人魚
夏休みのノリで書きました。
駄文の羅列ですが、よかったらどうぞ!
そびえたつ高いビルが霞んだ青い空を塞いでいる。クラクションがビルの合間を縫って遠く聞こえる。
真夏のギラギラとした太陽が灰色の街を焼き、熱された空気に目眩がした。
風は熱く淀んでいて、街を行く人々は皆一様に焦って疲れているように見えた。
それを僕は開け放った窓からぼんやりと見ていた。
「…もう、夏だね」
不意に弱々しく掠れた声が聞こえて僕は振り返った。
振り返った先にはベッドに横たわる小柄な少女、美海がいた。美海は目を細めて燻んだ青い空と強烈な熱と光を放つ太陽を見つめていた。
美海はどんなに手を尽くしても現在の医療では治らない病気を患っていた。
そのせいで起き上がることすらできず、彼女はぼんやりと空を眺めるしかできない。その姿が僕には今にも消えてしまいそうなほど儚く見えた。
彼女は気怠げにほっそりとした白い腕を動かして、不規則に上下する胸の上の桜色の貝殻のペンダントを指先で弄った。
「そうだな」
僕は辛うじて命の泡を割らずに保ち続けている彼女からそっと視線を外した。
僕と美海のいる病室は小さなサイドテーブルと一つのベッドがあるだけの真っ白で殺風景な部屋だった。その病室の隅にはたくさんの機材が置いてあって、美海が生きている音を一定のリズムを刻んでいた。
白く味気ないサイドテーブルには、一枚の紙切れが入った小瓶とひとつの写真立てが置いてある。そこには海をバックにした今よりも幼い僕と美海の写真が飾られていた。写真の中の僕と海は手を繋いでいて、仲良くピースをして笑っている。写真の中の美海は日焼けでほっぺたを真っ赤にして、僕もからすのように真っ黒になって、弾けるように笑っていた。
「もうすぐ私、海に帰れるかな?」
美海は真っ青な空を見上げたまま、僕に尋ねた。青白い顔に鎮座している黒曜石のような瞳がキラキラと星を閉じ込めたかのように輝いている。
「いいや、あと数十年はかかると思うぞ」
僕は心から、僕の願いを口にした。
海に帰る。
それは美海の口癖のようなものだ。
発端は、僕らは小さい頃、一回だけこの息苦しい真っ白な部屋から抜け出して海に行ったことだった。
僕らは初めての海にはしゃいだ。その日の美海は、病人とは思えないほど元気だった。
どこまでも青い海と空に抱かれて、白い砂浜を走り回った。
寄せるさざ波をふたりで跳ね散らかした。飛び散る水飛沫はキラキラと輝いて小さな太陽のように眩しかった。
拾った桜色の貝殻に紐を通してペンダントを作って美海に渡した。すると彼女はその貝殻のように頬を桃色に染めて笑った。
海と空がひとつになっている場所を指差して、いつかあの向こう側に一緒に行こうと約束した。きっと煌めく海の向こうには天国のような場所があるのだと信じていた。
その時の写真が、写真立てに飾られているものだ。
美海はその日から、ときどきうわ言のように言うようになった。
海に行きたい、海の向こうに帰りたい、と。
それが僕には美海が僕の届かない遠い場所に行きたいと言っているように聞こえて恐ろしかった。
だから、僕はいつも決まって言う。
「もう少しここにいてくれ」
すると美海は小さく笑い声を漏らした。それに合わせるように、あの時の貝殻のペンダントもゆらゆらと揺れた。
「翔ちゃんは…、翔ちゃんはいつもそう言うね」
それは消え入ってしまいそうなほど弱々しい声だった。
「当たり前だろう。なんで一人で行こうとするんだ」
僕を待っていてくれても良いじゃないか。
口から出かけたその言葉は、声にする前に溶けて消えた。
「……翔ちゃん。…昔さ、一緒に海と空がひとつになった場所に…一緒に行こうって約束したよね」
美海は懐かしむように目を細めた。
さらりと黒く細い髪が揺れた。
「ああ」
僕は大きく頷いた。
今でもはっきりと覚えている。
美海がいつか僕を置いて遠くに行ってしまう気がして、約束した。美海がひとりでどこか僕の手の届かない場所に行ってしまわないように。
だけど、それが意味を成さなかったことに今さら気づく。
「…ごめんね」
美海は泣き笑いのような表情を浮かべた。
それが合図だったかのように、一定のリズムを刻んでいた機械音が乱れた。
「美海⁈」
僕は彼女の名前を呼んだ。それは叫び声に近かった。
機械音が壊れたように早くなっていく。
彼女は胸元で揺れる桜色の貝殻を握りしめた。
「待ってくれ!もう少しここにいてくれ!」
華奢な肩を掴み揺さぶる僕に、彼女は囁くように言った。
「小瓶の手紙……後で読んで」
「わかった。読むから、行くな!帰らないでくれ!」
必死で叫ぶ僕などおかまいなしに、彼女は呟いた。その声は、この無機質な部屋にいやに響いた。
「海に、帰して……」
美海は、満足したように頬を緩めた。
黒曜石の瞳が、瞼に隠されていく。
「美海!」
僕は彼女の手を握った。しっとりとした、氷よりも冷たく、紅葉のように小さな手だった。
美海は最期の最期に、今まで見たこともないくらい穏やかに微笑って、囁いた。
「翔…ちゃん、また、ね」
それはよくよく耳をすまさなければ聞こえないほど小さい声だった。
けれども、とても幸せそうな声だった。
その瞬間に、僕は理解した。
「ああ…。またな」
僕は彼女の手を強く強く握りしめた。
生命の通わないその手は、さっきよりも冷たく、小さく感じた。
涙が一筋、頬を流れた。
それは彼女の好きな海の味がした。
それから僕は、美海のお葬式の次の日に彼女の貝殻のペンダントと小瓶だけを持って、彼女と一度だけ遊びに来たあの海に行った。
そこは相変わらず、青と白が真夏の陽光を受けてキラキラと輝いていた。
空は何よりも青く、空を映した海はどこまでも煌めいて見えた。
僕は波が寄せる浅瀬に佇み、遠い水平線を見つめた。
あの向こう側に、彼女は今から帰るのだ。
僕は持ってきた桜色の貝殻から紐を外して、彼女からの手紙が入った小瓶に入れた。貝殻はカランと澄んだ音を立てて小瓶に入った。
そして寄せる波にそっとその小瓶を流した。
小瓶は、波に乗って海と空が重なるところへと振り返ることなく進んでいく。
波の音が心地よく耳を擽る。
結局、僕は小瓶の中の彼女からの手紙を読まなかった。その代わり、僕からの手紙を入れておいた。美海が海の向こうで読んでくれることを信じて。
小瓶は海の彼方へ向かい、空に消えた。
また一粒、涙が溢れた。
「またな」
呟いたその声はだれにも届くことなく、海に吸い込まれていった。
ありがとうございました!