44話 兵隊生活
カートライトは、ネロにエルボー軍で戦う条件として遺書の作成を命じた。
まず、カートライトが用意した原稿を書き写し、不十分な箇所についてはネロの証言を加筆した。主に、ガズウィスが社会的に抹殺され、ネロを名乗るようになった経緯について。遺書らしく残したい言葉を書くようにも薦められたが、何も書かなかった。遺書をネロ自身が音読し、録音した。
初等教育で課せられた作文よりも簡単な作業だった。録音した遺言を聞かされた時の自分の声への嫌悪感だけはきまりが悪かったが。
**
ネロには、特に不便でも快適でもない三人部屋があてがわれた。同室者がいるらしく、乱れたベッドに寝衣が脱ぎ捨てられていた。他の衣服などの私物は見当たらなかった。
日が沈み切っていない時刻だったが、夕食に呼ばれた。適当な部屋に男が十人程が集まり、ホテルで調理された料理を囲んだ。カートライトの姿もあり、ある男が彼を”将軍”と呼んだので、ネロは食事を喉に引っかけそうになった。
カートライトからの紹介があっても、ネロに特別な関心を示す者はいなかった。もし、カートライトがネロの経歴を話していたとしたら、どんな反応があっただろうか。
**
一夜が明けて、朝食後すぐに訓練が始まった。参加するのは皆、強兵運動でエルボー軍に加わった兵隊だった。
ネロは車の運転を習得することになった。訓練生は三人で、ネロが最年少だった。運転免許証が手に入らなくとも、ただで運転を学べる貴重な機会だ。「教習所に通うような金を生まれて一度も持ったことがない」と一人が言い、教官以外の三人が笑った。教官はその手の貧乏自慢を聞き飽きていたそうだ。ホテルを出て、手近な公園や通行量の少ない道を交代で運転した。エンジンのかけ方から道路標識の意味まで実地訓練で学び、最後に教官が「おまえらは高い掛け金を払ってでも良い保険に入るべきだ」とぼやいた。
昼からは拳銃の手入れを二時間やらされた。一冊しかない解説書を五人で回し読みし、拳銃を解体し、組み立てた。他の者達は一様に、「これ以上手入れする所はない」とこなれているような口を利いたが、手際の悪さはネロと同等で、手がけた拳銃は各々一丁だけだった。結局、実弾を撃つことはなかった。
夕食まで暇を持て余したネロは日が高い内から惰眠を貪った。
これで衣食住が保証され、給料も出るのだ。過酷で血生臭い虎目石の会での労働を馬鹿馬鹿しく思いながら、今日の働きに満足した。
「おまえがネロ?」
起こされた。聞き覚えのない声だ。もしかしたら覚えていないだけかもしれない。
「起きろ」
小突かれて尚もネロは起き上がることを拒んだ。
「そんな奴はいないよ」
ネロは久しぶりに自分と同年代の人間を見た気がした。眠気が取れない、ぼんやりとした視界にくたびれた顔が映っていた。互いが自分の事情を優先し、従わない相手の敵意を感じている。
「カートライトさんが呼んでる」
用があるなら自分から来いと思いながら、ネロは起き上がった。テーブルに置いていたグラスの水で喉を流し、腹の奥から息を吐き出した。靴をはき、ジャケットを抱えて部屋を出る。
ドアを閉める際、少年が頬を擦らせるかのように空いていたベッドに倒れ込んだ。同室者が帰ってきたらしい。
ネロが入室してから腰かけるまでの間、カートライトは微動だにしなかった。集中力を高めて物事を精査していたかのようであり、だが、ぼんやりとしていただけのようでもあった。ただ足を組んでソファに座り、顎を引いて静かにしているだけで、多彩な印象を与える。
「仕事だ」
カートライトの眼差しは薬物中毒者のそれに似ている。硬い眼球と、その曲面を滑る光。重たそうな瞼。
「バッツが首尾良くやった。君にとっては楽しい仕事になるはずだ」
楽しい仕事などありはしないことをネロは知っている。記憶の片隅にも残らない雑事を積み重ねていると、時折忘れられなくなるような仕事が紛れ込む。それだけだ。




