父というひと1
悟られない程度に実話です。
気分次第で追加します。
世間からすれば薄情で身勝手で親不孝です。
それでも、私は私なのです。
父が亡くなって久しいので、この気持ちを忘れないように、私の為に書いています。
気分を害したと感じた場合は、直ちに読むのをやめて、忘れて下さい。
父が死んだ。
私が今の職について3年目の春の事だ。
春といっても暦のはなしばかりか、私の故郷では、これからが本格的に寒くなる頃。
そして、我が家では"父の誕生日が近付くと悪天になり、当日は雪になる"、そんなジンクスを笑い話にしていたからよく覚えている。
知らせは昼を回ったあたりで、母からの一報だった。
母は優しく、憂いの混じった声で淡々としていた。
その時の私は、一時間ほど離れた県隣の職場にいて、取り敢えず忌引きを使い、帰路についた。
誰かが聞くと薄情に思えるだろうが、車の中で感じたのは"悲しみ"ではなく、その日はやっぱり寒く、ジンクスが当たる馬鹿馬鹿しさだった。
家につくと、奥にあるベッドの上で、朝となにも変わらない姿で寝ている父が居た。違うところは、ベッドの淵を叩く耳障りな金属音が聞こえない事と、大病から陶磁器のような父の白い顔から、ついに色をなくした位だった。
私が記憶にある最初の父は笑顔だった。
幼稚園の頃。父兄参加のイベントだろうか。
父の頭には、紙で出来たワニを貼り付けた被り物があった。
私は既に覚えていないのだが、基本的に子供好きであった父は、このようなイベントでもよく参加していたらしい。
私の知る限り、父は私を愛していたと思う。
しかし、愛とは表現の仕方次第で、自己陶酔の過程へと堕落していまうのも真理だと私は思う。
私が父の事を話すと、どうしても悪口になってしまう。
はっきり言って、私は父を軽蔑する位に嫌いで、今もそれは変わらない。が、同時に不憫な人でもあった。
父は目と耳が悪く、難病を2つ患っていた。
難聴はそれこそ、テレビの音量が40や50でも聴こえているか怪しい事がある程で、事ある毎に、すれ違いも多かった。
目は超が付くほど近眼で、安物の眼鏡なぞ掛けようものなら、漫画のように瓶底よりも太かったのを覚えている。
そして、私が小学校へ入学する日に、大腸の病気で入院した。
病気は現在でも難病に指定されいて、入退院を繰り返し、食事の度に栄養剤を不味そうに啜っていた。
極めつけに、亡くなる原因となったのも病気であり、各所情報によれば、非常に苦しい難病の一つらしかった。
この病が発覚して僅か2年で生涯を終えることになったのだが、奇しくも、とうとう私が口を利かなくなったその年の発病であった。
余談になるが、子供の頃、これらの事を母に尋ねたことがある。
すると、工場務めをしていたから、大きな音を聞いていたり、暗い所での作業が原因らしいと言い、父方の祖母は、機械への非破壊検査による所謂放射線のせいだと言っていた。
私は子供の頃から父が大嫌いだった。
家中のトラブルの発端には必ず父が居た。
父は酒やタバコ、ギャンブルや借金等、凡そトラブルになりそうな要因には、軒並み縁がなかった。
だが、強いてあげるならば"間の悪さ"が天下一品なのだ。
父にとっては、最良最善最高の妙案が、研ぎ澄まされた間の悪さで瞬く間に最悪な空間を作り上げる。
「せっかく」
この一言は魔法だった。
そして、この魔法に掛かるのは"母"だった。