暗雲
翌日もまた、変わらない日常が始まる。
昨日とは違い、昼食時にもカルとベルタはごくごく普通に言葉を交わしてる。
カルと話をしている間は、ベルタは他者の事を強く意識しなくはなっていた。
聞えてくる他者のヒソヒソ話を気にもかけず、カルとの会話を楽しむかのように言葉を交わしていく。
「今日もまた、あの子たちの所に行くつもりか?」
「そのつもりだ」
「そうか。まぁ、好きにすれば良い」
「……一つ教えてもらいたい事があるのだが……」
「ん? 何だ?」
「お金の出し方だ。私の賞金は、銀行に預けてあるのだろう?」
「そうだが……何に使うつもりだ?」
「その……教会のシスターが、子供達に勉強を教えているそうなのだ……」
「確かに教会は、そういった慈善事業を行っているとは聞いたが……だが、銀行に預けている金は、お前が自由になる為のモノだろう?」
「そ、そうだ。だが、少しくらいなら時間がかかっても良い……全額を寄付する訳では無いからな」
「お前の金だ。お前が考えて使うのなら、好きにすれば良いさ。それじゃ、今から銀行に行くとしようか」
「よろしく頼む」
人間が作り出した貨幣になど、触る事にも嫌悪を抱いていたベルタが――
貨幣を利用しようとしている。
これもまた、ベルタの変化かもしれない。
そう思いながら、カルはベルタを連れて銀行へと向かった。
「ふぅぅ。人間は、面倒な事を考えるものだ……だが、確かに預けておけば、そう簡単に使うという事はないのかもしれないな」
カルにお金の引き出し方を教えてもらい自らお金を出した後、それを持って貧民街へと向かうベルタ。
「ベルタお姉ちゃぁんっ!」
ベルタの姿を見つけると、子供たちがワラワラと駆け寄ってくる。
「あのね、あのね。ベルタお姉ちゃん、ありがとう!」
「ん? 何の事だ?」
突然、お礼を言われたベルタが、しゃがみこみながらアユミと同じ目線になって問い返す。
「えっとね、あのね……ベルタお姉ちゃんのコイビトに助けてもらったの!」
「コイビト……? 助けてもらった? え? ど、どういう事だ……」
アユミの発する言葉の意味を理解できず、ベルタがキョトンとなったまま首を傾げる。
「あのね、あのね。この前来た、変なオジちゃんにアユミが捕まってたの」
「俺が説明するぜ! あのカルって人が、アユミを助ける代わりに人質になってくれたんだってさ。その事をベルタ姉ちゃんに言おうと思ってたんだけど……」
「アユミ、ベルタお姉ちゃんのお家、どこから知らなかったの。ごめんね?」
「カルは今日は来てないのかぁ。ベルタ姉ちゃんありがとうって言っておいてよ!」
「わ、分かった……そんな事があったのか……」
奴隷商人たちは、アユミを脅しのネタにして、カルを人質にした。
(もし、アユミが人質になっていれば……)
カルが捕まったと聞いた時よりも、動揺は激しかったかもしれない。
カルの実力を知っているが故に、人質になったと聞いても、それほど焦る事は無かった。
(それならばそうと言えば良いではないか……)
アユミの事を何も言わなかったカルに対して、自分でも理解できない感情にモヤモヤとなってしまうベルタ。
「また今度、カルをここに連れて来よう。お礼は、その時に直接言ってやってくれ」
「分かったー。アユミ、ちゃんとありがとうって言う!」
「偉いなアユミは。そうだ。今日はこれから、皆で教会に行こう」
「えぇ? 何で?」
「そこで、色々な勉強を教えてもらえるそうだ。ヨウタ、皆を集めて来てくれ」
「うぅ、勉強かぁ。まぁ、でも、強くなる為だもんな。ちょっと待っててよベルタ姉ちゃん」
貧民街の仲間たちを集める為、ヨウタが駈け出していく。
その後ろ姿を見ながら、ベルタはまたカルの事をボンヤリと考えてしまっていた。
「ふぅ、すっかり遅くなってしまった。でも、これで……あの子達も勉強が出来る」
教会に寄付をすると同時に、子供達に勉強を教えてもらえるよう、神父に頼むという作業を終らせ帰途につくベルタ。
陽が傾き空は茜色に染まり始めている。
身寄りの無い子供達の為に読み書きを教えるという慈善事業は、教会は常に行っている為――
お金など必要ないと言った神父だったが、子供たちの為に使ってもらえればと、半ば無理矢理お金を押しつけてきた。
交渉事をする事に不慣れなベルタにとっては、精神的に疲れ切ってはいたが――
アユミ達の進むべき道を少しは指し示す事が出来たと、達成感を覚えてもいた。
そして、アユミから聞いた、カルがアユミの代わりに人質となった話は――
いつになくベルタの心を温めている。
(帰って、今日の事をカルに話そうか?)
アユミから聞いた話をすれば、カルがどんな顔をするだろうか?
そんな事を想像するベルタが口もとを緩め、柔らかい笑みを浮かべる。
「そんな顔も出来るのね、ベルタ」
「え……?」
聞えてきた声に、ハッとなったベルタが歩みを止める。
周囲を見回すと――
「こっちよ」
視線を誘導するかのように、今度は背後から声が聞こえてきた。
沈みかけている太陽を背にした声の主は、影を長く伸ばしている。
「お前は……スズネ……」
逆光に眼を細めながら、ベルタが声の主の名を呼ぶ。
「えぇ、久しぶりね」
「どうして……お前が……!?」
ベルタと同じ長い耳。
人形を思わせるような整った輪郭と、涼しげな瞳。
真っ直ぐな金髪を腰まで垂らし、スラリと伸びた足を剥き出しにして立つエルフ。
同族を見たベルタが、驚きの表情を浮かべたまま固まってしまう。
「あなたと、同じよ」
そう言ったスズネが奴隷の証とも言うべき首輪と、主従の契りの刻印がされた肌をベルタに晒す。
「っっっ!!!」
自らと同じ立場の同族に、ベルタが痛ましそうなうめき声を漏らす。
「ガスパールに騙され、私も……ここに売られてきたの。今では、人間共の玩具よ……」
そう言って自嘲気味に笑ったスズネを、無言のままベルタがギュッと抱きしめる。
「ガスパールはお前にまで卑劣な事を……だが、どうしてだ? 郷にいれば、ガスパールも手を出せない筈なのに……」
「その郷が……私達の郷が……」
感情を呼び覚まされたかのように、スズネが声を震わせる。
「郷がどうした!? 何があったのだスズネ!?」
「オークと人間がエルフ狩をする為に、共同戦線をはって攻め込んできたの」
「そ、そんな……」
「私は、郷の外に出ている仲間を集める為、何よりも……郷で一番強かったあなたを呼び戻すために、郷の外に出たの……」
「ガスパールが、私に会わせるといって、お前を騙したのだな……」
ギリッと歯噛みをしたベルタの瞳に怒りの炎が燃え上がる。
「えぇ、そうよ……あなたに会わせると言って、ココに連れて来られて……その後は……」
恥辱を思い出したかのように、スズネの整った顔が痛ましく歪む。
スズネが何をされたのか――
それは、ベルタ自身が身をもって知っていた。
醜い趣味を持つ貴族の玩具として、エルフがどのように扱われるか――
その事を思い出したベルタの唇が噛み切られツツッと血が垂れ流れる。
「ベルタ、私の事はどうでも良いの……でも、郷を……私達の郷を助けて」
「だが、長老や郷のエルフの魔力をあわせれば……オークや人間どもに負ける事はありえない筈……」
「人間共は……魔法を弱める古代の遺物を持ち出してきたの……それを常に郷に向けられているから……私達は、普段の半分の力しか出せなくなっている」
スズネから聞かされる郷の危機に、ベルタの顔色が蒼白に変じていく。
「お願い、私達と違って、あなたの武術の力があれば、オーク達にも勝てる筈。オークを怯ませる事が出来れば、形勢は逆転出来る筈なの」
「だが……私も……お前と同じだ……この街から出る事は出来ない」
主の許可なく街を出ようとすれば、首輪の内側にある毒針が容赦なく突き立てられる。
即効性の毒を打たれれば、毒には多少の免疫のあるエルフであっても、瞬時に命を断たれてしまう。
「少しだけ待ってもらえるか? 私の今の所有者は……少しは話の分かる人間だ……」
郷の危機を訴えれば、外に出る事を許してもらえるかもしれない。
カルが、他の主と違うという事を、ベルタはこの数週間の間で、身をもって理解していた。
「人間を……信用など出来るの……?」
ベルタの言葉を聞いたスズネが、人間という種族に対する侮蔑の表情を浮かべる。
「カルは話の分かる男だ。きちんと説明すれば分かってくれる筈」
「……時間は、あまりないのよ」
「分かっている。今から屋敷に戻り、状況を説明する。そうだ。スズネ、お前も一緒に来てくれるか? そうすれば……」
状況の説明を、スズネがすれば、より理解してもらえると、ベルタがスズネの手を取る。
「待って。私は、もう戻らないと……私の主が戻ってくる時間……屋敷を抜け出していたのを知られれば……」
恐ろしい折檻が待っている事を想像したのか、スズネがブルブルと身を震わせる。
エルフに加虐を与え喜ぶ人間が存在するという事は、ベルタも十分に理解していた。
「そうだな……無理をする必要は無い。お前はもう戻っていてくれ……だが、これからどうやって連絡をとれば?」
「私は、自分の主が居ない時を見計らってあなたを訪ねるわ……私の方から連絡をするから」
「分かった。吉報を待っていてくれスズネ。必ず、郷は救ってみせる」
強い決意を瞳に浮かばせベルタがスズネを真っ直ぐに見つめる。
「えぇ、郷を救えるのはあなたしかいないわベルタ……だから、お願い……何としても……どんな手を使ってでも……」
「大丈夫。きっと大丈夫だ」
スズネを安心させるように頷くと、ベルタがスズネに背を向ける。
太陽が沈み、スズネの影が更に長く伸びていく。
急き立てられる感情のままに、ベルタは一目散に屋敷へと駆け戻っていく。
「カル! カルっ! どこに居る!?」
屋敷に戻ったベルタが、カルの名を呼びながらその姿を探す。
「うるさいな。どうした?」
普段、滅多に大声を出す事の無いベルタの様子に呆れながら、カルがリビングへと入ってきた。
「話がある」
「話……?」
「そうだ。今すぐ、私を外に連れ出して欲しい」
「ん? どういう事だ……?」
あまりにも単刀直入のベルタの申し出に、カルが訝しそうに眉根を寄せる。
「私の郷が……今、人間とオークによって襲われている。私は、郷を守りに戻らなければならないのだ」
「落ち着け……いきなり、何を言い出す」
「私は落ち着いている。頼む。お前も一緒に来てくれれば良い。だから、郷を守るために力を貸してくれ」
「お前のいう郷とは、一日で行き来できる場所にあるのか?」
落ち着いていると言ったベルタだったが、カルの眼にはどう見ても落ち着いているようには見えなかった。
焦りにも似た感情が伝播しないようにと、ことさらに言葉をユックリと紡ぐカル。
「いや……無理だ」
「陽が沈むまでに街に戻れなければ、どうなるかは分かっているよな?」
「そ、それは……」
言葉に詰まったベルタが首輪へと視線を落とす。
「その首輪を外さない限り、一日以上街の外に出る事は出来ない」
「で、では、これを外してくれ。一時的で良い。郷を襲うオークと人間共を倒した後、また、貴様の元に戻ってくる」
「……首輪を外して帝都の外に出た奴隷が、主の元に戻ってくると思うか?」
束縛の無くなった奴隷が、またノコノコと奴隷の身に戻る。
そんな事はあり得ないと、カルが頭を振る。
「私を信じてくれ! 必ず戻ってくる」
カルを見つめる視線を外す事なく、信じて欲しいと訴え続けるベルタ。
「ベルタ……俺はそれなりにお前には自由を与えてきたつもりだ。だが……そこまで信用する事は出来んな」
ベルタの必死の頼みを、カルがキッパリと拒絶する。
「く……っ!」
「ベルタ、お前は、何の為に郷を出た? 元々、郷に居た訳じゃないんだろう?」
「そ、それは……」
ベルタの脳裏を過る郷での思い出。
透けるような白い肌を誇るエルフの中で、ベルタはただ一人褐色の肌を持って生まれてきた。
ダークエルフとエルフととのハーフ。
両親の名も顔も知らず――
郷に捨てられていたベルタは、幼い頃から、蔑まれ嘲笑われてきた。
エルフの力の源泉でもある魔法を使う事も出来ず――
その代わりに、エルフの数倍の身体能力を兼ね備えていたベルタにとっては――
郷での良い思い出など、指折り数える程しかないのも事実だった。
「私は郷を出た……だが、それでも……あそこは、私が帰るべき場所……私の帰る場所は、あそこしかないのだ……」
郷が無くなってしまえば、本当の意味で、自分は一人になる。
今はまだ、どれだけ蔑まれていたとはいえ、郷という集合体に帰属する事が出来ていた。
それすらなくなってしまえば――
自分の存在する意味すらなくなるかもしれない。
「頼むカル……私を……郷に帰らせてくれ……」
跪き頭を垂れながら、ベルタがカルに頼み込む。
「いや……それは出来ない……ベルタ、諦めろ」
跪くベルタを見下ろし頭を振ったカルが、これ以上話す事は無いと、リビングを出て行く。
「あぁ……」
遠ざかる足音が消えると、絶望の溜息が吐き出される。
「私は……どうすれば……」
首輪がある限り、主の許可なく街の外に出る事は出来ない。
許可を得たとしても、一日しか外には居られない。
帝都から郷までの距離を考えれば、一日で郷につくことも不可能だった。
郷へと向かう途中に陽が暮れ、毒針によって絶命してしまうのは間違いない。
「どうすれば……良いのだ……」
どうすれば良いかが分からず、悶々と考えている間にも、郷は窮地に陥っていく。
焦燥感と絶望に押し潰されそうになりながら立ち上がるベルタ。
魂が抜けたかのようにフラフラと、外へと出る。
既に空には星が瞬き、月が冷たい光を放っていた。