笑顔を浮かべる小さき者
「いやっほぉぉーーっ!!雪だ雪ーっ!!
およそこの場所には似合わない明るく元気な声が木霊する。
「あははー、さむーい!つめたーいっ!」
もこもことした長袖の厚手の服、首にはマフラー、手には同じく暖かそうな手袋、脚はスカートであるものの、その下に少し厚めで保温性の高いタイツのような物を着用し、靴はブーツを履いて寒さ対策は万全の少女が一面に積もった雪の中、何が楽しいのか笑いながら無邪気に走り回っている。
その傍らで、墓守はいつも通りの墓造りに勤しんでいた。
「元気あるなぁ……」
サク、サク、サク、サク、サク、ザク。
時折サクラの方を見ながらも、その手を休めることはない。
常時であれば多くの骸がその身を晒し、同じくらい多い墓標の積み石が広がっているこの『ゴミ捨て場』だが、今はそのほとんどが真白な雪の結晶の塵に覆われていた。墓標は雪の中から少しだけ顔を出しているが、雪に埋もれていることは事実だ。
「……にしても、こんなになるなんて珍しいな」
サクラが落ちてきてからある程度の日数が経過した。目覚めてからというもの、順調に快復を遂げ、今では目の前の光景のように雪上を元気に跳び回るくらいになっている。食料の方もここに来る前には自分でとっていたのか、それとも家族の手伝いでもやっていたのか、多少墓守の助けが入ることも多いものの、自力で調達することができるようになっていた。とはいえ、このように寒い冬に満足な食料などがある訳もなく、ただでさえ大食らいのサクラは常にひもじそうにしていたが、蓄えなどないこの場所ではそれも致し方あるまい。本当に少しも見つからないときは、墓守がどんな手段を使ってでもどうにかするつもりなので、少なくともこの冬は何とか越せそうである。
方法ならいくらでもある。
なので、多少の不自由はあれど、サクラの生死に関しては何も言う事がないのだが、問題はそれではなかった。
墓守はしゃがみ込んで雪をすくってみる。軽く握ると、手には冷たい粉状の氷の感触。
雪自体はそこまで珍しいものではない。毎年たくさん降るわけではないし、振らない年もざらにあるため、体感的には珍しいが、気候として決して降らない地域ではない。今年の冬がおかしいところは、その量だった。
冬も更けないうちに雪が降ったあたりから、なんとなく察してはいたものの、大穴の底一面に積もるとなれば、それは異常事態だ。
「今年の冬は、なんなんだろうな?」
なんにせよ、去年よりは過酷な年になることは確実であろう。
ちらりと横に目を遣る。そこには、依然としてわははー、なんて能天気に笑いながら走り回っている少女がいた。そんな姿を見ていると、なんだかそんなことを心配しているのも無駄な気がしてきた。
「まあ、いっか」
手に持った雪の塊を落とし、再びシャベルを振るい始める。
ザク、ザク、ザク、ザク、ザク、ザク、ザク。
先ほどまで雪を掻いていたその音も、いつの間にかいつも通りの土を掘る音に変わっている。
ザク、ザク、ザク、ザク。
死体を降ろし、土をかぶせる。いつも通りに埋めると、落ちていた石を手に取る。
カチャリ、カチャリ、カチャリ、カチャリ。
手を合わせて、これでおしまい。
次の墓造りに取り掛かろうとしたとき、目の端に白い塊が飛んでくるのが見えた。
反射的にシャベルで撃ち落とす。速度は大して高くもなかったため、撃ち落とすことはそう難しくなかった。
「むっ!気づかれた!」
飛んできた方向を見ると、片手に雪の塊を握りしめて、もう片方の手は何かを投げたような姿勢のまま固まっている少女がいる。
「まったく……」
サクラは、流石に死体の方には近づかない。墓守が近づかないようにしているのもあるが、多くの死体を気味悪く思っているところもあるであろう。なので、墓標の立ち並ぶ中の合間を縫って好き勝手遊んでいるのだが、いい加減飽きてきたのかもしれない。墓守のいるところまでやって来ることは無いものの、少し離れたところからこちらに雪を投げつけてきた。
「まだまだあるもんねー!」
さらに投げつけられる雪玉。よく見ると彼女の足元にはすでにたくさんの雪玉が作られており、それを拾っては投げ、拾っては投げていた。
しかし、いくら球のストック数が多かろうと腕は二本。同時にやって来る雪玉の数は限界がある。それに、サクラの腕力的にも球速はあまり速くない。落ち着いて弾を見れば全て撃ち落とすことも容易だった。
すぐに球は尽き、そのすべてを撃ち落とした墓守に休息が訪れる。
「むぅ、シャベルさん、やるなー。もしかしてそもそも当たらないのかっ!?」
「?」
なにを言っているのかわからないが、一発も当たらなかったとはいえここまでされて黙っている理由もない。かといってただ雪玉を投げ返しても芸がない。
墓守はシャベルを持ってサクラに近づく。
「お、シャベルさんも遊ぶー?」
呑気に尋ねるサクラに十分近づいたとみるや否や、
サク。
シャベルを雪に突き刺すと、そのまま思いきりシャベルを持ち上げて雪をばらまいた。
「!?!?!?!?」
突然の墓守の猛攻に、驚いて状況を理解できないサクラが呆然とする。
一瞬後。
「つめたっっ!!!」
頭からシャベル一杯の雪をかぶったサクラが悲鳴を上げた。
体は厚い服に覆われているとはいえ、顔は当然露出している。そこに冷たい雪をもろに被れば相当に冷たいのは当然である。
「ふふふ、私にケンカを売ったこと、後悔しないようにね?」
シャベルは一回きりではなく、何度も掘り返しては雪を振りまく。そのたびに冷たい雪がサクラにかかり、何度も悲鳴を上げつつも彼女は破顔している。
「くぉーっ!冷たいーっ!やめてーっ!」
流石にシャベルが直接あたってしまうと危ないので、墓守は一定以上サクラには近づかない。しかし、積もったとはいえそこまで深く積もったわけでもないので、すぐに茶色い地が顔を出し、墓守の猛攻も止まってしまう。それを好機と見たか、
「フッフッフ、シャベルさん、そんなものかい?」
先ほどまで散々悲鳴を上げていた割に、サクラは余裕ぶって立ち上がる。その両手にはいっぱいいっぱいの雪玉が握られていた。
「今度こそ、わたしの番だーっ!」
ブンブンと腕を回して射出機のごとく雪玉が投げられてくる。尤も、それらも先ほどの球と威力も速度もさほど変わらない。落ち着けば全部撃ち落とせるはず。
墓守の仕事が頭から完全に飛んだわけではないが、それを忘れたようにサクラと遊ぶ墓守のフードの下は、知らず、綻んでいた。
フードの中から覗く真白な髪を振り乱して、気づかないうちに、きっと、その幸福を噛み締めていた。
そして、それまでだった。
「……シャベルさん?どうしたの?」
はたと立ち止まり、急に飛んでくる雪玉に反応しなくなった墓守を不思議に思ったのか、サクラはおずおずと近づいてくる。それを、シャベルを持った手で押さえ、墓守は少し遠くを見た。
そこにあるのは、微かに流れる雪の山。
その下には――雪に埋もれた、『生きた』死体。
「……久しぶり」
最近、サクラが来てからは特に、『生きた』死体に出会うことは少なかった。それは単純に落ちてくる死体が少なくなったためだ。数少ない『生きた』死体も、なるだけサクラには見つからないように、怖がらせてしまわないように埋めてきた。
しかし今、死体はここで動いている。
「仕方がない、か」
墓守は、できるだけサクラにその場面に立ち会ってほしくはなかった。
理由ならたくさんある。挙げようと思えばいくらでも挙げられるだろう。
怖がらせなくなかったというのもその一つだし、危ないかもしれないという事もあるし、人の死にそんなに触れてほしくなかった、なんて理由もある。
ただ、それらの理由はただ一つの理由に帰結する。
サクラには、能天気に笑っていてほしかった。
ただ、それだけ。
死体に埋もれて、腐敗と死に塗れた『ゴミ捨て場』で、彼女には救いであってほしかった。
それは単に、穢されてほしくなかったのであろう。どこまでも利己的な己の願望に、それでも墓守はそれを望む。
それも、もう終わり。
死を看取るのも、死体を埋めるのも、墓を造るのも、誰かも護るのも。全てただの自己満足だ。墓守はそれを自覚している。
きっと今までと一緒では、いられない。
「ね、ねぇ、あれ、なに……?」
サクラがついにそれを目にする。
右腕が千切れ、顔が半分潰れ、腹からは臓腑を垂れ流している男がいた。白い雪を黒い血で汚しながら、体を起こそうと雪の下で蠢いている。
「見ない方が、いいよ」
墓守のその言葉は、サクラの耳には届かず、サクラは彼を凝視する。
「死んでるの……?」
その顔には、分かりやすいほどの恐怖が刻まれている。ほかにも思うことはたくさんあるであろう。戸惑い、驚愕、不安。それでも何より強かったのは、それだった。
遠ざけるように墓守は、サクラの体をシャベルで押す。押されて後ずさったサクラにも、その意思は通じたようで、もう数歩自身の脚で後ろに下がる。
「ねぇ、シャベルさん……大丈夫、なの……?」
その果てに出てきた彼女の言葉は、ただ一心に墓守を心配する言葉だった。その声にはっとして、墓守はサクラの顔を見た。
その瞳には、いろんな感情が潜んでいたけれど――。
「大丈夫だよ」
それだけ言うと墓守は目を逸らし、彼に向かっていった。いつものように。
サクラはその言葉も、その後ろ姿も、まるで感じていないかのように、初めての『生きた』死体を目に留めていた。
* * *
本来あるべき体温を失い、冷たい外気に晒され続けた男の身体は半分凍っていた。
ぎち、ぎち、ぎち、ぎち。
軋むような音をかき鳴らし、男の骸は関節が錆びているかのようにぎこちなく動く。その姿を墓守は落ち着いて、観察する。
いつも通り。いつものように対処すればいいだけ。
違いは、彼女の背後に幼い少女がいる。ただそれだけだ。
するべきことは何も変わるまい。
シャベルを握りなおし、墓守はとうに決まっていた覚悟を再度確認する。
ぎち、ぎち、ぎち、ぎち。
歯の浮くような音を響かせる男の体は、墓守の姿を認めるとゆっくりと足を進め始めた。
ぎち、ぎち、ぎち、ぎち。
墓守も同様にゆっくりと歩を進める。
焦ってはダメだ。『生きている』死体が記憶で動く以上、見た目の脆弱さは当てにならない。この前の年老いた男のように、度肝を抜かれるような動きを見せられることもあるのだ。
慎重に。
流石にあの年寄りのような動きをするほどの者はそうそういるとは思えないが、何が起こるかわからない。明確な理をもって動くわけでもない『生きた』死体に対して、己の常識を当てはめるのは愚かであろう。
それは油断だっただろうか。いや、そうではない。ただ、予想外ではあった。
ぎちゃ――ッ!
骨肉が潰れる音と、氷を砕く音が混じり、
「―――――――ォォォオ嗚呼ァアアアッッッ!!」
何の響きも聞こえない咆哮が空に響いて、
「――ッ!」
男がなんの前触れもなく、突然飛び掛かってきた。
咄嗟にシャベルを振りかぶると、刃は男の胸にあたり、進行方向を横にずらした。墓守のすぐ横で男が受け身も取れず雪の上に無様に落下する音が聞こえる。
「もう……」
男の様子は、今までの多くの『生きている』死体とは全く様子が違った。それでも、このような死体が決してなかったわけではない。
彼がこのようになってしまった理由。
それは、
「……なにも、覚えていないんだね」
死者は記憶で動き出す。動けないその身体に鞭打って、己を傷つけながらも駆動するのだ。では、その記憶がなくなってしまったら。それでも動こうとするなら。
そこに存在するのは、ただ“ナニカを為す”というだけの失ってしまった目的と、獣の如き遺志無き行動のみ。
何もかもが欠落して、何も護れなくて、ただ一つ残った記憶すらも劣化して。そんな彼らの末路がコレであり、その結末が、幸せには程遠い、悲惨なものになることは必然であった。
己の存在のほとんどを失った彼は、それでも立ち上がろうとボロボロの腕を雪につき、体中から染み出る液体で辺りの白い雪を真っ赤に染めていた。
そんな彼に、墓守は正面から向かい合う。握った右手には硬いシャベルの柄の感触を感じる。
「……ごめんね」
その言葉は、きっと彼には微塵も届かない。ゆえにこれはただの自己満足だ。己の内から出づる様々な感情を押し殺すための、ただの方便。
何も為せない彼に、何もできない墓守がただ一つできる無意味な所業。
それ以上の言葉は無為だ。墓守は無言でシャベルを振り上げる。
あとはいつも通り、その頭を潰せばいい。あとに残るのは顔が潰れただけの、ピクリとも動かないただの骸。
無情にシャベルを振り下ろそうとした墓守だが、そこに、
「シャベルさん……!?」
ここにいた、もう一人の存在の声が響いた。
ほんの一瞬。躊躇した。決して頭から離れてはいなかった、この場にいるもう一人の存在を改めて認めて、その視界に映ることを躊躇ってしまった。
それは瞬きするくらいの、ほんの少しだけの逡巡。だがそれは、状況が変わるには十分な時間だった。
「……ァァア……」
僅かなうめき声とともに、目の前の彼は視界から消えていた。
「……ッ!?」
それはあまりに突然で、墓守の頭が追い付いてきていなかっただけだけれども、
「え、な、なに……」
サクラの声が墓守の頭を無理やり直面している現実に引き戻す。
急いでサクラの方を見ると、いつの間にか彼女の目の前に彼が立っていた。
いや、分かっている。
先ほどまで墓守の目の前で藻掻いていた彼だが、死体にそんなことは本来必要ない。そんなことをするのは、単に生前の記憶が少しだけ残っていたからであろう。記憶や魂とかではなく、身体が、転んだ時をシミュレートして藻掻いていただけに過ぎない。
記憶を基にして動くならば、そしてその記憶が壊れきっているならば、本来ありえないほどの、それこそ生前ですらできないほどの速さで動いても何ら不思議ではない。
なぜサクラの方へ彼が移動したのかはわからない。記憶のどこかに引っ掛かるものがあったのかもしれないが、それは墓守には観測し得ない。
今気にしなければならないのは、彼がサクラの目の前にすでにいるという事だ。
元来の彼がどんな人物かは分からない。元々は心優しい人物だったかもしれない。しかし、記憶の廃れた現在、どのようなことをするのか、ずっと傍観すればわかるかもしれないが、そんなことをしてしまったら、場合によっては、サクラに、あるいは墓守に次など来ないかもしれないのだ。
「……ッッ!」
墓守は全身全霊で地を蹴る。
粉塵のように雪が舞う。
ここで終わらせるわけにはいかない。終わらせたくない。
舞った雪が墓守を包み込み、それを破って墓守はさらに前へ進む。
地を蹴る音は虚ろに木霊し、脚を踏み出す音もどこかに置いて、その一歩で、墓守は辿り着いた。
まるで、さっきまであった彼我の距離もどこかに置いてかれたかのように。
ぐちゃっ。
今度こそ刹那の躊躇もなく横薙ぎに振られたシャベルは、彼の首に突き刺さる。半分凍っていたとはいえ、腐れかけていた彼の首に容易に刃が突き刺さる。その勢いのまま、彼は横に吹き飛ばされた。
「……フゥ」
サクラに目を遣ると、彼女は呆然としていたものの、外傷は見当たらず、ほっと安堵の息をつく。
すぐに吹き飛ばした彼の方向に向き直ると、シャベルを正眼に構える。
流石にこれ以上容赦はできない。元からする予定もなかったけれども、一瞬の躊躇いも己に許す気はない。
彼の首はほとんど千切れかかっていて、胸元にだらんと垂れている。潰れた顔の虚ろな瞳は何も移さないけれども、彼の体は的確にこちらに向き直る。
大抵の『生きている』死体は、頭を潰せばその行動に終わりを迎える。確かな原因など墓守には分からないが、シャベルで思いきり殴るなど、通常の人がすぐに死ぬようなことを行えば、もう一度彼らは『死ぬ』ことになるのだ。もしかすると、記憶を頼りに蠢く彼らは、その記憶から導き出される確かな己の死を認められた結果、動かなくなるのかもしれない。
でも、記憶のない今の彼に、それは通用しない。そこにあるのは、『生きて』すらいない、人の尊厳も何もかもを奪われた、動くだけの、死骸以外の何物でも無かった。
墓守は再び地を蹴る。
もう、彼に救いはない。何かを為したくて、ただ一つ残った思いを遂げたくて目覚めたはずなのに、それすら忘れてしまった彼にはもう、救われた未来などあろうはずもないのだ。
それは、ここに来た時点ですでに決まっていた。彼に悲惨な最期が待っているなんてことは。最初から。
墓守には初めから何もできやしない。いつかの年寄りのように、奇跡のような救いが訪れることも絶対にない。
もう一度彼に肉薄すると、シャベルを振るう。
それを、見えてなどいないはずなのに、彼は左の前腕で受け止める。凍った腕は容易に砕け、初めから千切れていた右腕に続いて左腕もその機能を失う。
返す力で垂れた首を完全に断とうとするが、彼の折れたかと思うほどの仰け反りで激しく首は振り回され、その刃は外してしまう。
足を踏み込むと身体ごと回して今度は足元を狙う。それを彼は躱しきれず、太腿にシャベルの刃が食い込む。しかし、太い骨に遮られ、刃は途中で止まってしまう。
これで四肢をほぼ機能停止に追い込み、彼に攻撃手段はほとんど残っていない、ようにも思えたが、死者にそのような常識が通用するはずもない。流石に切断した腕は動きだしたりしないが、深く傷ついた脚は平気で使ってくる。
きっと、それはとても痛いはずなのに。
こちらの連撃の合間に強引にねじ込まれた蹴りをまともにくらう。
墓守は別に戦闘に精通しているわけではない。センスがある訳でもない。経験も、こうして必要に迫られたときに死者たちを殺しているくらいだ。しっかり訓練した人やすべてを吹っ切って攻めてくる者たちに対して、墓守が勝つことは極めて難しいだろう。
そうして、目の前の彼は記憶が壊れているのも含めてすべてを吹っ切っている。
「うぐっ……」
鳩尾に入った蹴りは、先ほど一瞬で移動したのを見た時に予想した通りに、あるべき力よりはるかに強烈なものだった。肺が詰まり、一時的に動けなくなる。視界も霞んで、感覚もまともに働かなくなる。
それでも、シャベルはしっかりと握り、顔だけは平気な表情で相手を見つめる。
彼の顔は依然胸元で垂れ下がっているだけだったが、それでも体はこちらに向かい、墓守のことを見ているようにも思えた。
「……オォオアァオ嗚呼アァァ……」
未だ意味のない咆哮を大小さまざまな声で出し続けているその中に、
『もう……嫌だ……』
微かにそんな声が聞こえてきた。
「何が?」
思わず、墓守は問う。
『何が……?何かが……何もかも……?なんだっけ……?』
その声は非常に曖昧で、己が何を言っているのかも理解していないようで、彼の虫食いの記憶を如実に表していた。
「なにも、覚えてない?」
わかっていながらも、墓守は尋ねる。
『…………』
声は、もう何も答えなかった。きっと、それは何処に消えた、もう残っていやしないあったはずの朧げな記憶だったのだろう。二度とは戻らない、記憶の断片。それも今、虚空に消えた。
それに乗せられた想いがどんなものか、墓守には分からない。でも、その言葉を受け取ったのが己だけであることは分かっていた。彼の残せた唯一の物を、あるはずなかったそれを受け取れたのは、墓守だけだった。
だから、
「……ごめんね」
それだけ。
墓守にそれ以上何もできない。できるのは、『死んだ』後に墓を造ることくらい。
足を踏みこむ。雪が舞う。粒子が墓守を包み込む。“道”が造られる。
そして、
グシャリ。
シャベルが、彼の頭を潰して、その胸を貫いていた。
血に濡れ、ところどころ錆びつきながらも銀に輝くシャベルは、彼の頭蓋を砕き、肋骨の合間を抜け、身体を貫通していた。
不快な音と感触を味わいながら、シャベルを引き抜いて地面に差す。重りを失い、バランスを崩した彼の死体は、後ろに倒れようとして――踏鞴を踏んだ。
「え……」
それは、未だ彼が『死んで』いないという事に他ならない。死体が「踏鞴を踏む」訳がないのだ。力を失った身体がよろめいたり、それで倒れたりすることはあっても、踏みとどまろうとするわけがない。
それでもすぐに頭を回すと、シャベルを握りなおし、引き抜こうとした。
「シャベルさん……」
今度は見知った声がすぐそばから聞こえて、手を止める。見ると、墓守よりはるかに小さな手が地面に突き立てられたシャベルに添えられている。
それを振り切って、墓守は再度引き抜こうとするが、
「おじさんは……痛く、ないの?」
サクラの声は、目の前の彼に向けられている。
「……ォォォオオオオォァアアアァ……」
そんな彼女の声にも、彼は空気が抜けるような意味のない音を響かせるだけだった。少なくとも、サクラにはそう聞こえたはずだ。
そんな彼女の行動を、そして彼の反応を、墓守は黙って見守る。
「痛くないはず、ないもんね」
彼は答えるかのように唸り声をあげる。しかし、首も腕もない彼に、攻撃的な様子はなかった。
サクラが、彼のつぶれた顔を片手で持って、その顔を正面から見つめる。
彼女の両手は血で染まり、ただれた肉が付着する。それらを全く意に介さず、サクラは彼の瞳に、瞳があったところに目を合わせた。
無言で見つめ、ただにっこりと微笑んだ。
* * *
彼の家族は、今どき、どこにでもいる家族だった。
彼の人生も、平凡なものだった。
その後にできた家族も、小さな幸福とともに、普通だった。
それまでは。
戦争に出向き、強引に近い徴兵に多少気に食わないこともあったが、それが国のため、家族のためと信じ、文字通り命を賭して戦った。
みんな死んだ。
戦友も、幼馴染も、そこまで親しくはない知り合いも。
今ではほんの一部の者しか知らないような、ブラックボックスに塗れた機械に、無情に、無慈悲に、殺されていった。
その戦争は、人対人ではなく、人対機械ですらなく、機械対機械の戦いの中に場違いなヒトというどうでもいい異物が紛れ込んでいただけのことだった。
彼がその戦争で生き残ったのは、ただただ運がよかったから、それに尽きる。一歩間違えればどこでも死んでいただろう。
銃弾が飛び交い、隣で人が爆散し、瓦礫に埋もれ、幾人もの人が死に、誰もに見捨てられ、大敗を喫して何とか帰ってきた故郷でも、彼は地獄を見た。
やっとの思いでたどり着いた、幾度も郷愁を起こしたそこにはもう、何もなかった。
あるのは、戦場と同じ瓦礫と、漂う鉄の臭いと、拭い去れない死臭だった。
違いがあるとすれば、そこがそのようになることを誰も予想していなかったことだろうか。もしくは、ほんの少しの抵抗すらできずに死に絶えていったことだろうか。
何も変わりはしない。
皆殺しにあったことに、何ら変わりはないのだから。
守れると信じた家族が、一人残らず死んだことは、彼にとって紛れもない事実なのだから。
その慟哭に意味は無かった。無為に大空に呑み込まれただけ。
いや、意味ならあったかもしれない。
彼の声はそこにいなかったものを引き寄せた。すでに指令を遂げ、どこかへ散ったソレを呼び寄せた。
例えその声がなかったとしても、何らかの手段でやってきたことであろう。その姿はもちろん、体温や生活音、彼がそこにいるだけでその痕跡はいたるところにある。それらを伝って近い未来に辿り着いたことは確実だった。尤も、彼の慟哭は、その未来を格段に近づけた。
がしゃ、がしゃ、がしゃ、がしゃ。
無慈悲な音が鳴り響く。巨体に見合わないくらいの静音だが、彼の慟哭だけが響くその場では、その音はとても際立っていた。
気が付くと、目の前には四足歩行のメタリックな機械。戦場で幾度も見たその姿は、何度見ても恐怖を拭えるものではなかった。
あっという間もなく、熱線により彼の頭蓋を割られ、その余波で身体は焼け爛れた。
悲鳴を上げる間もなかった。
そしてきがつくと、みえてもいないのに、めのまえにはナニカ。
なにかが、おぼえていない。
ぜつぼうして、あきらめて、そんなかんじ、しなくもない?
なんだっけ。
しょうげきが。
あたまに、うえに。そくとうに、ふるえが。くうきの、
こえ。
だれの。なにか、あれ。
いつのまにか、だれ、すぐめのまえ、
はんてん。しかい、よくみえない。
また、ナニカ。えたいのしれない。
うごかない、うで、あし、うごく、だす。まえに、
おしだす、つもり、ナニカが、
なにが、あった、のか、っけ。
むね、しょうげき、イタイ。いたい。あたま、あたま?
どこに。
あれ、これ、あれ、なんだ?
イタイ、いたい……痛い。
痛い。
身体も、心も、魂も。
目の前には、見知らぬ、よく知っている、小さな少女。笑顔を、浮かべてる。
痛い、痛い、痛い、痛い。
けれど。
『最後に見れて、よかった』
これは、誰の記憶にも、彼自身の記憶にすら残らなかった、記憶の断片だ。
* * *
彼は、『死んだ』
頭を潰されて、胸を貫かれても『死ななかった』彼は、彼女の胸の中で息絶えた。
墓守の頭の中には疑問符ばかりが浮かんでくる。
彼女には、彼の『声』が聞こえていた。もちろん最期の言葉も。
墓守に彼の過去は分からない。それは彼が抱き、その手からほとんど零れ落ち、結局誰にも残せなかったものだ。赤の他人どころか、死後に出会っただけの墓守には到底知りようがない。
顔のつぶれた彼の最期、どのような表情を浮かべていたかなど、それはただの想像でしかない。でも、最期の言葉を聞いた墓守には、その顔を想像することができてしまった。
きっと、笑っていたのだろう。
決して幸せそうな笑みではない。どこか泣き出しそうな、悔いのあるような、けれど、満足げな、そんな笑みを、彼女は想像してしまっていた。
サクラは、彼の血に塗れたままで、呆然と立ち尽くしている。しかしその瞳は決して虚ろを見ているわけではなく、彼の顔をしっかりと見つめていた。
そんな彼に対し、墓守は手を合わせた。それ以上何をすべきか、分からなかったからだ。
サクラには彼に見覚えがあるのだろうか。もしかすると知り合いだったりしたのだろうか。
いや、墓守にそんなことは関係ないはずだ。彼女がすべきことはそんなことではない。
「……サクラ」
シャベルを抜こうとするが、未だサクラの手が添えられたままだ。無理に引き抜いて怪我させてしまうのは本意ではない。
「ねえ、シャベルさん、聞いてくれる?」
サクラが唐突に話し始めた。視線はいまだ彼から離れないままだ。
「うん」
墓守は頷く。話したいことがあるなら、話せばいい。それを止める権利は、少なくとも墓守にはない。
「……まあ、なんでもいいけど」
サクラはそう前置きをする。彼女の様子は、いつもの能天気な笑顔を浮かべる彼女ではなく、表情に陰りがある。未だ十数しか生きていないだろう幼い彼女は、一体何を経験してきて、その顔をするのか。
「わたしの周りで、何度も何人も、人が死んだんだ。きっとそれは特別でもなんでもない、普通のことなんだろうけど」
今どき、人の死などそう珍しいものでもない、運が良ければ身の回りの人が死なないことくらいあるかもしれない。しかし、親しい誰かが死ぬ、もしくは既に死んでいる、それが普通になってしまっているのだ。そんな“普通”の中で、彼女がそんな顔を浮かべられるのはきっと、優しいからだ。
「この人は、誰かはわからなかったけれど、きっと、お母さんやお父さん、子どもなんかも居たりして、そんな人たちと別れることになったんだよね」
もしくは、もうみんな死んでいて、彼はこれからそのみんなに出会うかも、なんてらしくもないことを墓守は考えたが、それは胸の内に秘める。
「シャベルさんは、そんな人たちのために、お墓を造ってあげてるの?」
「…………」
その問いに、墓守は容易に答えられない。自分でもわかりやしない。嘘でもいいから、肯定すべきなのだろうか。そもそも、墓守は何のために墓を造り続けているのか。全ては自己満足。では、墓を造ることで己の何が満足されるのであろうか。
答えに詰まってしまった。だから代わりに、墓守はシャベルを持ってそのまま立ち去ることにした。
いつの間にか、サクラは手を放していた。
シャベルを持ちあげる気にもなれなくて、引きずって跡をつけながら洞穴までの短い帰路を辿る。
「ねえ、待ってよ!」
『ゴミ捨て場』に、大きな声が響いた。その言葉は、いつかの「待ってよ」より真剣で
どこか切迫していて、墓守は振り返ってしまう。
そこには、そっと死体を地面に置いて、真っ直ぐにこちらを見つめる彼女の姿。
「死んだ人ってみんなみんな、どこか悔しそうに、悲しそうに死んでいくんだ。でも、わたしの友達が言ってたんだよ」
そう言って、サクラは手で口元を覆う。中でちょっと手をもにょもにょと動かした後、それが取り払われたとき、墓守は目を見開いた。
「泣いたり怒ったりしてもいい、でも最後は、笑って終わったほうがいいって。だから、わたしも、少なくともわたしの目の前では、心から笑って終わってほしい」
彼女は、笑っていた。今朝までの、無垢な笑顔で、心から。
「だから……わたしにも、手伝わせて、シャベルさん?」
でも、なぜかそれが、墓守にはどことなく儚げな笑顔に見えた。