36話 嗅覚
「退院は明日でしたか」
あの刑事が来た。二度目の面会。事情聴取を含めれば三度目になる。
読書中だったネロは勝手に入ってくればいいという気分で小説に視線を戻した。わざわざベッドから起き上がって出迎えはしない。
「また来たのか。あんた、本当に刑事か?」
「見舞い品を持たずに来たのは、私が警察の人間だからです。あなたは虎目石の人間なのでね」
それは建前かもしれない。ネロはしおりを挟んで本を閉じた。
「気の回る刑事さんだな」
刑事の中には、裏社会の人間と友好的な付き合いを望む者がいる。必要悪を味方につけ、双方の立場に配慮した協力関係を固めていく。その後ろ暗い関係では利己的な欲が尊重されやすいのだとネロは思っている。
この刑事がネロを利用するために画策しているとしても、どうでもいい。七歳の頃、警察車両のタイヤに釘を捻じ込もうとして警官に蹴られたことを今も根に持っている。
「近頃はゆっくり食事をするのも難しくなってきた」
刑事は椅子に座ると、持参した紙袋の中身をテーブルに広げ始めた。パニーノとサラダと飲み物の容器だ。
「ここで食べさせてもらいますよ」
「いや、他所に行ってくれ」
「おっと、もうドレッシングをかけてしまった」
入院中の摂生な食事と売店の菓子に物足りなさを感じていたネロにとってパニーノは魅力的だ。病院特有の臭いで馬鹿になったはずの鼻が妙に利く。パンとベーコンが混じり合った臭いを吸い寄せている。
「食卓を提供する代わりに一口くれ」
刑事が喉を潤し、それだけで満たされてしまったかのようにゆっくりと息を吐いた。
「あなたは虎目石。私は腹を空かせた刑事ですよ」と言いながら刑事はサラダを口元まで運んでいた。
どうでもよくなったネロは起き上がって窓を開けた。ただでさえ清涼とはいえない病室の空気に肉の臭いが混じったら食欲がなくなる。
小説を手に取った途端、刑事が話しかけてきた。
「退院後はまたドブさらいを? だとすれば気の毒だ」
「今更、気の毒なんてことはないな」
刑事は食べながら喋る。あまり咀嚼しない男だ。
「ですが、あなたの上司はボルガス・ソーンズの仇を探すでしょう」
「あのイカレ野郎にも賞金がかかったのか?」
「そういうことじゃない。復讐です」
「こだわる人じゃないよ」
「どうでしょうか」
退院後はくだらない仕事が待っていて、またドブさらいとして走り回ることになる。だが、嘆いても意味はない。
看護師が来たのだろう。病室のドアをすべらせる音が聞こえた。
病室に入ってきた男はリドではなかった。だが、一瞬ネロは人違いした。髪を整え、髭がない男をリドと見間違えそうになった。共通する点は同年代であること。警戒すべき陰険な雰囲気の持ち主であること。
「具合はいかがかな」
その声は、あのイカレ野郎を強烈に想起させた。逃亡中でありながらも、怪我人を装って反撃してきたロットロンを。やはり、男とロットロンになんら類似する印象はないのだが。
刑事は来客を意に介しもせず、喉を潤している。ネロは自嘲的に笑ってみせた。不穏なことが起きようとしている。
「はめやがったな」
刑事はなんの反応も示さない。
「いいや、話をしに来ただけだ。君が虎目石の会にいるのは承知の上だが、僕らは言葉を交わす余地がある」
男の声は落ち着いているが、老成した印象はない。外見に対して不釣合いな若い声だ。改めて男の顔を観察する。ねっとりと潤った目が特徴のない中年の顔に張り付いており、それらの周囲に乾いて焼けた肌が広がっている。不均整が混在した怪人、恐らく狂人だ。
「誰だよ、おまえ」
「カートライト・カーキス。エルボー軍、あるいはエルボー商会の者だ」
ネロは思わずにやけてしまった。本当なら夢のような出会いだが、現状ではほとんど悪夢に近い。
「カートライトは死んだんじゃないのかよ」
「今でも僕には高額な賞金がかかっている。その事実が意味する所を考えてみるといい」
「つまり俺にもツキが回ってきたわけだ」
「そう。前向きな話をしよう、君と僕にとって」




