封印魔法
「ベルタ……どうだったの?」
「スズネ……」
月明かりに照らされた石畳に、スズネの影が長く伸びる。
「ダメ、だった……分かってくれると思っていたのだが……」
真情を込めて話せば、カルなら分かってくれる。
カルは自分の事を信用してくれている。
そう思っていた気持ちを裏切られたかのような――
そんな気持になりながら、ベルタがスズネに頭を振ってみせる。
「やはり、ね……人間なんてそういうものよ」
こうなる事は分かっていたとばかりに、スズネが人間へと侮蔑の感情を声に滲ませる。
(以前の私であれば……)
迷う事なくスズネの言葉に同調していただろう。
そう思うベルタだったが――
自分の言葉を信じてもらえなかった失意はあるにせよ、侮蔑を感じるまでには至らない。
自由になった奴隷が戻ってくる――
そんな考えが甘いという事は、ベルタ自身も理解していたからだ。
それでも、感情はそう簡単には割り切れない。
「スズネ、お前も一緒に説得してもらえないだろうか? 本当に郷が危機である事を知ってもらえれば……」
「ベルタ、あなたどうしたの? 何故、そこまで人間を信用出来るの? 人間が私達を捕まえれば……どういう行動に出るかは分かっているでしょう?」
「いや、カルは違う……違うのだ……」
「人間なんてどれも一緒よ。私は……絶対に人間なんて信用しない。もし、あなたの主が私の事を私の主に告げれば……」
おぞましそうに、スズネが両腕を抱きながらブルッと身を震わせる。
「ベルタ……もう時間は無いわ……私は、これを取り外す方法を知っているの」
「え……?」
「私の封印魔法を使えば、主従の刻印を少しの間無効にすることが出来る」
滑るような足取りで近づいてきたスズネが、ベルタの耳元へと形良い唇を寄せる。
「そんな事が……?」
「えぇ、刻印の魔法を封じている間に、あなたは……あなたの主を殺しなさい」
「っっっ!!」
「そうすれば、主従の刻印を無効化できる。主従の刻印が無くなれば、コレを外す事も可能よ」
「ま、待ってくれ……そんな方法が……」
「封印と解除の魔法を、私が得意にしている事は知っているでしょう?」
「そ、それは知っているが……」
「人間が作ったにしては強力な魔法だけど、封じる事は可能。封じている間に主が死ねば、より簡単に主従の刻印は解除できるのよ。つまり主さえ死ねば……」
言葉を切ったスズネが、ベルタの顔を真っ直ぐに見つめる。
「私はあなたを郷に連れて帰る事が使命。こうして奴隷にされてしまったけど、あなたに会えたのなら、その甲斐もあったというものだわ」
「スズネ……何を考えている……?」
「来て頂戴。あなたに会えて私も決断がついたわ。私の封印の魔法が本物である事を証明してみせる」
「ま、まさか……」
「人間の分際でエルフを嬲ってくれた報いを……主に受けさせるわ」
「ま、待て、そんな事は……!」
冷酷な笑みを浮かべるスズネに、ベルタが躊躇いを見せる。
「どうしたの? 何故、人間の肩を持つような事を言うの?」
「それは……」
カルと出会わなければ、今のような気持ちになる事は無かった。
そう思うベルタだったが――
「ベルタ、郷を助けて。あなたの力が必要なの」
同胞であるスズネの頼みを、無下に断る事は出来ない。
苦しく悲しい思い出しかない郷であっても、やはり郷は帰るべき場所であるのも事実だった。
「来て頂戴ベルタ」
夕闇の中を真っ直ぐに歩き出すスズネ。
その後を、項垂れたままベルタがついていく。
スズネの先導で行きついた先は、豪奢な屋敷だった。
「ここが、私を買った男の家よ。私は、ここで……」
恥辱を思い出したかのように、スズネが強く唇を噛む。
「報いを受けてもらうわ……ベルタ、見届けてちょうだい」
黙り込んだベルタを屋敷内へと導き入れると――
豪奢な飾りつけをされた廊下を、躊躇いなくスズネが歩いて行く。
屋敷の一番奥にある扉の前で立ち止まったスズネが、無言のままベルタを一度だけ見る。
だが、すぐに扉に手をかけると、音をたてずにソッと開ける。
スルリと室内に身を滑り込ませたスズネが大きなベッドの方へと静かに歩み寄る。
ベッドの上では肥え太った男が、いびきをかきながら無防備に眠っていた。
憎々しそうにその男を見下ろすと、スズネが小さな声で詠唱を始める。
印を結んだ手が薄く小さく光りだすのを、息をつめて見守るベルタ。
「見ていてちょうだいベルタ……私は、郷を守る為なら……どんなことをする覚悟も出来ているわ」
薄く光る両手で、肌に浮かぶ刻印をゆっくりとなぞるスズネ。
「あっ……」
主のモノとなった事を示す紋様が、光る手に触れられた途端、スーッと消えていく。
眼を見張り小さく声を漏らしたベルタに、スズネが自信に満ちた笑みを見せる。
「どうかしら? これで、今は主従の契りの魔法は封印されている……このうちに……」
小さく喉を鳴らすと、スズネが部屋に飾られていた剣を手に取る。
「スズネ……」
「心配しなくても大丈夫よ。ちゃんと魔法は効いているから」
「い、いや、そうじゃない……殺しをするのは……」
「郷を守る為よ。その為に、私は……この男の玩具にされても我慢出来た。あなたを見つけるまでの間は、この男が必要だったから……」
「ベルタ……」
「でも、あなたに会えたのだから、もう必要は無い……私の誇りを傷つけ弄んだ報いを受けなさい!」
「ん? んぁ? な、何だ……? う、うわぁっ!? な、何をするつもりだ!」
男が眼を覚まし喚ぎ声を上げる。
静まり返っていた屋敷が、突如騒然となり始めた。
「死になさいっ!!!!」
「ぎゃぁあああああああああっ!」
心の蔵向けて剣が振り下ろされる。
おぞましい程の絶命の叫びをあげた男の胸元から、赤い血が飛沫立つ。
「スズネ、逃げなければ! こっちに誰かがやってくる!」
エルフの耳には、近づいてくる荒々しい無数の足音が聞こえてきていた。
「はっ、はぁ、はぁ、わ、私……っ……」
「スズネ、こっちに!」
復讐を成し遂げた後の放心した状態になっているスズネの手を掴むと、ベルタが窓を開け、そこからヒラリと庭へと飛び降りる。
騒然となった屋敷の庭園を、闇にまぎれて逃走するエルフたち。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、ベルタ待ってちょうだい」
「早く逃げなければ追っ手がくる」
「えぇ、でも、解除の魔法を使う為には、主と離れすぎてしまっては駄目なの」
「く……っ!」
スズネの言葉を聞いたベルタが長い耳を器用に動かしながら、周囲の物音を探るベルタ。
追っ手の足音が聞こえない事を確認すると、ベルタが少しだけ緊張を緩める。
「……どう? 私の魔法の力を信じてもらえたかしら?」
主従の刻印を刻まれた従者は――
主が死ねば、同時に命を断つことになってしまう。
だが、スズネの一撃で男は絶命させられたにも関わらず、スズネには何も変化は起きていなかった。
「……コレも外すことが出来るわ。主が死んだ事で、私は奴隷では無くなったのだから……」
スズネが首輪をスッと撫でると――
決して外す事の出来無い筈の首輪が、カランッと音を立てながら石畳の上に落ちる。
「あっ……」
「後は、こちらの主従の刻印を完全に消すだけ……主が死んだ後なら、刻印を消すのは容易い事よ……」
詠唱を口にするスズネの両手を、今度は薄桃色の光が包み込む。
スズネの肌に、再び浮かび始める刻印。
それをスッと撫でていくと、薄桃色の光の中へと刻印が吸いだされていく。
「く……っ!」
僅かに顔を歪めたスズネだったが、刻印を光の中に全て吸いだすと――
「ふぅぅぅぅぅぅぅ」
額に汗を浮かばせたまま、大きく息を吐き出した。
「これで、この忌まわしい主従の刻印を解除出来たわ……」
薄桃色の光の中に浮かぶ紋様。
忌々しそうにそれを見ると、スズネがパンッと両手を打つ。
その瞬間、光が弾け飛び、紋様がバラバラになって消えていく。
「ベルタ……私の力を信じてもらえた?」
大量の魔力を消費したスズネが、少しやつれた顔をベルタの方へと向ける。
「あ、あぁ、確かに……刻印は消えている……」
「えぇ、これさえあれば、郷を救いに行く事が出来るわ」
身をもって、封印と解法の術を見せたスズネの言葉を聞いたベルタがまた俯いてしまう。
「少し……もう少し待ってくれ……」
いつになく弱々しいベルタの声。
「どうしたの? 何を迷う事があるの……」
「分かっている……分かっているのだ……だが、少しで良い時間をくれ……」
「……分かったわ。私はしばらく身を隠さないといけないから……連絡する時は、私の方から連絡するわね。でも、早く決断してちょうだい……時間が経つにつれて、郷は危地に陥っていくから……」
「分かった……」
力なく頷いたベルタは、肩を落としたまま屋敷へと戻っていった。