3話 不潔な上司
ネロは歩いた。情けない報告を携えて、上司のもとに。
ウィンバーに抵抗される程度の障害は予想していた。それなのに、ただ突っ立っていただけの邪魔者に気を取られて勤めを果たし損ねるとは。こんな失敗が起こるとは。
自分の無能を強く自覚した。そして歩くのをやめた。貸し与えられた拳銃の重みが不快だった。
クラクションが鳴る。見覚えのある車が減速しながら近づいて来て、運転席にはハンドルにもたれたギミィがいた。口元は笑っているのに、その表情がどんな感情を表しているのかは読み取れない。
ネロは後部座席に乗り込んだ。
「怪我はないね?」
「ない」
「では戻ろうか。ボスが待ってる」
喫茶店”フクロウ”は日頃から、弦楽器を十本も二十本も使って奏でるような厳かな音楽を大きめの音量で流している。客の後ろ暗い事情に対する配慮だ。彼らには他人に聞かれたくない話が多い。だが本当は、店主の老婆が難聴で、それをまったく自覚していないから非常識な音量になっているではないかとネロは疑っている。
ギミィが曇ガラス張りのドアを開けた瞬間から、ネロの耳に音がまとわりつく。小雨の中に飛び込むような思い切りが必要だ。その大音量のせいで”フクロウ”に来るとネロは気疲れしやすいと感じる。
この喫茶店が繁盛している所をネロは見たことがない。今はネロとギミィを除いて四人の客がいる。
ネロ達の上司はよく目立つ。肩に届きつつある長髪と小汚い髭が顔の半分ほどを隠している。肌が乾いたヤニ臭い中年の男だ。名はリド・アローガ。
リドより先にネロ達に気づいたのは彼と相席していた男だ。ネロは男と偶然目を合わせたが、見覚えのない顔だった。男とリドが何やら一言ずつ交わした後、男は席を立ち、飲み物の支払いをした。
「失敗しました」
ネロはリドの隣に立ち、報告を始めた。音楽に埋もれない程度に大きな声を意識した。リドはネロを見ようともせず、煙草を吸っている。
「なんで失敗した」
「連れが一人いました。そいつをどうするか、判断できませんでした」
「誰だ」
「仲間だと言っていました」
リドがカップを口に運んだ。今日もまたコーヒーを注文したらしい。
「揃いも揃って気が小さいな。売人と並んで歩くような奴を相手にするな。どうせ取るに足らん奴だ」
「はい」
ネロを罰するつもりはないのか、リドは叱咤も罵倒もしない。感情の類をあらわにすることもない。ギミィが言うには、リドはいろいろなことが面倒なのだそうだ。それを認めるかのように気だるそうに呟いた。
「どうしたものかな」
「奴は”王冠”という飯屋にいます」
口を突いて出たという他ない。ネロのその発言は、微かな怒りの発露に違いなかった。屈辱と無力感を良しとしない怨嗟の言葉だ。そのささやきはリドの耳に届いただろうか。
リドは吸殻を灰皿に捨てた。
「それで、おまえはどうしたい」
「ウィンバーを殺します」
「行ってこい」
テーブルに肘をつきながら、リドは口元のカップを傾けた。