変化
森での野盗退治の一件があってから数日が過ぎたが、ベルタの態度は相変わらず頑ななままだった。
だが、全く変化が無い訳でも無かった。
カルの力を借りなければならなかった事に不甲斐なさを感じたのか――
朝早くに起き出し、自らの部屋を掃除した後は――
食事の合間は、常に自らを鍛える為の鍛錬に充てられていた。
(……こうする事も、あの男の思惑通りでは無いのだろうか……)
カルが闘技師であり、闘技者にする為にベルタを買ったという事は紛れもない事実。
こうして鍛錬を積み戦闘力を高める事は、カルの利益になる事。
それが分かっていても、首領を倒せなかった事への悔しさが、カルに向けられる感情に勝ってしまう。
空が茜色に染まる時間まで鍛練を続け、汗を流す為に浴室に向かう。
通いのメイドたちによって綺麗に掃除された浴室。
最初は、カルの施しを受けているようで、風呂には入らず行水だけで済ませていたが――
最近では、風呂に入り汗を流すようになっていた。
(以前では考えられなかった事だ……)
ふとベルタの脳裏を過る屈辱の日々。
愛玩物として、ある貴族に買われた以前の事を思い出すと――
「ぐっ……!」
ギリリッと今でも強く歯ぎしりをしてしまう。
(それに比べれば今は……)
何かを強制させられた事は、今日まで一度たりとも無かった。
(私は……これからどうすれば良いのだ……)
このまま鍛練を続けるだけで良いのだろうか?
そんな考えが脳裏を過る。
(いや、良い筈は無い……自由の無い奴隷である事に変わりはないのだから……)
ベルタが求めているのは、誰にも束縛されない自由。
お湯につかって体をほぐしながら、ベルタはボンヤリと考え続ける。
(このままでは駄目になる……だが……どうすれば……)
自由を得られるのか。
その答えをベルタは見出せずにいた。
空に星が瞬く時間。
夕食が終わり、後片付けを済ませたメイドたちが帰って行く。
そうなれば、屋敷にはカルとベルタしか居なくなる。
「ベルタ、そろそろ闘技者として活動してもらいたいのだがな」
夕食後、話があると言う事で呼び止められたベルタ。
以前であれば、カルの言う事を無視していたベルタだったが――
カルの世話になっているという負い目もあるのだろう。
リビングの壁に背をもたれさせながら、カルの話が始まるのを大人しく待っていた。
「私は……闘技者になるとは一度も言っていない」
冷たく突き放すような口調で言い切ったベルタだったが――
僅かばかりの戸惑いの色が声には滲んでいる。
「その気になるのを待っていたんだが……」
「生憎貴様の思う通りにはならなかったようだな」
「そうか……」
「で? どうするつもりだ? 娼婦として働かせるのか?」
問いかけたベルタの声には、底冷えするような冷たさが込められていた。
「実際のところを言えば、お前を買った値段では娼婦にしたところで割があわん」
「そうか……」
返事を聞いたベルタが、今少しだけ安堵したかのように表情を和らげる。
「だが、このまま無為に日を過ごしても仕方がない。どうだ? 一つ賭けをしないか?」
「賭け、だと……?」
「そうだ。俺と手合わせをしてもらおう。俺に勝てば、今すぐお前を自由にしてやる」
「何……だと?」
「だが、負ければ闘技者として、賞金を稼いでもらう。どうだ?」
「本気で言っているのか……?」
「あぁ、お前も最近は毎日鍛練をしているようだしな。少しは俺に勝てる可能性もあるかもしれないぞ?」
「ふふっ、あはははははははっ!」
カルの言葉に触発されたように、ベルタが大きな声で笑い出す。
この屋敷に来て、ベルタが笑うのは初めての事かもしれなかった。
「どうした? 何がおかしい?」
「貴様と私が勝負をする? ふふふっ、それでは賭けにもならんな」
「ほぅ、大した自信じゃないか」
「それは私の言葉だ。貴様が……私と手合わせをして勝つ? ははははははっ!」
笑いが止まらなくなったベルタの眼尻に涙が浮かぶ。
「話があるというのは、この事だったのか?」
笑いの波動を静めながら、ベルタがカルを真っ直ぐに見つめる。
「あぁ、そうだ」
「本気で言っているのだな? 良いだろう。私が勝てば、本当に解放してもらうぞ?」
「あぁ、二言はないさ。では、早速始めようか。外に出よう」
カルの真意を確かめようとするように、ベルタがスッと眼を細める。
そんなベルタの様子を気にした素振りも見せず、カルが庭に面した窓を通って外へと出る。
「何を考えている……」
ポツリと呟きながらも、ベルタもカルを追ってリビングを出た。
月明かりに照らされた二人の影が手入れの行き届いた庭に長く伸びる。
時折聞こえていた虫の音以外は音も聞こえない。
「さぁ、始めるとしようか。オーフェンハーテン!」
「んっ……!?」
カルの詠唱と共に、月明かりよりも眩しい光がベルタを包み込む。
野盗達と戦った時と同じ短刀を手にするベルタ。
続いて、そのスラリとした細身の体を防具が包み込む。
「これに……何かを仕込んでいるのではないのか?」
カルの提案に対して、未だ疑いを持つベルタが、短刀と防具を疑わしそうに見る。
「そんな事をして勝っても、お前は言う事を聞かないだろう?」
「当たり前だ」
「何も仕込みなんてしていないさ。まぁ、気になるのなら、調べてみれば良い。時間はあるからな」
カルに言われるまでもないとばかりに、ベルタが武装魔術によって身に着けた防具と手にした二本の短刀を確認していく。
そんなベルタの様子を、面白そうに見つめていたカルだったが――
「俺だけ素手で戦う訳にはいかないからな。オーフェンハーテン」
詠唱と共に、カルの手元が光ると――
鋭利な長剣が現れる。
「……何故、貴様は防具をつけない」
剣しか持たないカルを見て、ベルタが眉根を寄せる。
「俺はこれで十分だ」
「何……だと……」
ピクッと口もとを震わせたベルタが、低い声で唸る。
「死にたいのか……? 貴様を殺してしまえば、私も死んでしまう事になるのだが……」
「ははっ、そんな心配をする必要はないさ。それよりも、どうだ? 何か気になる点はあったか?」
短刀と防具を確認していたベルタに、不審な点は無いかとカルが問いかける。
「何もない……それよりも貴様も防具をつけろ」
「どうしてそんなにムキになっている? お前は勝つことが目的の筈だ。俺が防具をしていない方が、お前にとっては有利だろう?」
「私は……正々堂々と戦いたいだけだ。負けた後で、貴様にくだらない言い訳をされるのも腹立たしいからな」
自らが防具をつけた状態で、防具をつけないカルと戦う事は出来ないと――
正々堂々と戦う事をベルタが求めてくる。
「貴様が防具をしないであれば、私も必要ない。これを外せ」
「……その真っ正直さは通常なら美点にはなるんだが、闘技者としては少し考えものだな」
「私を勝手に闘技者にするな!」
「分かった分かった。だったら、お互いに防具なしで戦おう」
詠唱と共に、再びベルタの四肢を光が包み込む。
光が消えると同時に、ベルタの全身を覆っていた防具が消える。
お互いに武器だけを持った状態である事に、ベルタがひとまずは納得したように頷く。
「これで良い」
「よし、始めるか。お前が俺に勝てば、自由にしてやる。負ければ、俺の言う事を聞いてもらうぞ」
「ふんっ……戯れ言を弄した事を後悔するが良い」
切れ長の瞳がスッと細められ、ベルタが両手に短刀を握ったまま身構える。
少し腰を落とし、隙を見せれば一気に間合を詰めんとばかりに膝に力を蓄える。
「おっと……」
ベルタのスピードを殺す為に、一定の距離を保とうと、カルが僅かに後退る。
長剣を手にするカルにとっては、近距離での攻防が不利である事は間違いない。
野盗との戦いを見ていたカルは、ベルタの瞬発力を十分に把握出来ていた。
適度な距離を保ちながらベルタの出を窺っていると――
「っっっ! なめるなっ!」
ペロリと舌なめずりをしたベルタが、その瞬発力を最大に発揮するかのように、地を蹴る。
「おぉっ!?」
カルの予想を上回るスピードで、一気に間合がつめられる。
距離を保てば爆発的な瞬発力も弱まるという予想を遥かに凌駕した持続力のある速度で、一気にベルタが突っ込んできた。
「これで終わりだ!」
瞬きの中で、ベルタは驚くカルの顔を見ていた。
カルの予想を上回るスピードと瞬発力で、一気にケリをつける。
当初から描いていたベルタの作戦。
それが成功し、勝利は目前に迫っている。
自由になれる!
短刀の切っ先をカルの胸元に突き当てようとした瞬間――
「何っ!?」
勝利の笑みが浮かびかけていた唇から、驚きの声が飛び出してきた。
まるで、ベルタの行動を全て予期していたかのように、カルがスルリと横に身をずらす。
氷の上を滑るかのような滑らかな動き。
心の蔵の上に切っ先を押し当て勝利宣言をするはずだったベルタのすぐ横に立つカル。
長剣の柄が首筋へと振り落とされると――
「がっ!?」
鈍い痛みと共に、ベルタの視界は瞬時に真っ黒になった。
そのまま意識を飛ばしたベルタが、膝を屈して前のめりに倒れ込む。
「いかんいかん。力を入れ過ぎたようだな。予想の最高値のスピードだった分、少し焦ってしまったようだ」
焦ったと言いながらも、焦った素振りは微塵も無い。
余裕綽々のまま、カルが倒れ伏したベルタを見下ろす。
勝負は一瞬で決した。
自らの最大のスピードと瞬発力はカルの予想を上回っている。
その自信があったが故に、持ちうる最大のスピードと瞬発力で一気に勝負をつけるつもりだったが――
現実には、ベルタの持てる力の最大値を、カルは正確に把握していた。
たったそれだけの事が勝負の決め手となり、ベルタは地に伏し自由になりえた機会を逃してしまう。
「うっ……ぅぅううう……」
落ちていた意識がすぐに浮かび上がってくると、ベルタが呻きながら上半身を起す。
「……私は、負けたのか」
現状を受け入れられないといった感情が、呟いた声に滲んでいる。
「立てるか?」
ベルタに手を差し出すカル。
その手を見たベルタだったが、手を借りる事無く一人の力で立ち上がる。
「何故だ……何故かわす事が出来た……」
必殺の一撃。
瞬発力を爆発させたあのスピードが、かわされる筈は無い。
その自信を打ち砕かれた悔しさに顔を歪めたまま茫然と呟く。
「お前の力は、あの野盗達との戦いで、把握させてもらったからな」
「私は、あの時……全ての力を出した訳ではない。それに……あの後にも鍛練を積んできた……」
カルの前で実力を全てさらけ出した訳ではないと、ベルタが呟いてから唇を噛みしめる。
「おいおい、闘技師を舐めないでもらいたいな。俺が、今で何千人の闘技者を見てきたと思っているんだ?」
闘技者を育て上げる闘技師として――
自らが管理する闘技者を勝利に導く者として――
対戦する闘技者の情報を頭に叩き込み、戦術を練る。
無策のまま闘技者を闘技場に送り込むのは、三流以下の闘技師でしかない。
「確かに、今のスピードと瞬発力は、俺の予想の中でも最高のものだったが……それでも、結果としては予想の範囲内だ。対処する事は出来るさ」
「く……っ……! 頭で理解するだけで、戦いは出来るものではない!」
「あぁ、そうだな。当然、俺にだって武術の心得くらいはあるさ」
そう言ったカルが、ベルタに長剣を向け身構える。
隙のない身のこなし。
いつでも打って出られる万全の構えは、威圧するような闘気を立ち昇らせる。
「……私が……貴様の実力を見誤っていたという事か……」
「俺は、負ける勝負をするつもりはないからな。当然、勝てると思ったから、あの提案をしたという事さ」
構えを解くと、カルが少し意地悪く笑う。
「私は……っ……」
カルが戦うと聞いた時に笑ってしまった事への恥ずかしさか――
ベルタが視線を地に落とす。
「俺の勝ちで間違いないな?」
「そうだ……貴様の勝ちだ……私は負けた」
「よし。相手の力を認め、自らの負けを受け入れる事が出来る者は、まだまだ成長出来るさ」
悔しさを滲ませながらも、ベルタが素直に勝敗を受け入れる。
ベルタの素直な態度を見て満足気に頷いたカルが、長く艶やかなベルタの銀髪を撫でる。
「さ、触るなっ! 馬鹿者!」
髪を撫でられた事に、褐色の頬をポォッと上気させ、ベルタが手を振り払う。
「ははっ、悪い悪い。さて、と。約束は覚えているな?」
「分かっている。闘技者に……なろう。約束は守る」
「よし。では、闘技者としての心得を話しておこう。部屋に戻るぞ」
「……分かった」
カルに負けたという事実を受け入れたベルタが素直に頷く。
戦いの間は静まっていた虫の音が、再び庭園に響き始めた。