叛意
その日が来る事を、ベルタは望んでいなかったのかもしれない。
だが、時は淡々と過ぎていき――
闘技会が催される日の朝を迎えていた。
(本当に……だまし討ちをしなければならないのか……)
エルフの郷に居た時にすら感じなかった充足感。
それを与えてくれたのは、カルである事に間違いない。
肌の色と魔法が使えない事で、蔑まれ続けたエルフの郷での生活。
その生活とカルの所有物である奴隷となった今の生活を比べれば、生きているという事を実感できる日々でもあった。
(いや、だが……私の帰るべき場所は、あの郷しかない……)
今いるこの場所は、自分が居るべき場所でない。
そう自分に言い聞かせる事で、カルを騙し討ちする事への後ろめたさを打ち消そうとするベルタ。
「ベルタ、これから闘技場に行くが、お前はどうする?」
「え……?」
「クラスが上がる日も近いだろうからな。上のクラスの闘技者を見ておくのも悪く無いだろう?」
「そ、そうだな……分かった。一緒に行こう」
この日を迎えるまで、カルへの後ろめたさがある為か――
どことなくぎこちない態度になってしまっていたのを、ベルタは自覚していた。
(怪しまれる訳にはいかない……)
今更後に退く事が出来ないのは、ベルタ自身も十分に理解していた。
それゆえに、溜めていたお金を全ておろし、子供たちの為に使ってもらえるよう、教会の神父にくれぐれもよろしくと頼み込んできた。
(私が……人間に頭を下げる事になるとは……だが……)
神父もシスターも、十分に信用出来る。
以前のベルタでは想像だに出来なかった、人を信じるという気持ちを抱くに至っていた。
(それも……カルのおかげ、か……)
カルと接したこの数週間は、濃密な時間をベルタに与え、凝り固まっていた感情をゆったりと溶かしてきていた。
「そろそろ行くぞベルタ。またボーっとしていたようだが……最近、考え事が多くなってるようだな」
「え? そ、そうだろうか……?」
「あぁ、だが、色々考えるのは良い事だ。自分で考え自分で決断する。それが生きているって事だ」
「自分で考え、自分で決断する、か……」
「最近は随分と素直になっているじゃないか。以前なら、言い返してきていたのにな」
「だ、黙れ。私は別に……」
からかわれている事に恥ずかしさを覚えたかのように、ベルタが頬を染める。
「闘技場に行くのだろう? 早く行こう」
頬が熱くなっているのを誤魔化すかのようにベルタがカルを促す。
「あぁ、分かった分かった。人が多いが大丈夫だな?」
「大丈夫だ。貴様のおかげで、慣らされてしまったからな。それに……」
いつもは、大衆の前で自分が闘技舞台に立ち闘っている。
その人の多さは、言われるまでもなく十分に理解していた。
「では、行くとしよう」
歩き出すカルの背を見ながら、ベルタが後に続く。
(私は……何度もこうして、カルの後ろをついて歩いていた……)
今も無防備に背を見せるカル。
背中から切り突ければ、一撃で絶命させる事も出来るかもしれない。
(くっ……出来るのか、私に……)
カルを討つ事は決意したベルタだったが――
まだ、だまし討ちをする事への躊躇いは消えていない。
(やるしかない……やるしかないのだ……)
そう自分に言い聞かせながら、ベルタは頭の中でカルを討つ事を何度も何度も考えていた。
闘技場を揺らす歓声と罵声。
「すごいな……」
熱狂する人々を見て、唖然となったままベルタが呟く。
「闘技場の舞台から見るのとはまた違うか?」
「そうだな……あそこに居る時は冷静でいられるが……この熱狂の中にいると押し流されてしまいそうだ」
「なるほど。確かにそうかもしれんな。熱狂は伝播する。だが、賭けなければ、落ち着いてみていられるさ。それとも賭けるか?」
「馬鹿を言うな……賭け事などしない」
「はははっ、賭けで金を増やすという考え方もあるぞ? そうすれば、早く自由になれるかもな」
「そんな必要は……無い……」
「まぁ、全財産を無くす程に賭けるのは馬鹿のすることだが……見ろ、ベルタ。次の試合が、お前の一つ上のクラスの試合だ」
「そうか……」
舞台の上で戦う闘技者達に歓声と罵声が浴びせられていく。
闘いを見るカルの横顔に、ベルタが無意識のうちにチラチラと視線を送り込む。
「まだまだお前の相手では無いか?」
ベルタの視線に気づいたのか、カルが向き直り問いかける。
「そ、そうだな……刹那の祝福の力があれば……いや、それが無くても勝てる、か……」
「油断さえしなければ大丈夫だろう。もっともこのクラスも三回勝たなければ、次のクラスには上がれんがな」
「そうか……」
「上のクラスに上がるほど、闘技者の数は減ってくる。対戦相手の情報も多くなるが、相手も自分の型を持っている。型を持っている者は強いからな」
「自分の型、か……」
「ベルタ、お前はどういう戦いを望む?」
「え? それは……そうだな……正々堂々と相手を打ち負かす……」
ベルタの声が少しずつ小さくなり、やがて口ごもってしまう。
「お前らしいな……その型が自分らしいと思うのなら、それを突き詰めていけば良い。その為に、俺も協力をしよう」
手練れが多い闘技者向きでは無い型だと思った故に、ベルタが口ごもったとカルは判断したのか――
励ますようにポンポンと頭を叩き、ベルタに協力する事を告げる。
「か、髪に触るなと言っているだろう」
「あぁ、そうだったな。しかし、何故、そんなに髪にこだわるんだ?」
「それは……私の郷では、髪の長さと美しさこそが、その者の品位を示すから、だ……」
「ほぅ。だとすれば、お前は随分と品位のある立場だったという事か」
「なっ!?」
カルの言葉に、ハッとなったように顔を上げ、ベルタが頬を紅潮させる。
「い、いきなり何を言う!? 何故、私なんかが……」
「ん? 違うのか? 長くて綺麗な髪だとは思うがな」
「っっっ! 私のような混血のエルフの髪よりも……純潔のエルフの方が、遥かに綺麗な髪を持っている」
「そうなのか? エルフは、お前以外にも見た事はあるが……そうは思わなかったがな」
「だ、黙れっ! と、とにかく気安く触るな!」
「悪かった悪かった。そう怒るな。さて、次の試合が始まるようだぞ。闘う事になる相手かもしれん、良く見ておく事だ」
「い、言われなくても分かっている!」
カルの顔を見まいとするように、ベルタが闘技舞台の方へと視線を向ける。
闘技者同士のつばぜり合いがあり、力と技が激突する。
真剣に闘う様を見つめるカルの横顔を――
またベルタが、チラリと横目に見てしまう。
(私が……討つのか……)
髪を撫でられ綺麗だと言われた事に跳ねていた心臓が、スーッと冷たくなっていく。
それを自覚しながら、ベルタは乱れる想いを断ち切るように、再び闘技舞台へと視線を戻した。
闘技会が終わり人々が歓楽街へと繰り出していく。
「さて、俺達も戻るとしようか」
「そうだな……」
青白く光る月を見ながらベルタが頷く。
「戦いを見て、どうだった?」
屋敷へと帰る道すがら、カルがベルタに問いかける。
「……上のクラスは、さすがに技術、力共に優れていた……勝てないと思った相手もたくさんいた」
「今の自分の力量を把握できるのは良い事だ。さて、今日は一杯飲みながら食事にするか」
屋敷に帰りつくと、既にメイドたちは帰宅し、料理の用意だけがされていた。
「私が給仕をしよう……」
「ほぅ、随分と気が利くようになってきたじゃないか。では、俺はその間に、今日見てきた試合のデータをまとめておくとしようか」
「準備が出来れば呼ぼう」
「よろしく頼む」
そう言い残したカルが部屋へと戻る。
(これが最後の食事、か……)
何も知らないカルを、今夜だまし討ちにする。
その時が近づいてきている事に、トクンッ、トクンッとベルタの心臓が早いステップを刻み始める。
「ベルタ」
「っっっ!!」
不意に聞こえてきた声。
「スズネ……」
いつの間にか屋敷の中に忍び込んでいたのか、スズネがベルタの前に姿を見せる。
「ベルタ、覚悟は出来ているわね?」
「あぁ、出来ている。スズネ、主従の刻印を封ずる魔法をかけてくれ」
「分かったわ」
頷いたスズネが詠唱を始めると、印を結んだ両手が光り出す。
その手がベルタの刻印をゆっくりとなぞっていくと――
「あぁ……」
主のモノとなった事を示す従者の刻印が、スーッと消えていった。
「これで、後はあなたがあの男を殺すだけよ」
「そうか……」
「郷は、人間共の攻勢によって大分押されているようなの。今夜中には、この街を出ないと……」
「分かった」
「私は、気づかれないように外で待機しているわね。あの男、かなりのやり手のようだから……」
「終われば、呼ぶ」
「えぇ、必ず討ち取ってちょうだい」
ベルタの手を握り真っ直ぐに見つめながら囁くと、姿を見せた時と同じように、気配を消して部屋から出て行く。
表情を消したまま、食事の用意を再開する。
それ程、時間のかからないうちに、テーブルの上には温められた料理が並ぶ。
「カル、準備が出来たぞ」
カルの部屋の前まできたベルタがノックをして声をかける。
「そうか。今、行く」
部屋の扉が開きカルが顔を覗かせる。
カルに気づかれないようにと、懸命に表情を取り繕うベルタ。
下腹部に布を当て、刻印が消えた事を上手く隠している。
それらの努力もあってか、カルは何も気づかない。
(許してくれ……カル……)
心の内で謝りながら、ベルタが席につく。
「データの方は、まとめられたのか?」
食事を始めると、カルがワインのグラスを傾ける。
それを見ながらベルタが問いかけると――
「あぁ、おかげさまでね。ある程度はまとまった。だが、また明日も闘技を見に行かないとな……ベルタはどうする?」
「私は……そうだな。私も行こう」
カルには明日は無い。
心の内でそう思いながらも、それを言葉にする事は出来ない。
「ベルタ、お前も飲むか?」
ボトルを持ったカルが、ベルタの方へ注ぎ口を向ける。
「では、一杯だけ……」
「まさか、こうしてお前と酒を酌み交わす事になるとはな」
「私が注ごう」
ベルタがボトルを受け取ると、カルのグラスへとなみなみと注いでいく。
「美味い! 一仕事終えた後の酒は最高だ」
「そう、だな……」
自分の仕事は、まだ終わっていない。
心の内で小さく呟くベルタが、グラスを重ねていくカルを見つめ続けていた。
食事が終わった頃には、空になったワインのボトルが三本、机の上に置かれていた。
飲み過ぎたと言ってソファーで眠りこけているカル。
寝息を確認したベルタが、ゆっくりと席から立ちあがる。
「ベルタ、大丈夫?」
カルが深い眠りに落ちている事を確認したスズネが、部屋の中へと静かに入ってくる。
「大丈夫だ……カルを酔わせる為に、少し飲み過ぎたかもしれないが……大丈夫だ」
「そう……では、そろそろ……」
「分かっている」
屋敷には、鍛練用としての武器がいくつもおかれている。
使い慣れた短刀は、異空間にある武器庫にしまわれている為に使う事は出来ない。
あらかじめ用意しておいた、別の短刀を手にソファーへと少しずつ近づいていく。
(許せカル……私は郷を守らなければならない……)
無防備に寝息を立てるカルに心の中で別れを告げる。
「ベルタ、早く」
急かす言葉に、ベルタがキッとスズネの方を振り返る。
「どうしたの? 人間相手に、何故そんな感傷に浸っているの?」
ベルタの心情を理解しないスズネは――
ベルタがこうも躊躇いを見せる事に苛立ちを隠しきれなくなっていた。
「今、終わらせる」
短く答えると、またカルの方へと視線を向ける。
小さく喉を鳴らすと同時に、一思いにトドメを刺すべく短刀を心の蔵向けて突き下ろした。