23話 ベイド事件
病衣から私服へと着替えたネロは、今まさに病院を抜け出そうとしていた。それだというのに、看護師が刑事を連れて現れたのだから、床に唾でも吐いてやりたくなる。
「外出ですか? まだ許可が下りるとは思えませんが」
誰よりも早く口を開いたのは刑事で、病室に入ると手をかざして看護師を下がらせようとした。看護師は何か言いたげだったが、刑事が頷くと渋々病室のドアを閉めた。
「女に会いに行こうとしてましたね?」
図星だった。
「どうしてわかるんです?」
「入院すると、どうも女が恋しくなる」
不思議なもので、病床の上にいるとしばらく声も聞いていない恋人のことを考えるようになった。忘れかけていたかもしれない女だ。
「だが、諦めた方がいい。鎮痛剤が切れたら、逢瀬を楽しむ余裕はありませんよ」
秘め事とは暴かれてしまうと、つまらないものに成り下がる。ネロは、脱走を諦めたというより、高ぶっていた気分が冷めてしまった。女に拒まれるという想像と不安もどうでもよくなった。いつでも会いにいけるし、会いに行かなくてもいい。とりあえず今は会えない。そう考えた。
ネロは自分が隠し事を出来ない性質なのではないかと思った。通り魔をした際もリドに看破された。推測しても合点のいく理由が浮かばない。
「言われてみると、確かに背中が痛み出してきたな」
嘘だ。
「悪いが、お引取りを」
「痛むのなら横になるといい。こちらにはお構いなく」
つくづく面の皮が厚い野郎だ。だが、嫌いじゃない。こういう人間の方が会話が弾む。
「何か用でも?」
「様子を見に来ただけです。性欲があるくらい元気で安心しましたよ」
ネロはベッドに腰を下ろし、退屈しのぎに刑事の話相手になってやろうと決めた。どうせ込み入った事情聴取はしてこない。ネロが拳銃で人を殺していようが、虎目石の強すぎる威光は事実を隠してしまう。
刑事も椅子に座った。中年だが、腰や関節を労わるようなそぶりもなく、動きが軽い。
「明日でベイド事件から一ヶ月経ちますね」
「自動車爆弾の?」
「あまり関心がない? あなたも虎目石でしょうに」
無関心な言い方をしたつもりはないが、「下っ端なんでね」といい加減な釈明をした。実際にネロはベイド事件に疎かった。
抗争の初期、虎目石の会のベイド・ロスが、エルボー商会の自動車爆弾で殺された。無関係の一般人からも被害者が出たため、ギャングへの風当たりが強まった。無頼なエルボー商会は裏社会からも白眼視され、虎目石の会は憎悪を焚きつけられたかのように無慈悲な攻勢を続けたという。皮肉にもベイド事件はエルボー商会に孤立と敗北をもたらした。
「私がベイド事件という言葉を口にして、顔色を変えた虎目石は多かったがね」
だが不意に、ボルガスは違ったのではないかとネロは思った。ボルガスは特異な男で、元エルボー商会の収容者を蔑まず、自ら交流を求めることすらあった。
では、リドはどうだろうか。彼もベイド事件の衝撃に当てられ、怒りの赴くままに戦ったのだろうか。
「ボルガスの葬儀も明日です。嫌な巡り会わせだ」
刑事は迷惑とでも言いたそうだ。そして、間抜けな質問が飛び出した。
「何故ボルガスは殺されたんでしょうね」
ネロは、そんなこともわからないのかという台詞を飲み込んで、当たり障りのない返事を選んだ。刑事がネロの反応を見たがっているのだと感じ取ったからだ。
「商会にとって、彼ほど殺し甲斐のある人間は他にいない」
そう言いつつもベイド事件と同様に、ネロはボルガスの武勇伝をほとんど知らない。ただ、エルボー商会の人間を滅茶苦茶に殺し回ったのだから、生き延びた者から怨敵と強く認識されるに決まっている。
「いいや、他にもいますよ。是が非でも殺したい男が」
刑事は虎目石の会の会長の名を挙げた。
「例えばテイザー・ハーク」
ネロは笑った。冗談としては三流だったが。
「なるほど。テイザーを殺せるなら、それが最善だ。空爆でもしなければ無理だがね」
テイザーがどの程度の警備に守られているのかは定かではないが、抗争後も生きているのだから生半可な警備ではない。
「テイザー会長はボルガスの葬儀に出るつもりです」
「へえ」
「理解に苦しむ。テイザー会長、それに商会も」
理解する必要はないとネロは思う。理解出来なくても、するべきことは単純明快だ。新しい転換期は殺し合いで幕を開けた。ベイド事件と同じことが起こり、報復が繰り返されるのだ。




