19話 見えざる敵
状況を確認していく内に、ネロの高ぶりが冷めていった。無力感が頭をよぎり、この場にいることが億劫で仕方がなくなった。
襲撃者を見つけようにも、それはあまりに困難だった。日が昇り始めているが、まだ隣人の顔さえ確認しづらいほど薄暗い。出火場所から距離があるため、明かりはほとんど届かない。視界の悪さに加えて、周囲に人が多すぎることも状況を悪くした。ホテルにいたおよそ三十人が一斉に避難したのだから当然だ。
襲撃者が紛れ込むには、実に都合が良い。また、「爆弾でも投げ込まれたら、たまらねえぞ」誰かがとぼやいたが、その通りだった。
この危機的状況で自分が戦いを諦めてしまった理由はなんだろう、とネロは思った。殺されてもいいという訳ではないことを確認した時、目の前で奇妙なことが起きた。
誰かに別の誰かが歩み寄って背中に抱きついた。続いて、抱きついた方が肘を軽く引いた。今度は肘を逆方向に動かし、また引いた。それらの動作を終えると、抱きついた方は歩いて去った。その間、抱きつかれた方は体をわずかに反らせ、膝から崩れ落ちた。
銃声が響いた。二回の銃声に続いて応射と思しき銃声が鳴った。
周囲は恐慌に包まれた。罵詈雑言が飛び交い、座っていた収容者らしき一群が跳ね上がり、誰もが建物と建物の隙間や壁の裏に身を隠した。逃げてきたホテルに駆け込んだ者もいた。ネロもホテルに退避しようとした際、走り去る数人の人影を目撃した。その中には、あの誰かに抱きついた男の影があった。
ネロは足を止めて、抱きつかれて倒れた男を覗き込み、彼がボルガスであることを確認した。
ネロに屈辱感と、それに対する怒りが芽生えた。引き金を引けば弾が出る状態の拳銃を握って、襲撃者を追った。
収容者共用の服を着た逃亡者が足をもつれさせて転んだ。それを見たネロは、一番足が早く、安定した走り方をする影が襲撃者だと確信した。収容所生活に浸っていた者は目に見えて身体能力が落ちている。
「ネロ! 行くな!」
左折して建物の角に入る頃にはギミィの制止が遠くなっていた。襲撃者との距離感が曖昧なまま、ネロは走った。襲撃者は右に曲がった。
ネロも右折しようとした瞬間、間延びしたうめき声が聞えた。拳銃の引き金に指をかけ、角に駆け込んだ。
息を詰まらせながら、苦しげに喘ぐ男が壁を背中を向けて倒れていた。
「助けてくれ。いきなり刺された」
ネロは思わず立ち止まってしまった。
「いきなり刺された。自転車を奪われた」
何が起きたのか、まったく理解できなかった。襲撃者が男を刺して自転車を盗む猶予などあるはずがない。襲撃者を追跡していたのに、襲撃者が消えて怪我人が現れた。ならば、この怪我人が襲撃者と考えるのが理にかなっている。しかし、それでは不可解としかいいようのない猿芝居だ。
「助けてくれ。ああ、痛い」
「そいつはどこに逃げた」
口を突いて出た言葉にネロ自身が唖然とした。混乱して、もっともらしい台詞を言ってしまったのだ。
「あっちだ。あっちに行った」
男は、この道に沿った方向を指差し、ネロに発砲した。数回の銃声がネロの耳をつんざく。
「おまえも弾に嫌われてるようだなぁ! 俺もだよ。だからナイフの方が好きさ!」
ネロが足元に応射しようとした時には、男はナイフを構えて立ち上がっていた。刺突を避けると続けざまに発砲された。飛び退いていなければ直撃していたに違いない。
「全部撃っちまった。ハハ、おまえ、いいぞ」
男の笑顔が光によって暴かれた。口角が著しく伸び上がり、陰鬱な目は一切笑っていない。表情を作るくぼみの影が徐々に際立っていく。
近づいてくる光は車のライトだった。暴力的な駆動音を上げなら、ネロを目掛けて突っ込んでくる。
「逃げろ! ネロ!」
またもや銃声が鳴った。車は急ブレーキをかけてハンドルを切り、ネロを巻き込んで空走した。




