子供達
ベルタが目覚めた時には、既にカルは起き出していた。
「さて、今日は少しはゆっくりと出来るかな」
ベルタの闘技は、午前中の少し遅めの時間に組まれている。
「今のうちに軽く朝食を食べておいた方が良い。食事はここに持ってきてある」
「分かった」
カルに言われるままに用意された朝食を食べると――
少しずつ戦いに向けたの感情が、ベルタの中で昂ぶっていった。
闘いへと気持ちが逸るのを落ち着けながら、ベルタが精神集中を試みる。
刻々と時間が過ぎ――
「そろそろ、だな。行こうかベルタ」
「あぁ、分かった」
冷気を放つ短刀を改めて見てから、ベルタが小さく頷く。
「さて、相手の炎の壁を無効にできるかどうか……楽しみだな」
「よろしく頼む」
語りかけるベルタが、細く長い指で刃を撫でる。
「行くぞ」
そんなベルタを一瞥してからカルが部屋を出る。
ベルタもまた、その後に続き歩き出した。
闘技者本人であるかを確認するゲートをくぐり、地下通路を通って闘技舞台へと出る。
「あれが、今日の対戦相手か」
闘技舞台に立つ妖艶な笑みを浮かべた相手を、ベルタが鋭く睨みつける。
スピードをいかすための身軽な格好で――
弓矢を持ちベルタに笑いかける。
「今日はよろしく。良い戦いを期待してるわ」
「私は戦い勝つだけだ」
短く言い返すとベルタが背を向ける。
鮮烈なデビューを果たしたベルタの噂は、闘技好きの間で広まっていたのか――
観衆の数は、前回よりも数段に増えていた。
だが、その分、聞くに堪えない罵声の言葉も多くなる。
賭けの締め切りが終わるまでの間、観衆に晒され続ける。
(落ち着け……罵っている者達を相手にする必要は無い……)
ジロジロと見られる事への嫌悪感に、心が波打つ。
それを押し鎮めようとするベルタの顔から表情が消える。
「そう言えば、あなたエルフなのに魔法が使えないそうね」
「っっっ!!」
対戦相手の発した言葉に、ベルタがピクリと唇を引きつらせた。
「ふふふっ、魔法が使えないエルフなんて、落ちこぼれの忌み子として、さぞ馬鹿にされたんでしょうねぇ」
毒の含んだ言葉が、グサリ、グサリとベルタに突き刺さってくる。
「こうして闘技者になったのも、故郷にいたたまれなくなったからかしら?」
「……黙れ」
怒りを含んだ低い声が空気を震わせる。
「あら? 図星だったようね。ふふふふっ、魔法の使えない落ちこぼれエルフに負ける訳にはいかないわね」
「黙れと言っている」
「今日の闘技で、魔法を見せてあげる。私が魔法を使う事は、調べてあるんでしょ?」
対戦相手の一言一言が、ベルタの感情を波立たせていく。
衆目の的になっている嫌悪感を押さえ込んでいた中での相手の挑発。
(まずいな……)
闘技師席からベルタと対戦相手が何かを話しているのを見たカルが、心の内で呟く。
対戦相手が余裕の笑みを浮かべているのに対し、ベルタは怒りを我慢できなくなっている。
はっきりと表情には現れていないが、カルには、ベルタの我慢が限界に近づいてきている事が、手にとるように分かっていた。
だが、闘技者が舞台に立った今、カルが出来る事は何もない。
ラッパの音と共に賭けの締め切りが告げられる。
オッズは、1倍台になり――
ベルタの勝利に圧倒的な支持が寄せられていた。
「私もコケにされたものね。魔法を使えないエルフ相手に、これほど差をつけられるなんて」
ベルタが魔法を使えない事を、何度も何度も嘲笑する。
その度にベルタが、強く拳を握り、奥歯をギリリッと噛みしめる。
「この落ちこぼれエルフの本当の力を、お客さんに見てもらわないとね。さぁ、始めましょうか!」
闘技の開始を告げる、審判の声。
その声が響いた瞬間――
「っっっ!!!!」
小さな叫びと共に、ベルタが地を蹴った。
「これが、あなたの使えない魔法の力よ!」
鍵となる言葉を発した対戦相手の周りをグルリと炎の壁が取り囲む。
ベルタを突っ込ませる為の挑発。
その罠にかかった事にニマリと笑い、素早く短弓を構える。
圧倒的な瞬発力とスピードを誇るベルタであっても――
炎の壁を抜ける時には怯みが生じる。
炎によって焼かれ、戦闘不能になればそれまで。
炎の壁を抜け出たとしても、その熱と痛みに、スピードは緩む。
壁を抜けて飛び出てきた獲物を短弓で仕留めるまで。
一瞬で勝敗をつけるべく――
矢をつがえたままベルタを待ち伏せする対戦相手。
「来なさいっ!!!」
炎の壁が揺らぎ、獲物が飛び出てくる瞬間を見計らい、引き絞った弦を放ちにかかる。
ヒュンッ!
空気を切る音と共に、矢が放たれる。
射られたベルタが膝を屈する光景を浮かべていた対戦相手が――
「あっ……」
小さく声を上げ、全身を強張らせる。
「そ、そんな……」
矢が放たれる事は、ベルタもまた予期していた。
スピードを落とす事なく炎の壁を抜けたベルタが、間近に迫ってきた矢先を身をくねらせて交わす。
そのまま円を描くように身を滑らせると、相手の背後に回り込む。
「くっ……!」
必殺の一撃を交わされた相手が、新たな矢をつがえようとするその動きを制するように――
短刀の柄で相手の手を打つ。
「ぐっ!? ぁあっ!?」
痛みに顔が歪み矢を取り落とす。
その隙に、もう一本の短刀を首筋へとピタリと押し当てた。
「魔法など使えなくとも……お前を殺す事くらいは出来る」
「ひっ!? ひぃいっ!」
首筋に充てられた刃を、シュッと引く素振りを見せた瞬間――
死の恐怖に慄く対戦相手が、白目を剥いて意識を飛ばす。
失神と共に魔法が効力を切らすと、炎の壁が何事も無かったように消えていく。
「勝者ベルタ!」
ベルタの勝利を告げる声が響くと、ドッと歓声が湧き起る。
オッズに期待された通りの圧倒的な勝利。
賞賛の声が注がれるなかで――
賭けを外した者達の心無い罵声も聞こえてくる。
だが、オッズは誰もがベルタの勝利を予想していた。
圧倒的な賞賛の声が罵声をかき消していく。
だが、ベルタにとっては、そんな声などどうでも良い事だった。
気を失った対戦相手を一瞥する事なく、踵を返し舞台を降りる。
「随分と挑発されていたようだな」
地下通路を歩く間、カルがベルタに話しかける。
「……大した事じゃない」
「俺にはそうは見えなかったがな。さしずめ、魔法の事で挑発されたか?」
「っっっ!」
「分かりやすな、ベルタは」
ジロリッと睨んできたベルタを見て、カルが小さく笑う。
「挑発に耐える為の鍛錬はまだまだ必要だという事は分かったんじゃないのか?」
「つまり……これまで通り昼食は外で食べるというのを続けるというか」
「そういう事になるな。不服か?」
「いや……確かに貴様の言う通り……私は挑発に乗ってしまった。もし……この刹那の祝福の力が無ければ……」
カルから情報を与えられず、刹那の祝福を与えられていない状態で戦っていれば――
炎の壁に突っ込み、その熱でやられていたか、壁を抜けたとしても矢の餌食になっていたのは間違いない。
闘いが終わった今、冷静に判断すれば、その結論に至る事をベルタは否定出来なかった。
「随分と素直になってきたじゃないか」
ベルタの殊勝な態度に、カルが笑いながらポンポンと頭を撫でる。
「か、髪に触るな!」
エルフの誇りとも言うべき長く艶やかな髪。
それを気軽に触られた事に、ベルタが怒ったような素振りを見せる。
だが、その様子に敵意は滲んでいない。
「はははっ、悪い悪い。だが、褒めてやってるんだ。悪い気分じゃないだろう?」
「最悪の気分だ」
ツンツンとした態度のままそう言うと、ベルタは早足に歩き出した。
この日の闘技会が終了すると、カルたちもようやく隔離施設から解放される。
夜の街は、まだまだこれからとばかりに、賑やかな光を湛えていた。
「今日で二連勝だ。どこかに寄って祝いでもするか?」
「いや、私は帰らせてもらう」
「そうか。夜の酒場も精神の鍛練にはなる、が……」
「……貴様が、そうする方が良いというのであれば、そうするが……」
「ほぅ。素直じゃないか。俺の言う事を聞く気になるとは、な」
「貴様のおかげで勝てているというのは……紛れもない事実だ」
「はははっ、いやいや、お前を買った時からは想像も出来ない変化だな」
「だ、黙れ、わ、私は……自分の為に、そうする方が良いと思っているだけだ」
「分かった分かった。だが、今日はせっかく勝利したんだ。お前の好きにすれば良い」
「そうか……ならば、やはり帰らせてもらおう」
「あぁ、そうしたいならそうすれば良い。俺は、一杯飲んでくるとしよう」
カルが夜の街へと向かう背中が見えなくなるまで、立ち止まったままベルタが見送る。
「さて……」
空を見上げると、弓張りの月が白く輝いている。
「少し、気持ちを静めた方が良い、か……」
喧噪から離れ、昂った気持ちを落ち着けたい。
街の灯りから遠ざかるように、夜道を歩いていく。
あてもなく彷徨い歩くうちに、月明かりだけが頼りの貧民街へと迷い込んでしまっていた。
(そろそろ戻った方が良いか……)
治安が良いとは言えない貧民街を、夜に一人で歩くのは褒められた事じゃない。
腕に自信のあるベルタであればこそ出来る事だった。
闘技によって昂っていた感情は、もう大分落ち着いている。
「あっ!!」
踵を返そうとしたベルタの耳に、驚いたような声が聞こえてきた。
声のした方へと視線を向けると――
「ベルタだ! 闘技者ベルタだ!」
夜も深まっていこうという時間にも関わらず、子供達がわらわらと集まってきた。
群がってくる子友達に、戸惑いの感情を滲ませるベルタ。
「今日の闘技会見たよ! 強かったね!」
「お姉ちゃん、お耳が長いよ?」
「僕も、おっきくなったら闘技者になるんだー!」
それぞれに言いたいことを口にしながら、羨望の眼差しをベルタに注いでくる。
「な、何だ……貴様達は?」
「あははっ、貴様だってー!」
「キサマって、なぁに?」
無邪気な感情を真正面からぶつけられたベルタが、たじろいだように後退る。
「えへへ~、ベルタ強いよね! 僕、ベルタの事、応援してたんだよ!」
帝国民の最大の娯楽と言われているだけあって、闘技の模様はいたる所で魔力を使って放映されている。
今日のベルタの戦いを見ていた為か――
強い者への憧れの眼差しを向けられる事に、ベルタが面映ゆそうに頬を紅潮させる。
「そ、そうか……応援してくれていたのか……ありがとう」
カルにすら見せた事の無いベルタの柔らかな表情が、戸惑っていた顔に浮かんでくる。
口元を緩めたベルタが、子供たちの頭を優しく撫でる。
「俺も闘技者になって、お金をいっぱい稼いで! 皆にご飯をた~くさん御馳走するんだー」
闘技者になる事を夢見ているかのような子供の言葉に、ベルタが悲しげに視線を伏せる。
闘技者とは――
奴隷の身に落ちた者しかなれない。
(この子達も、いずれは……)
奴隷として売られる事になるのだろうか?
そんな考えが脳裏を過ると、痛ましさを感じたかのようにベルタがキュッと唇を噛みしめる。
(何故……こんな気持ちになる……人間の子供など、私には関わりのない存在だ……)
「ベルタお姉ちゃん、どうしたのー?」
ボロボロになり捨てられていたような人形を、大事そうに抱きしめながら、女の子がクリクリと動く大きな瞳でベルタを見上げる。
「いや……何でもない……」
女の子の目線にあわせるように腰を落とすと――
ベルタが、その子の頬をそっと撫でる。
「闘技者になどならずとも……強くはなれる。そう……闘技者になりたいなどとは思わない方が良い」
まだ社会の仕組みを詳しくは知らない子供達。
華々しく戦う闘技者こそが、この貧しい生活から脱け出す為の手段だと――
何も知らずに、そう思い込んでいる。
(いや、もしかしたら……)
親たち自身が、子供にそう吹き込んでいるのかもしれない。
路上で酔い潰れて眠る男達の姿を月明かりが照らし出す。
「強くなりたいと思うのは素晴らしい事だ。だが、強くなる事と闘技者になる事は、また別の事……」
上手く説明できないもどかしさに、ベルタが言葉を途切れさせる。
(私は……何故、この子達にこんな事を言っている……)
「よくわかんないや~」
「闘技者って強くないとなれないんでしょ?」
「そうだな……だが……そう……闘技者も闘技師がいなければ、全く戦えない」
「闘技師!? 俺、知ってる! すっごく偉いんだよね! 闘技者に色々教えてあげる人!」
「そう。そうだ……闘技者よりも強い。だから、目指すのなら闘技師の方が、ずっと良い」
ベルタ自身、闘技師が良い仕事だとは思わなかったが――
それでも、何も知らない子供たちが闘技者に憧れ、闘技者にならんとするよりは、ずっとそっちの方が良いと思ってしまう。
(本当は……闘技師にも闘技者にもならない方が、ずっと良い……平穏な生活を送れる仕事に就く方が……だが、この子達には……)
普通の生活を送る。
それすら、貧民街で暮らす子供達には、非常に難しい事なのかもしれない。
「私は、そろそろ戻らなければならない」
「えぇ~、もっともっとお話ししたかったのに~」
「子供はもう寝る時間だ。夜遅くまで起きていると、強くなれないぞ」
「ふぁぁぁ、お兄ちゃん。眠くなってきたよぉ」
「ねぇねぇ、また来てくれる?」
「そう、だな……あぁ、来れれば、また来よう」
月夜の晩に出会った子供達を放っておけない。
そんな感情が芽吹いたのか、ベルタが柔和な笑みを浮かべたまま、子供達を約束を交わす。
「だから、今日はもう休む事だ」
「うん! 分かった!」
「バイバイ、お姉ちゃん。またね~」
群がってきていた子供たちが、それぞれの寝床へと戻っていく。
それを見送ると、処理できない感情を抱えたまま、ベルタが何度も振り返りながら貧民街を後にした。