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魔女の娘

作者: 葉山郁

 昔、昔、あるところ。神様の時代が今よりもう一歩ほど近かった頃。

 南と東の真中の端に、一つの国があり、そこに一人の王子がいた。王子は聡明で勇敢で気立てが優しく公平だった。だから国民にも城の召使いにも一人残らず好かれていた。

 けれどそんな優れた王子には一つ、おかしな癖があった。王宮が誇る中庭の見事な薔薇園にいる、一匹の白蛇をこの世のなによりも慈しみ可愛がっていたことだ。

 白蛇はその当時、どこの国でもとても不吉なものと言われていた。死を招くのだとか、その這った後の地面を腐らせるのだとか、魔女の手下であるのだとか、とかく白蛇は悪い噂、不吉の象徴としての逸話はことかかなかった。

 それでも王子は白蛇を可愛がった。何年か昔のとある日に、王子が薔薇園で昼寝をしていた時、その白蛇はいつの間にかその胸に乗っていて、やがて目覚めた王子が目を見開き、恐れもなく自分の胸にのる白蛇に気付いた。不思議そうに自分を見つめるその黒い瞳にあったときから、蛇と王子は不思議な絆で結ばれていた。

 鋭い茨の棘によって、ほとんどの動物が賢明にも近寄らないその場所に、白蛇は不思議なことにするりと入り込み、待ち受けていた王子の差し出した手にちろちろと赤い舌を伸ばして答える。

 そのような場に居合わせると、決まってお付きの者達は顔をしかめて

「どうしてそんな白蛇を可愛がるのですか」

 と尋ねると、王子はうっとりと腕に巻きついた白蛇を見つめ

「この黒い瞳を見れば分かるさ。この子ほど誠実な瞳の持ち主はいまい」

 その言葉を聞くと白蛇はいつも嬉しげに王子の手元に頭をなすりつけ、王子も愛しげにかわいい蛇の白銀の身体を撫でた。

 この奇怪な光景に、それでなくともとかく噂は広まりやすいもの。綺麗に咲き誇る薔薇園で、毎日不吉な白蛇と顔をつき合わせて楽しげに会話する王子の話が耳に届き、父王は渋い顔をして強く息子を叱ったが、誠実で父親思いの王子も朝露に濡れる薔薇園の素晴らしい朝に、あの可愛い白蛇に会うことだけはやめなかった。

 王子はやがて白蛇に名前をつけた。ビアンカという可憐な名だった。言って聞かせると、小さな白蛇は大層嬉しげに、何度も首を振りその名を受け入れた。王子と白蛇の仲はますます深く親密なものになるばかりだった。

 そんな平穏はしかしその国の中でだけだった。徐々に王子の国を取り巻く空気は不安定になり、ある日突然一方的な決裂の文と共に、遠き大地の果てにある大国が大軍をもってして王子の国へと攻めこんできた。王子は将として兵を率いて戦いに赴くことになった。

 出陣の朝に王子が一目ビアンカに会いに行こうと中庭の薔薇園に出て行くと、その日ばかりはなぜか愛しい白蛇は王子が呼んでもなかなかでてこなかった。

 王子の胸に失望が宿ったとき、手前の茨の下からするするとあの王子の白蛇が這い出てきた。ビロードのような白銀の身体はあちこちが傷つき汚れて無残な姿になり、けれど凛と頭をあげたその口に白蛇は一輪の薔薇をくわえていた。

「お前! それはどうしたのだ?」

 驚いて王子が尋ねると、白蛇は王子の足元に加えてきた薔薇をそっとおいて頭をもたげその、王子が惹かれた黒い黒いつぶらな瞳でじっと見上げた。

 王子は屈んで薔薇を手に取った。まだつぼみだったが、その薔薇は花弁の瑞々しい艶やかさ、染まる乙女の頬のようにほのかでこの上もない淡く清楚な色合い、ぴんと張った枝から伸びる蕾の俯き加減は儚く気品に溢れて、咲き誇る幾万の薔薇の中でもっとも際立った美しさだった。

「私にくれるのかい?」

 尋ねると、白蛇はじっと見上げた。王子は受けとり、ありがとうと言って蛇にキスをした。

 蕾は不思議な力を持っていた。いつまでも枯れることもさりとてそれ以上咲くこともなくただ生き生きとして、戦の場でも片時も離さずに胸に挿していた王子に危険が迫ると萎れ、危険が去るとまたいつものように美しく頭をもたげた。

 そのおかげで王子は大国を相手に一歩も怯むことなく勝ち抜いて、果てはついに勝利の凱旋を決めるにいたった。父王も国民も大層喜んで若き英雄となった王子を迎えたが、全てを知っていた王子は何よりもまず先にバラ園にいくと、喜び勇んで茂みから出てきた白蛇を抱きしめ、私の愛しいビアンカ、と言った。



 やがて敗北をきした大国から一人の美しい王女が宮殿にやってきた。この王女を王子の妻として嫁がせて、二つの国を結びつかせ共に栄えようと使者は告げた。それを聞いた王子は青ざめた。

 大国の王女の美しさは評判で、実際に垣間見た姿は艶やかな石楠花のように大層なものだったが、王子はその王女が先の戦いで、兵達に正気をなくさせる恐ろしい薬を飲ませ、心身をぼろぼろにさせ戦わせていたのを知っていた。自らの意志で、自国の兵も王子の国の兵をもけしかけ、無残な末路へと向かわせた恐ろしい女であることを知っていた。

 けれどその婚姻をはねつけるわけにはいかなかった。それは王子も分かっていた。いくら勝利を決めてもまた新たに戦を始める財はもう国にはなかった。王子は悲嘆にくれて中庭へと向かった。三度ほど名前を呼ぶとあの不思議な白蛇のビアンカが出てきた。

 王子は悲しげに白蛇に事の次第を説明し、絶望に暮れて話しをしていると目の前の白蛇が、彼がビアンカと名づけた白蛇がどれだけ自分にとって愛すべき深く大切な場所にいることに気づいて更に悲しくなり、見上げてくる黒い瞳をじっとのぞきこんで思わず口に出した。

「お前が魔法にかけられた姫君だったら良かったのに」

 するとそれを聞くとビアンカは悲しげな目をして、薔薇の茂みへと去っていった。その日は後でいくら王子が呼んでも姿を見せなかった。

 次期王の許婚として堂々と気高く城へとやってきた王女は、不思議な力を持ってして、城下の人々や城に仕える人々、果ては王子が敬愛する父王までもどんどんとその魔の手に捕らえて意のままに操っていった。

 けれど王女は唯一、薔薇園にだけは近付けなかった。一歩を足を踏み入れた途端に、王女の身体に寒気が走って頭ががんがんと鐘が響くように痛んだ。

 ゆえにいつもそれ以上踏み込むことができずに逃げ出してしまい、王女はひどくこの薔薇園を憎み、冷たく虚ろな目をする変わり果ててしまった父王にかかりきりになる王子の隙をついて、ある日庭師をそそのかせて夜のうちにこの薔薇園をすっかり焼き払ってしまった。

 深い疲れと悲しみの中でぐっすりと眠りこけ、目覚めて醜く焼け炭となった薔薇園を目にした時、戦で屈強な敵を相手に一歩も怯むことなく戦った勇敢な王子は、真っ青になって今にも倒れてしまいそうに見えた。

 けれどなんとか持ち直し、全てがすすけて黒い無残な焼け跡に足を踏み入れて、ただひたすらに彼の愛しい白蛇の名を泣き叫び彷徨った。

 いつもうっとりするような甘い香りが匂いたち、その花弁にのる鮮やかな色彩で極上の夢を広げていた、バラ園の有様はひどいものだった。

 くねくねと絡み合い伸びた蔓は今や消し炭の塊と化して、わずかに焼け残った蔓もぷっつりと黒く焼ききれて地面に倒れ、根は生きながら焼かれることを心底苦しみ必死に助けを求めたのだというように、大地から地面に飛び出てその先を空に伸ばしていた。

 可憐で繊細な薔薇などすでに影も形もなく、その薔薇よりも愛しい王子の白蛇の姿はどこにもなかった。

 探しに探し這いずり回ってその過程が持たらした絶望故に、心破れて彼がそこに崩れ落ちたとき、そこを王女と今では彼女の取り巻きのようになった家臣達の一団が現れた。

 豪奢な服も白いかんばせも全てを煤で汚して黒ずみ、街中の煙突掃除夫のような姿になった王子を指差して、王女は高らかに笑った。

「そうまであの卑しい蛇が愛しいなら、あなたのために蛇穴を作り、そこに放り投げてさしあげますよ」

 その言葉に座り込んだ王子の瞳にカッと力が入り、彼は突如跳ね上がるように身を起こして立ち上がり様、腰の剣を抜き払い荒々しい疾風となって王女に剣を突き出した。これにはさすがの王女も血の気をなくしたが、彼女がこの国に張ったまがまがしい結界の力が彼女を守り、鈍い音と共に王子の剣は半ばでぷっつりと折れた。

 その一拍後に王女の傍にいた家臣が後ろからいっせいに王子に飛び掛り、自らの主君を地につき倒した。傷つけるわけにはいかない者達に拘束されながらも、挫かれることなく王子はぎらぎらした目で王女を睨みつけ

「薄汚い魔女め。いくらお前が穢れた血でこの国を支配し、私の全てを奪っても魂までは汚されはしない。この魂もこの心もお前に渡すものか! さあ殺せ、呪われし魔女の娘っ!」

 地に伏した王子を王女は嘲笑うかと思われた。けれど王女はひどく狼狽したように顔を横にそらし、拘束する家臣達に地下牢へと連れていけとだけ命じた。罪人のように引きずられていきながらも王子は殺せと喚いたが、王女は横を向いたままだった。

 その日から王子は牢屋で暮らすこととなった。誰も入ることのなくなった彼の部屋には花瓶が一つあり、そこにいけられたあの薔薇のつぼみがひっそりと頭を垂れていた。



 さて、絶望に閉ざされてしまった王宮、その頃王子が愛した白蛇ビアンカはどうなったろう。

 幸いなことに、ビアンカは自分の身に迫る危険に火が回りきる前に気付き、王女の張った禍々しい結界のわずかな隙間を見つけ出し、その小さく細い身体で抜け出して間一髪のところを恐ろしき王女の魔の手から逃れていた。

 前にも言った通り、その当時の白蛇はとても不吉なものとされていたから、人の目に触れたが最後、ビアンカは呪いの言葉と石を投げつけられていつも慌ててその場から逃げ出さなければならない、惨めで辛い目に遭っていた。

 そのような目に遭いながらもなんとかビアンカは、王女の力がもう及ばない国境の外までくると、道の真中で止まり頭をもたげてきしゃーきしゃーと数度蛇の声を出して、やがてその後に人の声で呼んだ。

「お母様、お母様、どうぞ私の前に姿を現しになってください」

 すると目の前に一人の長いローブをまとい、ぴんと張った背が凛々しい、美しい顔をした女が現れた。女は若く見えたが、その灰色の瞳に、太古の森林が紡ぐものと同等の深き叡智を宿した魔女だった。

「久しぶりだね、我が娘」

 張りのあるきびきびとした声をしていたが、魔女の呼びかけは優しかった。白蛇は魔女に向かい

「今こそ私の過ちを詫びます。お母さまのソロモンの指輪に触れたことを、どうか許してください」

「よろしい。今こそ許そう。我が娘よ。私の元へと帰っておいで」

 白蛇は頭を持たれて、けれどやがて毅然として

「いいえお母さま。私はもうお母様の元には戻らず一生蛇のままで過ごします」

 その言葉に魔女はしばらく返事をせずにやがて身をかがめて

「何の咎もないのに忌み嫌われ、人に石をぶつけられる、暗く惨めな蛇の生をあえて生きようと?」

「はい。ですからお母様。私を戻すために使うお母様のお力を、どうかこの国の王子を助けるために使って欲しいのです」

 魔女は白蛇をじっと見下ろした。黒い瞳の中に強い新たな力が煌めいていた。

「迂闊にも気付かなかった。お前はもう私の娘ではないのだね。あの王子に、名を与えられたのだろう」

 蛇は慎ましい態度の中に少しだけ嬉しげな色を含ませて答えた。

「はい、ビアンカと」

 すると魔女はため息を吐き出し

「馬鹿な子だ。お前は魔女の娘だ。王子をたとえ取り戻しても、お前は王子と結ばれることはできないよ」

 小さな白蛇ビアンカはじっと頭を俯かせてやがて静かに答えた。

「結ばれたいがために、王子を助けたいとは思いません。愛しているから、王子を助けたいのです」

「ならば見知らぬビアンカ、私の力を頼るでないよ。お前を元の姿には戻さない。その蛇のまま、あの王女の国へとお行き。あの王女の力の基は自国の宮殿の深い地下空洞に立つ神殿の祭壇の果て、金の噴水に住む星型を背中につけたカエルだ。それを砕けば王女の力は失せて王宮は解き放たれる」

「ありがとうございます、お母様」

「魔女に礼を言うものではないよ。そんなことも忘れてしまったのだね。見知らぬビアンカ。お前はもう私の娘ではない」

 そう言って魔女は消えた。白蛇のビアンカは遥か遠い大国に向かって進みだした。それは長く辛い旅だったが、道のりの四分の一を行った頃、街道を進むビアンカに激しい南風が吹き付けてきた。ビアンカが思わず地に身体を伏せると、南風はビアンカに気付き

「そこを行くのは、善き魔女の娘。母上に私は大層世話になった。魔女の娘よ、どこへ行くのか?」

「私はもう魔女の娘ではありません。一人のビアンカ。魔法の力ではなく想いの力を持って王子を助けに参ります」

「ああ、それならば用はない。白蛇ビアンカ、初めは南。お前の行くのは苦しみの道。それでもお前の幸運を祈ろう。」

 南風は去っていった。白蛇のビアンカは遥か遠い大国に向かって進みだした。それは長く辛い旅だったが、道のりの四分のニを行った頃、街道を進むビアンカに激しい東風が吹き付けてきた。ビアンカが思わず地に身体を伏せると、東風はビアンカに気付き

「そこを行くのは、善き魔女の娘。母上に私は大層世話になった。魔女の娘よ、どこへ行くのか?」

「私はもう魔女の娘ではありません。一人のビアンカ。魔法の力ではなく想いの力を持って王子を助けに参ります」

「ああ、それならば引き止めぬ。一人のビアンカ、お次は東。お前の行くのは悲しみの道。それでもお前の幸運を祈ろう。」

 東風は去っていった。白蛇のビアンカは遥か遠い大国に向かって進みだした。それは長く辛い旅だったが道のりの四分の三を行った頃、街道を進むビアンカに激しい西風が吹き付けてきた。ビアンカが思わず地に身体を伏せると、西風はビアンカに気付き

「そこを行くのは、善き魔女の娘。母上に私は大層世話になった。魔女の娘よ、どこへ行くのか?」

「私はもう魔女の娘ではありません。一人のビアンカ。魔法の力ではなく想いの力を持って王子を助けに参ります」

「ああ、それならば止まりはしない。人の子ビアンカ、三つ目は西へ。お前の行くのは光なき道。それでもお前の幸運を祈ろう。」

 西風は去っていった。白蛇のビアンカは隣国に向かって進みだした。長く長く続き果て無き労苦を小さな白蛇の上にもたらした旅時は、ようやくに目的地に着こうとしていた。道のりの最後を進む頃、街道を進むビアンカに激しい北風が吹き付けてきた。ビアンカが思わず地に身体を伏せると、北風はビアンカに気付き

「そこを行くのは、善き魔女の娘。母上に私は大層世話になった。魔女の娘よ、どこへ行くのか?」

「私はもう魔女の娘ではありません。一人のビアンカ。魔法の力ではなく想いの力を持って王子を助けに参ります」

「ああ、それならば行け振り向かず。神の子ビアンカ、最後は北へ。お前が行くのは果てなき道。進むお前の幸運を祈ろう。」

 北風は去っていった。白蛇のビアンカはやっとその姿を見せ始めた大国に向かって真っ直ぐに進んでいった。

 やがてついに小さな白蛇は王女の自国へとやってきた。大国は平和な王子の国とは違い、様々な新しい建物新しい品々が揃えられてあったが、営みを広げる人々の顔は王子の国で最も不幸な者のそれよりも更に暗かった。

 誰の顔にも暗雲がたちこめ、黙々と自らの仕事を沈痛な表情でこなすさまはまるで見えぬ鞭を容赦なく振るわれる奴隷だった。人々はネズミよりも臆病で、亀よりも鈍かった。

 行き交う人々、仕事をこなす人々、彼らは動くたびに歩くたびに深く重いため息を漏らして、膨大なそれがもやもやと固まり全ての通りに晴れることない闇が鎮座しているようだった。中には風に舞う綿毛のように軽快に歩いている者もいたが、全て決まってその瞳の焦点はあっていなかった。白蛇の黒い瞳には、彼ら一人一人の後ろに巨大な影がのしかかるようにしてゆらゆらと広がっているのが見えた。

 干物のように痩せた子どもが一人駆けてきて、ビアンカの姿を見て声をあげた。それを聞きつけてそれまで暗く塞いでいた多くの人間がビアンカの姿を一目見るなり、やりかけの仕事も手にもった荷物も全てをなげうって追ってきた。

 彼らの瞳が爛々と輝いて曲げた指で掴みかかろう両手を前に突き出すその様は、墓から蘇った死人戻りの行進のように禍々しく恐ろしく、彼らは石や罵声を浴びせるのとは違いビアンカに捕獲の手を伸ばした。

 どんな屈強な男でも一変で血の気が引く幽鬼の集団に追われて逃げ込み角を曲がったその先で、突然視界に何かが通り過ぎ竹篭が空から降ってきてビアンカは捕まってしまった。

 そのまま布で覆われて光刺さぬ籠に移されて、軽い振動と共にどこかに連れて行かされた。籠の中でビアンカは頭を垂れてじっと動かずにただ深い深い悲嘆にくれた。哀れな囚われのビアンカには見えていなかったが、連れて行かれた場所は皮肉なことに彼女が目指した王宮だった。

 さて何故ビアンカはとらわれて王宮に連れていかれたか。それにはこんなわけがあった。王宮では白蛇を生け捕りにして持ってくるように命が出されていて、それは法よりも強く根深く人々の心を縛っていたのだ。囚われた蛇達は、王子の国に続々と運ばれてあの王女の手元へと向かわされて行ったのだ。王女が新しくおつくりになられる薬にどうしても大量の白蛇の生き血がいるのだと。

 籠の外から兵士達がそう陰鬱に話しているのを聞いたビアンカは蒼白になった。そして彼女は心を決めた。

 王宮の中のある倉庫で、ビアンカが今まで入っていたその籠から、他の白蛇がたくさん閉じ込められている別の大きな籠に移されるとき、決死の覚悟と共に隙を突いてビアンカは逃げ出した。追ってくる城の兵士達の手から、細い隙間に蛇の身体を持って入り込み、なんとかビアンカは逃げ切ることができた。

 自由を取り戻し、奇異なことに思ってもみなかった事の運びで城へと潜入できたビアンカは、街中もまた暗く奇妙な状態だったが、王宮は更に異様な空気に包まれていることに気付いた。

 蛇の目から見ても王宮は暗く陰鬱の気が漂い、そこにいる人々の有様はもっとひどかった。誰の顔もこけてぎょろぎょろと動く目玉が飛び出て、両腕を垂らしてよく首を回して歩いた。

 操られた骸骨のように彼らはいつも何かを探しているのに、何を探しているのか誰にも分からないように、そして見つけられぬように夜になっても彷徨い続けることをやめなかった。

 ビアンカは石畳の隙間に身を隠して見つからぬように王宮に潜み、そして来る日も来る日も、その奥にあるという神殿と祭壇を探したが、それはどこに行っても見つからなかった。

 ビアンカはくたびれ果てて、ある日ふとしたことで巨大な通路に出てしまった。誰かがやってくれば身を隠す場所がないことに気づいて青ざめた矢先に、向こうからかつかつと誰かがやってくる足音がして、慌ててどこかに身を隠そうと動転したビアンカはそこにわずかな隙間を開けていた扉に飛び込んだ。

 その扉の中には通路よりも更に巨大な部屋があり、だっと長く赤い絹の絨毯が伸びる先には床から何段も高い王座がこしらえられていて、そこに金の冠を被った王が深く腰掛けて俯き微動だにしなかった。

 調度といい造りといい、ここが王の謁見室であることに間違いはなかった。しかし、その豪勢なつくりの部屋は氷のように冷たく薄暗く暗雲が立ち込めているように湿っぽく、ここに置かれた全てのものはどれも立派だったが蒼白い影の色をしていて、玉座に腰掛けた王もまたその風景に同化していた。

 不気味なその部屋の中でわずかでも輝きを放つものは、地を這うビアンカの白い身体のみという有様だった。

 おそるおそる白蛇のビアンカは王座に近付いていったが、背後で先ほどの足音がこちらに続いて近付く音を耳にして飛び上がり、とっさに王座を駆け上るとその後ろへと身を隠した。

 玉座に腰掛け俯いた王は、床を白く輝く蛇が素早く這って寄ってきても、やはりその身体は先ほどと同じく微動だにしなかった。

 入ってきたのは豪奢な服を着てその右胸に金の階級章をつけた大臣だった。街中を軽快に歩く者達と同じ焦点のあっていない瞳をしていた。

「王様、蛇を送られた姫様が礼と、そして新たな蛇をもっと多く送るようにと書かれた書状をお送りになられてきました」

 大臣の声は大きく響いたが、王は何の返事もせずまた身動きもしなかった。

 何も写すことはない瞳の大臣はなんの疑問もなく退出し、ぱたりと扉が閉ざされてまたこの陰気な部屋の世界が封印されると、ビアンカは豪奢な飾り細工がされた玉座をのぼり、王を間近でよく見た。

 王は死んでいた。

 玉座に腰掛けていたのは、とうに果てて朽ちた肌が黒ずみからからに乾いた哀れな王の骸だった。今、この幽鬼の国を支配しているのは、全ての人々の背後に恐ろしい影を潜ませているのは、遠国にいるあの王女なのだ。王の遺体の状態を見れば、あの突然の戦も王女が仕組んだことに間違いはなかった。

 その事実にビアンカはぞっとして地面に降りると、そこでふと金でできた重たげな王座と床の間に小さな隙間があることに気付いた。

 隙間はぽっかりと開き奥まで続く穴のようで王座の下に隠し通路があることが分かった。白蛇の力で玉座を動かすことは無理だったが、そのわずかな隙間から中に忍び込むことはできた。

 ビアンカが中へと身を滑らせると、そこは暗い地下へと続く果てしない階段になっていた。ビアンカは身体をくねらせて一段一段、そこを降りて行った。

 降りて降りて降りて、世界の底まで来てしまったのではないかと思った先、ようやく階段は終わりになり、四角い冷たい通路が現れた。

 深い地下の道筋に光は一片も差さなかったが、自らの身体から漏れる白い光がほんのわずかに辺りを照らし、ビアンカはそれで道を見通して進んで行った。通路もまた長く、進んで進んで進んで、世界の果てまで来てしまったのではないか、と思った先、ようやくビアンカは十字路についた。

 道は四つに分かれていたが、南風の言葉を思い出してビアンカは迷わず南へと進み、やがてまた十字路につきあたった。東風の言葉を思い出してビアンカは迷わず東へと進み、やがてまた十字路につきあたった。西風の言葉を思い出してビアンカは迷わず西へと進み、そして最後の十字路で北へと進んだ。

 また道は一本の四角い通路になったが、そうしばらくいかぬうちに暗い通路は行き止まりにつきあたった。

 いや、初めは行き止まりと思ったそれは行き止まりではなく、堅固な扉だった。ビアンカは躊躇い、そして扉のつなぎ目をよくよく見てみたが、扉はぎっちりと通路に食い込んで蛇の身体を持ってしても通り抜けられるような隙間はなかった。

 やがてビアンカは少し扉から身を離し問いかけた。

「扉よ、どうして私を通さない?」

 問いかけると扉は深い沈黙の後に扉の言葉で答えた。

「我が主が何人相手にも我が身を開くなと言ったからだ」

「この道を進んで私は神殿に行き、神殿の中の噴水のほとりにいる王女の力の源を壊さねばならない。私を通してください」

「お前を通した瞬間に我は一つ生きる意義を失い、そして一つ生きる意義を得る。それが扉だ。」

「けれど開かぬ扉は扉ではなくただの壁に成り果てる。あなたは扉という私の呼びかけに答えたから、扉でなくてはならない」

 扉はもう何も言わずに我が身を開かせて、白蛇を通してくれた。

 扉の先にあった四角い通路を進んでいくと、地下であるのにびゅうびゅうと強い風が吹きあれる大きな広間に出た。

 その天井は地下のものとは思えないほど高く遠く、耳を澄ませば風の音に混じってどこか高い鍾乳洞の先から水が滴り落ちて地を打つ音がした。そこは自然が作り出した大洞窟であるようだった。

 その端にひっそりと見逃してしまいそうな程にこじんまりとした石造りの神殿があった。けれど不思議なことにその神殿はどの神も祭ってはいなかった。

 これこそ捜し求めてきた場所に違いないと確信して、ビアンカは神殿の扉の下の隙間から中に入りよくよく目を凝らすと、何も祭られることはない神なき神殿の祭壇の奥に、黒い水を噴き上げるぴかぴかの金でできた噴水を見つけた。

 震え飛び跳ねる心を抑えてビアンカが寄っていくと果たして噴水の淵に、カエルはいた。背中に白い五芒星があるカエルの目は、虹色で鮮やかに光ったが生き物のそれではなく、その皮膚の下には血の代わりに銀が流れているらしく、カエルは一定の周期が来るとその身体から銀色の光を放出して、噴水の淵にたまった黒い水をぱあっと映し出していた。

 ビアンカはよく狙いを定めてさっとそのカエルに飛びかかり、逃れられないよう身体を巻きつけて渾身の力をこめると、目が焼けるような銀の光と共にぱあんと澄んだ音を立ててカエルは粉々に砕け散り、黒い水を噴き上げる噴水は止まった。

 そしてそれを見届けると、有害な水銀の光を浴びたビアンカも、そこで全ての力を失いぐったりと頭を垂れて動かなくなった。

 さてその頃、囚われの王子の王国はどうなっていたか。

 焼けるような王子の憎しみの目に見据えられて、邪悪な王女の胸には火がついてしまった。

 歪んだ恋心は激しい欲望の炎となり、それは渡さぬと言いきった王子の魂と心を欲して高らかに叫んだ。欲望の熱に浮かされて王女は躍起になっていた。

 まずは王子を牢屋から出して豪奢な部屋へと移し、優しく甘い言葉をかけてみたが、もはやとりつくしまもなく王子からは罵声と侮蔑だけが返った。

 ならばと思い王女は、あなたのどのような望みも叶え、望むならばあなたを全世界の王にしよう、と男の野心をくすぐるように持ちかけると、王子は強く言い放った。

「私の望みはお前の滅びだけだ、魔女の娘め」

「私の魔女の娘ではありません」

「嘘をつくな。お前が魔女の娘でないと言うならば、お前の魂は人の中でもっとも穢れ生きながらにして地獄に近い位置にある。そんな魂はない」

 皮肉なことにはねつけられればはねつけられるほど、王女は王子を欲しくなる一方だった。だから、王女はその態度に一度も怒りをみせずにただただ優しく穏やかに王子に何度も話しかけた。

「私を愛せば全てがあなたの元に戻ってくるのに」

「お前を愛せば私の全てが終わりだ」

 ふと王女は聖女のように甘い声を出した。

「あなたのお心は憎しみばかり。そのように醜いものにまみれて疲れきっている。愛したいとは、思いませぬか? その時こそがあなたの魂がすくわれるとき。憎しみを捨て、大いなる愛を抱きたいとは思いませんか?」

 王子はふと横を向き、目を閉じた。

「憎しみではない。私の心はいつも。」そこで瞳を開いて王子は窓枠に置かれた花瓶に活けられた可憐な薔薇のつぼみを見た。彼の白蛇がくれた薔薇だった。「いつも黒い瞳のビアンカへの愛がある」

 その言葉を聞いた瞬間、それまでの穏やかさは崩壊し、突然に王女は真っ青になり絹の布を引き裂くような激しいかなきり声で

「あの白蛇を! あんな白蛇を私より愛しいと思うのですかっ!」

 王子は素知らぬ顔で横を向いたまま

「形ではない。その内に含むものが愛しい。お前とは全くの正反対に。ビアンカの黒い瞳に映る光が愛しい」

「あんな白蛇を愛すると? 気がお狂いになられたのですか? 我が王子。あの蛇の瞳ですと? 厭らしい獲物をとることにしか関心がない冷たき蛇の目が愛しいと!?」

「黙れ。ビアンカの瞳が星ならば、お前の瞳は消し炭だ」

 切り裂くような一言に王女はさすがにくっと息を呑み一歩下がり、けれど次の瞬間、けたたましく笑い出した。

「何がおかしい」

「王子、あなたに真実を教えてさしあげます。あなたのあの白蛇はまだ生きておりますわ。」

 その言葉に王子の顔色が変わった。王女の言う言葉を迂闊に信じてはならぬと心に戒めながらも、絶望の中でその希望はあまりに彼の心を引いた。長い沈黙の末に王子は掠れた声を出した。

「本当か?」

「本当ですとも! あの薔薇園を焼き払ったときに、あの白蛇は逃げたのですよ。まあ、あれしきの炎で殺される身ではないので当然かもしれませんけれど」

 明らかに何かを含ませた王女の言葉に、王子は顔をしかめて

「何が言いたい」

 そこで王女は高らかに笑い出した。

「あなたは言いましたね、星だと。あの蛇の瞳が星だと! あの白蛇の瞳がそんなものであるものですか。王子、あなたは私を幾度となく不当に魔女の娘と蔑んだけれど、あの白蛇こそが魔女の娘!」

「戯言を抜かすなっ!」

「戯言なものですか! あれは魔女の娘。その昔、もっともに力を持つ魔女の娘でありながら、母親のソロモンの指輪に手を出してその逆鱗に触れ白蛇にされてしまった愚かで醜い娘。ほらまだお疑いになるならば神々に誓ってもよろしいですよ。あの白蛇は魔女の娘! あなたが嫌う魔女の娘! 神々よ、この言葉に偽りがあるならば我が身に裁きを下せ!」

 そこで部屋は静まった。神々の鉄槌はなかった。少なくとも今言ったことだけは王女の言は正しかった。王子の顔は蒼白になった。勝ち誇って王女はその前で微笑んだ。

「かわいそうな王子。あなたはあの魔女の娘に囚われていたのですよ。それを私が救い出し、邪悪が蔓延るバラ園を焼き払ってあげたのに、あなたはまだあの憎く汚らわしい魔女の娘に囚われているのですね。でもご安心なさって。私の愛であなたを正気に戻してさしあげます」

 美しき王女はそこに立ち尽くしたまま放心する王子を強く抱きしめて、軽やかに去っていった。王子はやがてがくりと膝をつき、愛しい白蛇の名を呼ぼうとした。

 けれど呼べなかった。



 王女は勝利が近いことを確信し、自らの部屋へと引き戻った。その部屋には召使いは誰一人として入ることはできず、一片の光も差し込まぬように窓という窓には厚く黒いカーテンがかけられて、蝶番や窓枠の隙間には漆喰が埋め込まれて完全に光の侵入を阻んでいた。

 部屋の隅には人の子どもほどの大きさがある巨大な瓶がおいてあり、そこに切り取られた蛇の頭がごろごろと縁まで寄せて山積みになっていた。白蛇の大量の生き血は相手の意思や心までを恐ろしい力で縛り縫いとめる強烈な恋呪になったのだ。

 王女はそこに歩みより、本国から送られてきたまだ生きた蛇が入った篭に手を入れて無造作にその一匹をつかみあげると、震える蛇の頭を左手で掴み右手で胴体を抑えてぐっとちぎりとり、頭を失ってもまだぶるんぶるんと肉片を散らばしながら動く細長い身体から滴る黒い血を鍋へと注いだ。恐ろしい薬の完成は間近だった。

 それを見下ろして美しき王女は壮絶な笑顔で

「あの白蛇が送られてくればいいのに。魔女カースティアの娘。その血ならもっとこの薬を強力にしてくれる」

 呟きを漏らしたその瞬間だった。光差し込まぬ部屋に突如火花がとび散った。空を切り裂く雷光のように激しいそれと共に黒髪の女がその部屋に現れた。

 火花が消えた後、いつの間にかそこに毅然とした姿勢で立っていた女は冷たい眼差しで王女を見据え

「ついに私の名を呼んだね、人の王女」

 思いもよらぬ登場に、さすがに王女は躊躇ったように後ずさり「カースティア」と小さく呼んだ。

「今までお前の張った結界に難儀したよ。けれど油断したね。私の名を口に出せばそれが結界の中だろうと、地の果てだろうと、私が行けぬ場所はない」

 低く言い放つ魔女に、王女はやがて狼狽を消しさり、頭のない蛇の胴体を掴んだまま笑った。

「それで勝ったつもりなの? 愚かな魔女。お前は私を見つけることが出来たからと言って、この結界の中でお前は私の髪一筋も傷つけることはできないのに。どんな魔術書にもその名が載る伝説の大魔女も耄碌したものね。それとも元から魔女なんてこんなものなのかしら。つまらないわ。場違いな道化師、もはやお前達の時代ではないのよ」

「そうだろうね。お前のような人間が出てくるならば、もう魔女は徐々に消えていくだろう。それが必然だ」

「ならばお消え! 一足早く。娘は後からお前の元に――」

 その時だった。勝ち誇り猛々しく笑う王女に異変が起こった。美しい顔が突然に恐ろしく醜く歪み、ヒキガエルのような声を出してその場に崩れ落ちた。

 目の前の魔女は床に膝を突いた王女を冷たく見据え

「お前は魔女としても三流だよ。力をあんな場所に隠しておくなんてね」

「お前っ……まさかっ!!」

 地響のような低く轟く恐ろしい唸り声にカースティアは薄い笑いを返した。

「ビアンカがやったね」

 カースティアが言ったとおりだった。その時こそ孤独で長い旅を続けていた白蛇のビアンカが、暗く深い地下道の末に見つけ出した金の噴水のカエルを砕いた瞬間だったのだ。

 それを悟った王女は恐ろしい形相で

「お前の娘がっ!」

「私の娘ではない。お前は人だから、それに対して人になり人としてビアンカはやり遂げた。お前の力を、お前の結界を砕いたのは魔女の娘ではない。ビアンカだ。」

 感慨深げに呟く魔女のその先で床に膝をついた王女は、きしゃあ! と人ならざる声をあげて立ち上がり、躍り上がって魔女に爪を伸ばした。

「おのれっ!! 醜き魔女めっ!!」

 迎え撃つカースティアは冷たい顔で指をくわりと広げた掌を、飛びかかる王女へと突きつけた。

「この世にはびこるどんな魔女より、お前の方が万倍は醜い」

 その手から断罪の雷光が溢れて目の前の王女へと伸び、今度こそ邪魔な結界に阻まれはせずにその姿を余すことなく覆い尽くした。王女は迫る圧倒的な光にその輪郭をもかき消されて、髪一筋残さずに焼き尽くされた。

 王女が消滅したその部屋で、一仕事を終えた魔女カースティアは軽く腕を振り宮殿の一番高い塔の鐘を鳴らすと、高らかなその鐘の音にまだ王女の力が抜けきっていなかった城の全ての人間が我に返った。

 彼らの目に触れる前にカースティアは姿を消し、独りで戦い抜いた、大国の暗く深い場所に立つ神殿の奥にいる娘の傍に一瞬で移動した。

 白蛇は噴水のほとりでぐったりと身体を地に投げていた。辺りはぴしぴしと亀裂が入り、神殿は広大な地下洞窟は元々あの王女の力で支えられていたのか、いまその術を失って崩れ去ろうとしていた。

「お前のおかげで王国も王子も救われたよ。よくやった」

 蛇はゆっくりと頭をあげ、目を見開いて弱々しくこちらを見た。

「もう、いいだろう。共に帰ろう。我が娘よ」

 魔女は大切そうな手つきでぐったりと動かない蛇を抱き、そして崩れ落ちる神殿からその姿を消した。



 王国には平和が戻ったが、王宮は悲しみに沈んでいた。王女の恐ろしい力に最後まで抗い続けた王子が倒れたのだ。

 悲しみと苦しみで高熱を出し、その身に蝕んだ苦悩は王子を急速に衰えさせ、発見された時にはすでにどんな手の施しようもなく、やせ細ったその身体は突風の前のか細い蝋燭の灯火、明日をも知れぬ命だった。枕元に生けられた薔薇のつぼみもまた王子の最後を暗示するように、深く頭をたれて艶を失っていた。

 母の腕に抱かれた蛇は、次元の狭間からその苦悩を聞いて目を開けた。遠い魔女の故郷へと彼女を連れ去る母親に呼びかけた。

「お母様、あの人が苦しんでいる」

「耳を傾けるでないよ、我が娘。人の心配をしていられる状態ではない。お前もすぐに手当てをせねば命も危うい身だ」

「私は平気です。お母様、私はあの人に会わなければ」

「会ってはいけない。」

「だけれどお母様」

 そこで魔女は歩みを止め、腕の中で弱々しく頭をもたげる娘を見下ろした。

「いいかい、我が娘よ。確かにあの王子は今、苦しんでいる。だがそれはあの王女のせいではない。あの王子は王女の言葉でお前が魔女の娘だということを知った。それ故に苦しんでいるのだ」

 じっと黒い瞳で見つめる娘を見下ろして、魔女はどこか哀れむように 「愚かしいことだ。あの王子はお前を魔女の娘だというだけで疑い、呪い、それでもまだ愛するが故に苦しんでいる。自ら苦しみの泉に飛び込んだのだよ。初めに言ったろう。お前は王子と結ばれることはないと。なんと愚かだろう。なんと心弱いのだろう。お前を愛しているのに、お前はこんなにも一途に王子のために動いたのに、お前が魔女の娘というそれだけで全てを無に帰する気なのだ」

「その愚かさを、弱さを、許します」

「おやめ、我が娘。人はそのような生き物なのだよ。いくら年月がたっても、いくら望みを繋ぎ待っても、その本質を変えることができない生き物なのだよ。あの王女を見たろう? あれは魔女などではなかった。あれは人だ。それでも人はきっとあの王女を魔女と呼ぶだろう。そう伝えていくだろう。あの王子もあれを魔女と呼んだ。王子はお前を愛している。だから許すかもしれない。けれど他の人間はそうもいかない。お前がビアンカに戻っても、お前には魔女の血が流れている。蛇のお前をやがて誰かが殺すか、それとも狂った王として王子ごと排除するか。待つのは悲劇だけだ」

「長く留まることを望みません。あの人が苦しみから戻れば、私は去ります」

「その時にはもう遅い。私の元には戻れない。王子の元を去って一人、蛇のままに一生を孤独の底で過ごす。分かっているはずだ、我が娘」

 一息ついてそれから魔女は強く言い放った。

「お前は見ていただろう? お前がもっともに知っているだろう? 人から全てが生まれるのだ。悪も憎しみも悲しみも苦しみも絶望も」

「善も、慈しみも、喜びも、希望も、――愛も」

 光に満ちたものを続けて、黒い瞳で白蛇はじっと魔女を見上げた。そして初めて自らのことを語るために口を開いた。

「昔、私はお母様のソロモンの指輪に手を伸ばしました。知りたくあったからです、世に溢れたさまざまな想いたちを。人が多くのものを生み出していくその源。私にとっては鮮烈で眩い、けれどいくら手を伸ばしても届かぬ虹のように、そんな想い達をひとつとして知らぬ持たぬ私はただ知りたかった。だから全ての知恵が宿るソロモンの指輪の誘惑に耐えられなかった。その結果、お母様は私を蛇にして人の世界に送り込みました。指輪なくしても全てを知ることができました」

「たとえ我が娘でも、戒律を破れば罰をくださねばならない。お前は一つ不幸をした。」

「お母様にはお詫びを言います。でも後悔はしていません。あの指輪に触れようとしたことで、今の私があるならば」

 瞳が全てを語っていた。魔女はため息を吐き、次元の真中できびすを返した。

 城の一室で王子は今まさに息絶えようとしていた。騒然となる一室で、魔女は誰に見咎められることもなく宙に立ってその様子を見ていた。

 王子の様子を一目見て白蛇は真っ青になった。王子はうなされる合間に力なく唇が動いてその名を紡いだ。魔女は腕の中の我が子を見た。

「お前は行くのかい? 本当に」

「はい」

「辛い、別れだよ」

「身を裂くほどに私も辛いです。けれど、あの人が死ぬならば私の心が砕け散る」

「ならばどちらにしろ、私はお前を失うというわけか」

 白い蛇が魔女の腕からするりと抜けていった。その痛みに魔女はひとつため息を吐き出して、片手を突き出し、それからその部屋に居合わせた全ての者の耳に届くように告げた。

「鐘を鳴らしておくれ、葬送の鐘だ。高らかに。我が娘が今、死んだ。そして生まれる、人の子として。鐘を鳴らしておくれ。娘を亡くした私のために。鳴らしておくれ、生まれる娘の祝福のために」

 その手からほとばしった光が去りいく蛇へと追いすがり、あの王女と同じように蛇の輪郭を消し去る閃光がその小さな姿を包んだ。光の中で娘を蝕む痛みを偉大な母は自らの身に全て移し変えて拭いとった。

 光の中で起きた奇跡はそれだけではなかった。光と共に蛇の皮がするりと脱げて、そこから二本の小さな足が突き出された。蛇と同じ輝かんばかりに白い肌をした少女は夢中で駆けて王子の枕元へとたどり着くと、必死にその首を強くかき抱いた。

「しっかりなさってください。すべての暗雲は晴れて、空にはこんなにも幸福が広がっているのに、あなたの雲だけが晴れない」

 王子は一瞬誰だかわからないような顔をして、その見つめる黒い瞳を見返した。そしてすべてを了解して微笑んだ。

「君がいないからだよ。君がいなかったから、すべてが晴れなかった」

 蛇の娘は王子を見つめて悲しげに言った。

「私は魔法にかけられた王女ではなかった。魔女の血が流れています」

「私も全ての良き王子にはなれなかった。君を疑った。強くなれなくて」

 二人はじっと見つめあい、それから手をとりあった。

「それでも、一緒にいて欲しい。私のビアンカ。愛しいビアンカ」

「あなたがその名で私を呼ぶかぎり、私はあなたのそばにいます」

 城の中の、王国の中の、鐘という鐘は全て高らかに鳴り響いた。その気高い響きの中で、枕元にいけられたあの薔薇のつぼみはゆっくりと頭をもたげ美しい大輪の花びらを広げた。

 そして全ては幕を下ろし、その国で白蛇は幸運の証となった。




<魔女の娘>完




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― 新着の感想 ―
[良い点] 凄く好きです! 会話のテンポとか言い回しなどに引き込まれてしまい、読んで行くうちに白蛇と王子の絆に切なくなってしまいました。 映画を観たような読後感で最後は本当に良かったです! [気になる…
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