目の前の世界
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ふんふん、「絶景360度大パノラマ!」ねえ。あっちゃこっちゃのガイドブックを広げて、今度は山に登る計画でも立てているのかい? きれいな景色をじっくり眺める機会、意識しないとなかなか持てないしねえ。画面疲れの目にはありがたいことかもしれない。
けれど、残念ながらこの360度の景色、すべてを目に収めるには顔を動かさないといけない。人間が一方向を見つめている時の視界は せいぜい180度ちょいくらいなのだとか。
見えていること、見えていないこと。いずれもそれぞれに、安心と恐怖をもたらしてくれるものだ。その「視界」について、不思議な話を仕入れたんだけど、聞いてみないか?
むかしむかし、少し大きい町に、奇妙な格好をした男女二人組が訪れた。
二人とも身にまとう服は麻の合わせだが、頭に被っているのは、すだれがついた冠。いわゆる冕冠と呼ばれるものだったという。
日本では天皇がつけるものであったが、その意匠はどちらかといえば、大陸の皇帝が身に着けるそれに近い。
この格好だけでも「身の程を知らず、だいぶ見栄を張ったものだ」と、嘲笑の的になるには十分。しかし、彼らがそのすだれにつけていたものを見ると、更に異様さが増す。
銅銭。この日本で使われている通貨が、すだれに通されて、歩くたびにじゃらんじゃらんと、音を立てながら揺れている。
眼前のすだれを構成する十二本の旒のうちの八本、その一本一本に、およそ十数枚の銭が吊るされていた。他の旒には抜身の小刀や、替えのわらじといった品が垂らされている。
これらで、彼らの顔はほとんど隠されてしまっていた。二人は頭をしきりに左右へ振り、すだれにつけたものたちを鳴らしながら進んでいく。いくつかの出店の前で足を止めると、訛りのない口調で品を注文し、旒から銅銭をむしるように外して、支払いを済ませていった。
二人の奇行はそれだけではない。誰かとすれ違いそうになるたび、足を止めてその人のことをじっと見つめるんだ。
通行人たちは気味悪く思い、自然と彼らから距離を取ったという。そうやって避ける人にさえも、彼らは視線を送っているようだった。
やがて二人の足は宿へ。その間も道々で見かける人のみならず、家屋の二階から姿を覗かせる者にも、顔を向けていたとか。
宿の主人も、彼らが店を訪れる頃には、すでに他の皆から話を聞いている。男が宿の帳簿に名前を書いている時、女の方は微動だにせず、主人のことを見つめていた。
たまりかねて、主人はできる限り自然な風を装い、口を開く。
「ここは人の集まる場所。かような刃物を抜身で垂らされては、危のうございます。なにとぞ、おしまいくださるよう、お願いしたいのですが」
その言葉に、男はそばの女とわずかに顔を見合わせた後で、こう答えたそうだ。
「申し訳ありませんが、その言葉は承服しかねます。この旒に下げるものは、いずれも旅に必要なものばかり。なくすわけには参りませぬ」
「それならば、せめて何かに包み、持ち歩かれては? 恐れながら、あなた方のそのお姿に、皆様方も困惑しておられます」
宿の主人は思い切って、これまで誰もが控えていた二人の格好についての言及をしたが、彼らはうなずかない。
「いや、こうして常に目に入れるからこそ意味があるのです。わずかにでも目を逸らせば、次の瞬間にはそれが消え失せているかもしれない。それが怖い。
見えていないということは、我らにとって存在していないのと同じ。私たちは失いたくないのです。どうぞご了承のほどを……」
彼らは何度も頭を下げ、根負けした主人は話を切り、部屋へと案内していく。だが、そのやり取りの一部始終を、聞いていた者がいた。
帳場の奥、戸一枚を隔てた向こう側で、台帳整理をしていた青年だ。少年と思われるほど小柄な彼だが、この宿に十年近く勤める古参のひとり。
彼もまた、あの二人が訪れる前に、その行いについては聞き知っていた。ゆえに、顔を合わせず済ませるため、あえてここを動かなかったんだ。
あの話しぶりからして、奴らが部屋に留まるとは思えない。きっと宿の中をうろつくだろう。想像すると、身震いしてきた。
――絶対、あいつらに見られたくない。
そう決意した彼は、彼らのすだれの音を聞くたび、仕事の最中であっても、さりげなく別の部屋へ移動し、逃げる。
宿は、そこへ勤める者しか入れない場所も多い。だが、彼らはそこでもお構いなしに、顔を覗かせてきたようだ。
咎められるとその場は引き下がるが、時間を置いてまた入り込もうとしてくる。たとえそれが、一度入った場所でもだ。
やがて彼は、倉庫から物を取ってきてほしいという、使い走りを頼まれてしまう。倉庫内は戸がひとつしかなく、後は明かり採り用の小窓だけと、袋小路になっている場所だ。
とっとと済ませようと、急ぎ足で向かう彼。頼まれたものは一番奥にあり、ようやく探り当てたところで、ふと耳が音を捕える。
じゃらんじゃらん、じゃらんじゃらん……。
今まで聞いては逃げ続けていた、あのすだれの音だ。どんどん近づいてくる。
自分がいる奥まった位置から入り口の戸へ飛びつき、施錠にかかっても、間に合うとは思えない。
とっさに彼が、自分が手に取ったものの置かれていた棚の下へ身体をねじ込み、目の前を箱で蓋したのと、倉庫の扉が開くのはほぼ同時だった。金属の触れ合う音は、ひときわ大きく響き渡る。
足音からして、どうやら自分がいる方とは反対側の隅へ歩いていくようだが、安心できない。置いてあるものを、どかし出す気配がしたからだ。同じことをこちらへ来た時にもされたら、たちまち見つかってしまうだろう。
慌ただしさを感じる雑音は、次第に大きさを増してくるが、そこへ「ここには入らないでください」という声と、別の足音が続く。どうやら宿に勤める誰かが通りかかり、注意したようだ。ほどなく、あの「じゃらんじゃらん」が遠ざかって行く。
「助かった」と胸をなでおろす彼。さっさとここを出ようと、目の前の箱を押しやろうとしたが。
伸ばした手が空を切り、身体は前へつんのめった。箱が唐突に消え失せてしまったんだ。
はからずも、うつ伏せになってしまった彼は、棚の下から這い出そうとするも、頭上から「がたん」と音がした。ひと呼吸遅れて、彼の無防備な背中へ重みが殺到する。
棚が壊れたんだ、と察した。大人数人分に及ぶ重さに骨が痛み、腹が押され、思わずえずいてしまう。かろうじて悲鳴を殺す彼だったが、どうにか振り返ったところ、目を疑った。
そこには、自分の背中と倉庫の壁以外、「何もなかった」。棚とそこへ乗っていた物が、きれいさっぱり消え去っていたんだ。
幻とは思えない。自分の痛みは、はっきりと残っている。何とか出口へ這いずっていく彼はふと、あの男の言葉を思い出した。
「わずかにでも目を逸らせば、次の瞬間にはそれが消え失せているかもしれない」
「見えていないということは、我らにとって存在していないのと同じ」
――まさか、彼らに目を向けられなかったから、消えたのでは……。
さっと横を見やる。自分が隠れていた場所の向かいにあった棚が、やはりすっかり姿を消していた。
対して、入ってきた奴がいじっていたと思われる、倉庫のもう一方の棚たちは、しっかり存在している。
これが奴の目に映った結果というわけだろう。ならば、その視線を避け続けた自分は……。
どうにか扉へたどり着いた。背骨の痛みをこらえて立ち上がり、彼は引き戸を開ける。
のっぺりとした土気色の壁が、目前に広がった。自分は確かにここから入ってきて、いつもなら、宿の廊下へ通じる道が伸びているはずなのに。
拳を打ち付けるが、びくともしない。声を張り上げ、夢中で助けを呼ぶ彼。
ほどなく、あの「じゃらんじゃらん」という音が、壁の向こうから近づいてきた。あの時は嫌悪の象徴だったが、今は一縷の希望。彼はますます声量を増して、外からの音を呼び続けた。
不意に、目の前の壁から手が突き出て、自分の腕をがしりと掴んだ。そのまま強烈な力で引っ張られ、全身が壁に押し付けられる。
それも束の間。ずぼりと壁の中へ潜り込んだ全身は、ほんの少しの暗闇を経て、見慣れた宿の廊下へ転がることに。
「危ない危ない。見落としていた人がいたとはね」
男の声がし、ぱっと腕を解放される。倉庫の戸は開け放たれたままで、あの土壁はもう影も形もない。
こちらを見下ろすのは、あの冕冠を被った客。直に、銅銭や小刀をすだれから下げているのを見たが、彼がそれ以上に驚いたのは、真下からかろうじて見えた顔面部分。
そこには本来あるべき位置以外にも、いくつものまなこが埋まっていて、光を放っていたという。
「間に合って良かった。君を捉えることができたよ。だが、一度巻き込まれた以上、また同じことが起こるとまずい。かといって、私たちもそばにはいられないからな。
代わりに、これを持っていてくれ」
彼は懐に手を入れると、手のひらに収まる大きさの水晶玉を取り出した。
「お守りだ。こいつを持っていれば、二度とあのような目に遭うことはない。だが逆に、これを少しでも離すことがあれば、いつでもあの状況に陥る恐れがあることを、覚悟しておいてくれ」
彼が水晶玉を受け取ると、かの客はまた銅銭たちを揺らしつつ、部屋へ戻っていってしまったそうだ。
翌日。奇妙な二人組は宿を出発したが、あの倉庫の消えた中身は戻ってこなかった。最後に入ったのが彼だったこともあり、きつい叱責を受ける。
彼は男に言われた通り、かの水晶玉を生涯、肌身離さず持ち続けたという。この秘密を知り、実際に見せてもらったのは家族と一部の友人だけだったが、彼を埋葬する段になって、遺族が彼の懐を改めたところ、出てきたのは水晶玉ではなかった。
それは白く濁りながらも、ところどころに赤い血管を走らせる、大きな目の玉だったんだ。