたの笑顔が好きよ。きっとあなたのお母さんも。でも、無理に笑う必要なんてないの。ね?」
魔女は優しく少女の頭を撫でた。少女は魔女の手を振りほどけないまま、為すがままにされる。
「私は、私たちはあなたの心からの笑顔が好きなの。だから、悲しい時は泣いて、どうしようもない憤りを感じたなら怒って、それで、嬉しい時があったらなら。その時は心から笑って?」
少女を抱く魔女の温もりは、まるで本当の母親のようで、
「ね、あなたのお母さん、どうなったの?」
それは幼い彼女に現実を突きつける残酷な行為であったかもしれない。それでも、魔女はそれを突き付けた。
いつか、少女が再び笑えるように。
「あた、あたしの、おかあ、さん、は……」
魔女は、今度は黙って少女を見守る。
「あたしの、おかあさん、しんじゃった……しんじゃったの……」
言葉に嗚咽が混じる。
その嗚咽が号泣に変わるまで、そう時間はかからなかった。
「しんじゃった……しん、じゃ……う、ああ、あぁぁーーーーー!」
深い霧に包まれ、誰もいない森の奥で、一人の幼い少女が大声で泣き叫ぶ。
少女の涙からは大粒の涙がいくつも零れ落ち、頬を伝って地面に落ちる。
そんな彼女を魔女は、黙って抱き続ける。
しばらくして、魔女は少女の頭に手を遣った。
「我慢することも大事。でも無理することはない。あなたは優しいから。だからきっと大丈夫。ね?」
少女は涙で滲む視界の中、優しく頭を撫でてくれる亡き母の幻影を見た。
その手は冷たかったけれど、暖かかった。
しばらくすると、少女は泣き止み、鼻をぐずぐず言わせながらも魔女から離れた。
「落ち着いた?」
魔女の問いかけに、こくんと頷く。
「そう、ならよかった。吐き出すものは全部吐き出した?」
その問いかけには、少女は首を振った。
「そう、一度泣いた程度で親しき人との別離に見切りをつけられるなんてことはない。無理に笑う必要なんてない。泣きたくなったら、泣いたらいい。
私は、いつでもここにいるから」
そう話す魔女は、いつもよりも幾分大人びて見えた。
「私は、ありのままのあなたが好きだから」
そう言って、魔女は微笑んだ。
今度こそ、少女は純粋に心から笑って答えた。
「あたしも、あたしも魔女ちゃんのこと、大好きだよっ!」
そう言うと、少女は手を振った。
「だから、またね!」
魔女は、街までの帰り道を造ると、魔女っぽく笑って答えた。
「うん、またね」
そうして、魔女と少女は別れた。
* * *
少女が帰った後、魔女は地面に座り込む。それは、ちょうど少女がやって来るときと同じような体勢だった。
周りには深い霧。誰もいないそこで、体育座りで膝の間に顔を埋める。
「あー……ここに来るのはちょっと予想外だったかなぁ……」
ぽつりとつぶやく。顔を上げ、空を見ると霧は晴れて青い空が顔を出している。
「まあ、私の方にもちょっと非があったけどさ」
魔女は立ち上がった。そして、己の頬を両手でバチンと叩く。
「格好いいこと言った手前、私もしっかりしないとね」
周囲を見ると、もう霧は完全に晴れて、ただ鬱蒼と茂っているだけの森林が広がっている。
魔女には別にするべきことがある訳でもない、悠久の時を過ごしてきた彼女にとって、取り急ぎやるべきことなど何もなかった。
それでも、とりあえず足を一歩踏み出してみる。
積もった落ち葉を潰す音が響く。
「あなたは、死ぬとき何を思ったの?」
もう聞こえない『声』に向かって、ふと呟いたその言葉は、何にも響かず空に呑まれた。
* * *
とん、とん、とん、とん。
決して浮足立ってはおらず、それでも何か吹っ切れた様子で少女は歩く。
森の道からの帰り道。霧の道はいつも街のすぐそばまで続いている。それでも街中までは続いていないので、街の外から少し歩く必要がある。
帰り道を、しっかりとした足取りで進んでいく。
とん、とん、とん、とん。
往きよりも軽い足取りで進む彼女の姿は、少しだけ調子を戻してきたかのようだった。その表情も無理に笑顔を貼り付けたようなものではなく、自然と湧いて出てくるような笑みが浮かんでいる。
街まであと少し。少女の家は街の外側にあるので、家までもあと少しだ。姉がきっと待ち惚けているだろう。
「よしっ!」
自分に活を入れて歩を進める。姉も自分のために頑張ってくれているのだ。自分も、背伸びしすぎないくらいに頑張らないと。そのように思いを新たにする。
「行こ!」
さして離れていない距離。魔女のところで泣きはらして、それでも吐き出せなかった分を走って紛らわそうか。
そう思い、意味もなく走り出したとき、目の端に見慣れない物体が映った。
「あれ?なんだろ?」
立ち止まって、ちょっと行き過ぎてしまったため、後ろに戻ってその物体を確認した。見慣れない物ならば危険な物であることもある。そのくらいは流石に学んだ。慎重に近づいていく。
「あれ……人?」
遠目には見えなかった物体の正体がだんだんと明らかになっていく。
それは、倒れ伏した人だった。二人、小さい子供と、大きな大人の男。もちろん見覚えのない人だ。そこまで大きくはない街でかつ人同士のつながりが強い街であることもあり、住民の顔くらいは大体把握している。確実に彼らは街の住人ではなかった。
人であることを認識すると、少女は急いで駆け寄った。
「だ、だいじょぶ!?」
体を揺すると、呼吸音が聞こえた。二人とも息はあるようだ。
「どうしよう……?」
すぐさま彼らを助けようと思ったが、少女の体力で連れていけるはずもない。
「ちょっと待っててね……!」
自分一人ではどうしようもできない。だからと言って見捨てるなんて選択肢は元から存在しない。ならばできることは一つだけ。
少女は助けを呼ぶために、走って街に急いだ。
街のみんなも誰かを受け入れる余裕などないはずなのに、少女が事情を説明すると快く了承してくれた。
すぐさま何人かが彼らを助けに行き、子供と男を担いで街へ戻ってきた。
みんな根本的なところで優しいのだ。
「だ、大丈夫でしたっ!?」
彼らが運び込まれるなり、少女は近くの事情を知ってそうな大人に近づいて尋ねた。曰く、疲労と栄養失調で倒れていただけで、外傷がある訳ではないらしい。ほかにも何か話していたけれども、少女にはよくわからず、とりあえず無事らしいという事を理解すると、ほっと息をついた。
建物は空襲で完膚なきまでに破壊されているので、倒れた彼らを療養させておくのに適したところは少ない。あったとしても、数少ないそれらはもっと重症の患者のために場所のものとして割かれている。そのため、彼らの療養は適当な家で行われることとなった。
それが、少女の家だった。
少女の家は薬屋という需要の高い商売のため、それなりに裕福でもあり、母がいなくなったことで場所も少し空いている。ちなみに言うなら彼らを見つけたのは少女であり、この処置は妥当なところであろう。
先に大人たちが少女の家に彼らを運び込み、少女は後から家についた。
家についた彼女を待っていたのは、
「おかえりーーっ!」
開け放たれたままの扉をくぐるなり、大きな声とともになにか物体が少女の胸に向かって飛んできた。
「うおっ」
まともにくらいはしたものの、物体の質量が大してなかったために、そこまでの威力はなかった。
飛び込んできた物体を見ると、それは先程の行き倒れの子供だった。
「た、ただいま」
唐突な出迎えに、状況を呑み込み切れずそれだけ応える。
後ろの方には姉が男の方から話を聞いている。どうやら、先ほど連れ込まれたばかりでもう目覚めたらしい。疲労と栄養失調で倒れていたとのことだったので、栄養失調は知らないが疲労の方は落ち着いて寝ることで快復したのだろう。その様子を見て少女はほっとした。
少なくとも、救えそうな命を救えたのだ。
そこで、少女は胸の子供に目を遣った。
自分よりも小さい女の子。ここまで小さな子供を見る機会は少ないため、新鮮で物珍しくも見える。大きな瞳、大きな顔、でもそれらは身体の割にそう見えるというだけで、実際は少女でも潰せそうなほど小さくて脆い。
女の子は少女の目を無邪気に見つめて、きゃっきゃと無垢に笑った。
「ねーねー、おねーちゃん」
「お姉ちゃん」と呼ばれ、少女は震撼する。
「お姉ちゃん……!いい響き……!」
基本的に大人に囲まれた少女がその響きを特別に感じるのは無理からぬことであったことなのかもしれない。そんな少女の様子を女の子は不思議そうな顔をして見つめる。
「おねーちゃんがたすけてくれたんでしょー?あそこの女の人がいってたー。ありがとねー!」
眩しい笑顔でこちらを見つめる女の子。それを見ているだけで少女はなんとなく幸せな気分になってくる。思わず顔が綻んだ。
そして、笑みを浮かべた少女に安心したのか、女の子はこう言った。
「わたし、サクラっていうの!おねーちゃんは?」




