戸惑い
貧民街を後にした二人が屋敷へと戻る途中――
「エピファは、よほどお前に執着しているようだな」
カルがエピファの事を口にする。
「どういう意味だ……?」
カルの言わんとする事が分からないと、ベルタが訝しそうに問い返す。
「おいおい、分かっていなかったのか?」
「だから、どういう意味だと聞いている」
「エピファが、あの子達を連れ去ろうとしたのは、お前を手に入れる為だって、事だよ」
「何……?」
カルの言葉を聞いたベルタが、衝撃を受けたように歩みを止める。
「まぁ、あの子達を質にして、お前を俺から買い取ろうとしてたんだろうな」
「ま、待て……何故そんな事をする必要がある……」
「エピファのバックにいる貴族様が、お前にご執心なんだろう」
エピファの言っていた言葉が、ベルタの脳裏でありありと浮かんでくる。
「私のせい……なのか……」
声に滲む悔悟の感情。
「恐らくな。ここ最近、お前が貧民街に通っていたのをエピファは調べていたんじゃないのか?」
「くっ……! あの男……っ!」
「おいおい、奴には手を出すなよ。奴はあれでもれっきとした闘技師なんだからな」
怒りのマグマが溜まっているベルタをカルが宥めにかかる。
「だが、あの男を放っておけば、また、あの子たちが……」
自分の為に、子供たちが利用されるかもしれない。
子供達を守らなければならないという強い使命感がベルタの中で芽吹いている。
「酷な言いかたをするが、あの子達をどうするつもりだ?」
「え……?」
「今はまだ子供だが、あの子達だって生きていく為には、お前が嫌悪するような人の浅ましさを見せるようになってくるぞ」
貧民街で生まれ育った者は、生きていく為に、何でもする。
それが、そこに生まれた者達が、唯一生き延びられる方法だからだ。
「それは……だが……私が何とかしてみせる」
「何とかする、か。お前の目的は、賞金を貯めて自由になる事、そうじゃなかったのか?」
「そうだ。だが……」
「あらかじめ言っておくが、俺は助力をするつもりは無い。慈善家でもなんでもないんだからな」
「貴様に頼もうなどとは思っていない!」
突き放すようなカルの言い方が気に障ったのか、ベルタが声を荒げる。
「あまり深入りはしない事だ」
「迷惑をかけなければ良いのだろう……放っておいてもらおう」
そう言ったきり、ベルタは屋敷に帰るまで一言も口を開こうとしなかった。
翌日になっても、昨日の事もあってか、ベルタは未だカルと口を聞こうとはしなかった。
カルに言われた通りの鍛錬はこなしているが――
昼食を外で食べている間も、一言も口をきかない。
食事を終らせると、一人席を立ちそのまま店を出てしまう。
(何故、こんなにもイライラとしてしまうのだ……)
カルより一足先に食堂を出たベルタは、整理の出来ない感情に戸惑っていた。
貧民街へと向かって歩きながら、自分のモヤモヤとした気持ちを考える。
(昨日、カルに言われた事に、私は腹を立てているのか……?)
今までのカルのベルタに対する扱いは、奴隷に対する扱いでは無かった。
ベルタの意思を出来るだけ尊重してくれている。
そう思っていたからこそ――
(ヨウタ達の事を、関係無いと言われて、私は腹を立てているのだろうか……?)
冷静になろうと努めながら、ベルタは自分の感情を推察する。
(馬鹿な……それでは私が……カルの助力を当然と思っていたみたいではないか……)
誰の助けも必要無い。
闘技者としては闘技師であるカルのアドバイスに耳を傾ける事もある。
だが、それは、ベルタが勝利する事によって、カルの元にも莫大な賞金が入るから。
カル自身の為になっている事なのだから、一方的に頼っている訳では無い。
そう考えていたベルタにとって――
貧民街の子供達の事で、カルの協力を得ようと思っていた事に、少なからずショックを受ける。
(いや、そんな筈はない……)
人間の助力を得ようとしていた事に思い至ると――
更にベルタの心が千々に乱れてしまう。
「お姉ちゃん? お姉ちゃん!」
「え……?」
思考に沈んだまま歩き続けるうちに、ベルタは貧民街にたどり着いていた。
「ベルタ姉ちゃん、どうしたんだー?」
「いや、何でもない。少し考え事をしていただけだ」
「あー! 分かった! 恋だな! 姉ちゃん!」
「こい……?」
パチパチと瞬きをしながら、ベルタが小さく呟く。
「お兄ちゃん、こいってなぁに?」
「アユミにはまだ分からないだろうなぁ」
「うぅぅ、またお兄ちゃんたちだけ秘密にしてズルイー! お姉ちゃん、こいってなぁに?」
大きな瞳をクリクリと動かしながら、アユミがベルタを見上げて問いかける。
「なっ!?」
その純真無垢な質問に、言葉に詰まってしまうベルタ。
「ば、馬鹿を言うな。こ、恋だと……? な、何を言っている」
「ベルタ姉ちゃんの顔が赤くなってるー!」
子供達に囃し立てられたベルタが、更に頬を紅潮させる。
「こ、こらっ! そういう悪ふざけは許さんぞ!」
「わーーっ! ベルタ姉ちゃんが怒った! 逃げろー!」
声を大きくするベルタを見て、楽しそうに笑う子供たちが、バラバラと逃げていく。
「全く……恋など……そんな事……」
「ねぇねぇ、お姉ちゃん、こいってなぁに? 食べ物? 動物さん?」
「そ、それは……お、大きくなればアユミにも分かる筈だ。そ、それよりも、今日は勉強をする約束だ。さぁ、こっちに来るんだ!」
逃げ散った子供達を、再び集めにかかるベルタ。
「あ~ぁ、勉強よりも剣の練習の方が良いんだけどなぁ」
「強くなる為には勉強も必要だ。私も、人間世界の事はあまり詳しくは知らないが……」
人間社会に疎いベルタではあったが――
読み書きや計算を教える程度の事は出来る。
貧民街の子供達には、まともに読み書きも出来ない者が、多くいるのも事実だった。
ベルタの呼びかけに、また子供たちが集まってくる。
(私が教えられる事にも限界がある……誰か他に教える事が出来る者が居れば……)
人間社会の仕組みと、更に高度な勉強を教える事が出来る者がいれば――
そう思ったベルタの脳裏に、カルの顔が浮かんでくる。
(馬鹿なっ! 私は、カルを頼ろうとなどしていない!)
長い髪を揺らして頭を振るベルタを、子供たちが興味深そうに見つめている。
「さ、さぁ、始めよう」
子供達の視線に気づいたベルタが、コホンと小さく咳払いをすると――
青空教室がしばしの間催される事になった。
「子供みたいなやつだな」
昼間のベルタの反応を思い出したカルが、軽く口元を綻ばせる。
言葉を交わそうとはしないが、剥き出しの敵意を見せる訳ではない。
拗ねて意地を張っているような――
そんな子供めいた態度に、カルが苦笑いを浮かべる。
「さて、俺の方から歩み寄るべきか? だが……」
口元を引き締め、カルが真剣に考えこむ。
「ベルタにはベルタの目的があるように、俺には俺の……やるべきことがある……」
誰に言うでもなく一人呟き、考えに耽ったままカルが店を出る。
「お~ぃ、ちょっと良いか?」
「ん?」
顔を上げたカルの周りを、グルリと屈強な男達が取り囲む。
「お前達……」
「昨日は世話になったなぁ。ちょっと来てもらおうか」
「こちらにも都合があるんだがな。だが……」
「おらっ! ウダウダ言ってないでついてこい」
呟いたカルの肩を小突きながら、取り囲んだ男達が歩き出す。
抗う様子は見せず、カルもまたユックリと歩き出した。
貧民街での青空教室を終らせたベルタが屋敷へと戻ってくる。
屋敷の中を見て回るが、メイドの姿はあれどもカルの姿は無い。
「カルは……まだ戻って来ていないのか?」
「はい。カル様は、まだお戻りになっていませんが……ご一緒ではなかったのですか?」
「あ、いや、私だけ先に帰ったのだ……ありがとう」
普段滅多にベルタの方から声をかけてくる事がないだけに――
メイドは少々面喰ったような表情を見せたが、すぐにまだカルが戻ってきていない旨を告げてくる。
(もしかして怒っているのか……?)
昨日からの態度が褒められたものでは無いという事は、ベルタ自身も理解していた。
カルにとって貧民街の子供達の事など、全く関係の無い事。
それは事実だ。
ベルタ自身が、勝手にカルの助力を得られると思っていたに過ぎない。
(怒らせたからといってどうだと言うのだ……私には関係の無い事だ……)
カルを怒らせてしまった。
その事が、脳裏の片隅でへばりついたように離れなくなってしまう。
「鍛練をしなければ。次も、私は勝たなければならないのだから」
へばりつく思考を追い払うように頭を振り、中庭に出る。
「そうだ……カルがいなければ、武器が使えないではないか……全く……何をしているのだ……」
刹那の祝福の力を高めるには、短刀を使い込む必要がある。
(カルだって、私がいなければ賞金が入ってこないんだ……そのうち戻ってくる筈だ)
カルが戻ってくるまでの間は、基礎トレーニングを費やす事にすると、照り付ける日差しの下で、ベルタが体を動かし始めた。
「ベルタ様、よろしいですか?」
「え……?」
鍛練の合間の休憩中に、メイドが声をかけてくる。
「何……?」
通いのメイドの存在には慣れつつあるベルタだったが、それでも警戒心を滲ませる。
「今、来られた方が、ベルタ様に渡して欲しいと言われて……」
メイドがベルタに手紙を差し出してくる。
「……ありがとう」
受け取ったベルタがお礼を言うと、メイドがまた仕事に戻るべく室内へと戻る。
「これは……?」
この街に、ベルタの知り合いらしき知り合いは居ない。
手紙を渡されるような相手が居ないにも関わらず――
ベルタを指名してメイドに手紙を預けた。
訝しく思いながらもベルタが手紙を開ける。
「っっっ!!!」
ミミズの這ったような汚い文字で書かれている内容を読み進めるベルタが、小さく呻くような声を漏らす。
書かれていた内容は――
カルの身を預かっている。
助けたければ、指定の場所に来いという、いかにも三下が書いたような脅迫文だった。
「カルを人質に取った? 馬鹿馬鹿しい……あの男は、私よりも強い……」
この脅迫文を渡してきたのが、昨日、自分が打ちのめした男達だという事は、ベルタは瞬時に理解していた。
「あの程度の腕なら、カルが負ける筈も無い」
ベルタ自身が息を乱す事無く倒した相手に、カルが負けるとは思えないと、手紙を破ろうとベルタが指に力を込める。
(だが、もし……卑劣な手によって捕えられたのなら……)
欲にまみれた人間が、どのような卑劣な手段であっても厭う事無く使うのを、ベルタは身をもって知っていた。
(いや、それでも……私が心配する必要は無い……カルならば、どうとでも切り抜けられる筈だ)
自分を打ち負かしたカルが、そう簡単に負けるとも思えず――
ベルタは不安を払しょくするように再び鍛練を開始した。
陽が傾き、空が茜色に染まっていく。
(まだ、戻って来ない、か……)
通いのメイドは夕飯の準備を終らせ、既に帰途についていた。
ゆっくりと空が暗くなっていくなか、中庭に出たまま周囲の物音を探る。
ガランとした屋敷には、人の気配は全く無い。
(何をしているのだ……あの男は……)
茜色一色だった空に、少しずつ星が瞬き始める。
陽が沈み始めると、ひんやりと風が冷たくなってきた。
それが、ベルタの心を波打たせていく。
(いや、心配などする必要は無い……私が、カルを心配する理由がどこにある)
乱れる感情を鎮めようとするように、ベルタが心の中で自問自答を繰り返す。
だが、答えは何一つ見つからない。
無為に時間が過ぎる事に耐え切れなくなったのか、ベルタは大きく息を吐き出すと、室内へと戻っていった。