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 第四章 神を倒し、神を孕め

 温泉に浸かったときのように身体の芯から温まっていく。指先までしっかり血液が巡り、緊張していた筋肉がほぐれていくのがわかる。

 ――あぁ……気持ち良いな……。

 そんな心地よさを経て、あたしはそっと目を開ける。

 と。

「!?」

 べちん!

 あたしは目の前にあったクロード先輩の顔を平手打ちした。

「おはようございます。どうですか、心地は」

 頬を叩かれたにも関わらず、クロード先輩は朝のさわやかさを象徴するかのような笑顔を向けてくる。

「良いわけないでしょっ! キスで起こされるだなんてっ!」

「月影の乙女、それは必要な処置だぞ?」

 あたしの苛立ちの声を遮って告げたのはルーク。陽の入り始めた窓の脇で、壁に寄りかかったまま立っている。あたしが不満げな気持ちをこめた視線を送ると、解説を続ける。

「昨夜の戦闘での負傷を治しはしたが、それをしたことによって君はかなりの体力を奪われた状態。手っ取り早く回復させるために、直接精気を口移しで行ったのだよ」

「口移し以外にも方法はあるんじゃないの?」

 当然のことのように淡々と告げるルークを横目に、あたしは上体をゆっくり起こす。妙な気だるさが残っているが、動けないわけではなさそうだ。

「口移しが一番効果が高い」

 さらりと答え、理解しかねるといった様子で首をわずかに傾げると、ルークはさらに続ける。

「そんなに彼が嫌いか? その少年とも、僕とも口付けしたことがあるんだ。そんなに抵抗する必要も――ふがっ」

「あんたは乙女心を理解しろっ! 覗き魔がっ!」

 手近にあった枕を投げつけてやると、ルークの顔面に直撃した。避けられる技量があるはずなのに避けなかったのがちょっと意外だ。

 ――しかし。

 あたしを助けるためだったのにひっぱたかれて嫌な顔さえしなかったクロード先輩。さすがに申し訳なくなり、顔をそちらに向ける。

「ごめんなさい。叩いたりして……びっくりしたものだから、つい……」

「いえ。加減してくださったのはわかりましたからね。あなたのことですから、この程度は受けても当然かと」

 言って、クロード先輩はあたしの頭を撫でる。が、そこで豹変した。

 ――えっと……クロード先輩?

「――で、ルークさん。さっき聞き捨てならない台詞が聞こえてきたのですが?」

 あたしが目をぱちくりさせていると、クロード先輩はルークを見ずに底冷えするような声で問うた。

「なんのことかな?」

 心当たりがないらしく、不思議そうにルークは返す。

「ミマナ君の唇を奪ったと、そう言いましたよね?」

 ルークに向けられたクロード先輩の顔はとても険しく、ふだんの彼からは全く想像できない恐ろしい形相だった。

「えぇ。彼女が言うことを聞いてくれない様子だったので」

「へぇ……目的のためならば本当に手段を選ばないのですね……」

 クロード先輩の周囲に漂う空気が、怒り荒れ狂う感情に支配されていく。

「彼女が悪い。――それに、僕も興味が湧いたからな。そこの少年や君が惚れた女と言うものに」

 ――えっと……あたしは止めたほうがいいのかしら?

 そう思って、ふとマイトの姿を探す。窓側に置かれた寝台の上で、マイトはすやすやと眠っていた。これだけ騒いでいるのに全く目を覚まさないのはクロード先輩の術が効いているからだろうか。

「裸身を見て思わず欲情し彼女に悟られてしまったわけだから、僕が彼女に魅力を感じているのは事実なんだろうな。力で押さえつけず、口付けで脅そうという思考が働いたのも、その気持ち故だろうし」

「なっ……!?」

 感情の起伏なく平然とした様子で語るルークに、怒りを通り越して口をあんぐりと開けたまま固まるクロード先輩。あたしもその台詞に全身を真っ赤にしながら硬直している。

 ――良かった、マイトが寝たまんまで。

 そこで安堵している場合じゃない。あたしは頭を切り替える。

「……その辺の話はもう終わりにしていただけると嬉しいんだけど?」

 痛み始めた額に手を当てながら問うと、ルークは小さく肩を竦めた。

「そうだな。どこでこんな話になったんだか」

「……この件が片付いたら絶対に滅してやる……」

 ぼそりとクロード先輩は呟くと、いつもの穏やかな表情を取り戻した。

 ――て、敵に回さないように気をつけよう……。

 クロード先輩は攻撃手段を持たない。ただそれだけの理由でこの場が血の海になるのが回避されているような気がしてならない。

 ――なるほど。クロード先輩の中にあるこういう感情を察知していたからこそ、あたしはこの人を苦手に感じていたのか。

 あたしは心の中で大きくため息をつく。

「――で、最初に確認しておきたいんだけど」

 そう前置きをして、あたしはクロード先輩に向き直る。

「ここにいるあなたは、あたしやマイトが幼い頃から知るクロード先輩と同一人物なのよね?」

 話をしている限りでは違和感はなかった。あたしたちの知るクロード先輩そのものに思えた。だが、だとするならば、昨夜の神の使い発言はなんなのだろう。

 すると、彼はにっこりと微笑んだ。

「えぇ。同一人物のはずですよ。本来いるべき町長の息子と入れ替わったわけではないので」

 妙な物言いだ。あたしが訝しげに見つめていると、彼は続ける。

「ただ、オレと町長とは血の繋がりはありません。拾い子です」

「……え?」

 確かに似ていないとは思ったが、まさか、そんな。

「父からその話を聞かされたときは気が動転して何も手がつかなくなり、自分の居場所がわからなくなってよく脱走していましたけどね。その辺のことはよくご存知でしょう?」

「えぇ、まぁ」

 町の秀才と噂される少年がときどき怠けたり逃げ出したりするというのは、小さな町ではかなり目立つ。知らない人間はほとんどいないだろう。

「自分がどこから来た人間なのか知りたくて本をあさり、やがて魔導書に行き着いた。魔法を使えるかどうか試し、本当に発動させてしまったときは、あぁ、自分と両親に血の繋がりはないのだなと確信したものです。――そして、そんなオレの前にルークが現れた」

「ルークが? そういえば、先代の神の使いなんだっけ?」

 あたしはルークに目を向ける。

「神の側近になることに固執して消されるよりは、と選出者を抱いた卑怯者だがね」

 感慨もないらしく、実に淡白な口調で告げるルーク。

 ――本当に目的のためなら手段を選ばないんだな……。

 あたしが呆れを隠さない視線を向けていると、ルークは続ける。

「そんな僕でも、神の側近になれないなら、なれなかったなりに雑用はいくらでもあるもので。――その仕事の一つが、神の使いを探し出し、その役目を告げること」

 ルークの台詞を受けて、クロード先輩は重々しく続ける。

「――オレの前に現れ、ルークさんは言いました。『あなたは神が生み出した三人の使いのうちの一人である。選出者としてあなたが愛する女を差し出せ』と」

「じゃあ……あたしを選んだのはクロード先輩ってこと?」

 ずっとルークがあたしを適当に選んだのだと思っていたのだが。

「えぇ。ずっとあなたのことが好きでしたからね。巻き込みたくはなかったのですが、そんな条件でしたので自動的に」

 クロード先輩は困ったような顔をしたまま微笑んだ。

「ずっとって……あたし、気付いてなかったけど……いつからなの?」

 マイトと比べると、クロード先輩とは接点が少ない。学校で一緒に過ごした期間も短いし、マイトの家の道場に通っていた頃を思い出しても、それほど親しくしていた記憶はない。

「さぁ。一目ぼれですからね。顔が好きだとか性格が好きだとか、そういう理屈じゃないんです。ただ、あなたならオレを受け入れてくれるような気がしたんですよ。不思議でしょう?」

 ――あ。

 魔導師の話で口論になったとき、クロード先輩は何と言っていたか。あたしはマイトと違うだろうと、そんな期待を語っていたのではなかったか。

 自身が魔導師であると打ち明けてくれた理由、それもあたしを信じていたからではなかったか。

「実際にこうして正体を明かしても、ミマナ君はオレを突き放したりしないのですから、直感もないがしろにはできませんね」

 ――確かにそうだ。でもなんでだろう。敵対しないと感じているからだろうか? だとすれば、あたしはクロード先輩を信じていることになる。多少胡散臭く感じてはいても、最終的には彼を信じるほうを選ぶのだ。

「……それで、あたしになったわけだ」

「はい」

 よくよく思い返せば、この旅を始めることになったのも、すべきことや行き先を決めたのも全部クロード先輩だったような気がする。得られた情報も、ほとんどクロード先輩経由だった。

 ――うむ……この旅はクロード先輩に仕組まれていたといっても過言ではなさそうね……。

「ルークさんにも手伝ってもらい、オレの父の夢を使ってミマナ君を選ぶように仕向け、そこにマイト君の父親の依頼を被せて偽装し、町を出るように台本を作りました」

「そんな回りくどいことをしなくても、この世界の仕組みを説明すれば済むんじゃ――」

 協力してもらえば楽勝だったのではないか、そんな思いから出た台詞をクロード先輩は遮る。

「それができれば良かったのですが、オレには対抗できるだけの戦力がありません。ですので、他の選出者たちに居場所が知られてしまうのを避けるためには仕方がなかった。マイト君を護衛に指名したのもそのためです。――まぁ、メアリの一件ではそれが裏目に出たようですが」

 言って、クロード先輩は苦笑する。あのときは余裕ぶった言い方をしていたが、実は内心かなり焦っていたらしい。

「えっと……そこまではわかったわ。でも、どうして今期の選出者を選ぶ神の使いがルークだと誤解されていたわけ?」

 サニーもステラも、クロード先輩を警戒している様子はなかった。サニーにいたってはどちらかというと、ルークに対して敵対心を燃やしているようにさえ思えたのだが。

「えぇ、それはルークさんから頼まれて、彼に『今期の月影の乙女を選ぶ神の使いである』と名乗るのを許可したからだと思うのですが――」

 言って、クロード先輩は窓際に立つルークに目を向ける。

「――そう言えば、その理由を聞いていませんでしたね」

 クロード先輩の台詞に対し、ルークはただ見つめ返してきた。

「だろうね。秘密にしていたから」

 ひんやりとした雰囲気のある返事。あたしとクロード先輩は瞬時に警戒する。

「何か、別の目的があるってこと?」

 あたしの問いに、彼は人差し指を軽く口に添えてくすっと小さく笑った。

「余計な詮索は無用だと教えたこと、忘れたかい?」

 指摘されて、あたしの身体は熱を帯びる。

「それに、忘れて欲しくないことはそれだけではない。僕だって君を選んだ一人だ」

「……ん?」

 その意味がわからない。ルークは会うたびにあたしを選んだのは自分だと主張していたような気がするが、しかしクロード先輩の話からするとルークは結果的にあたしを選ぶことにしたに過ぎないような気がするのだが。

 あたしがきょとんとしていると、ルークは続ける。

「陽光の姫君の選者が執事をしていたサニーで、その愛する存在として仕える相手であるメアリが選ばれた。星屑の巫女の選者は大規模な商家の息子として育てられていたレイで、その愛する存在は自身の父の妾の娘、妹君に当たるステラが選ばれた。僕には、僕の計画に相応しい選出者を月影の乙女を含めた三人の中から選ぶことができたわけだ。その中からミマナを選ぶことにしたことには違いないのだがね」

「たまたま最初に告知に行った相手がクロード先輩だったから、ということではなく?」

 少なくともサニーは誤解していた。つまり、先にクロード先輩に告知がされていた可能性が高い。その上で、月影の乙女の選者であることを名乗らせる許可を得るのは自然な流れだ。

 あたしの問いに、ルークは首を横に振る。

「僕には、誰が選者で、誰が選出者となるかわかっていた。いちいち会わないとわからないだなんて、そんな手間になるようなことはしないよ」

「へぇ……となると、前の月影の乙女の選者だったってことかしら? そういう思い入れがあっても良いわよね? あたしがあなたの計画に乗るとは限らないのだもの。それに、うっかり資格を失う可能性が高いのもあたしじゃない? どうしてそんな危険な賭けに出たのかしら?」

 なぜあたしなのか。その理由がとても知りたかった。地位も名誉も財産もないあたしが、どうして選ばれたのか。

 何と答えるかとあたしが視線を向けていると、ルークは再び楽しげに笑う。

「そうだね。確かに前期では月影の乙女の選者だったが、それだけで君を選ぶほど単純ではないよ。――ま、似ているとは思ったけど」

「似ている?」

「僕が愛した女性にね。今はもうこの世にいないが、どことなく似ているように思えた。月影の乙女に選ばれる女性の共通点なのかもしれないがな」

 その答えを聞いた瞬間、首筋に痛みが走る。

 ――これは、痣の位置……?

「――さてと。そろそろ月が満ちる頃かな?」

 あたしが首筋を押さえたのを見て、ルークは嬉しそうな声を出す。

「ミマナ君、その痣……」

 手で隠れる大きさを超えているのだろう。あたしの首元を見て、クロード先輩は不安げな声を出す。

「この痣が満ちたら、神を倒せる力が手に入るんだっけ、ルーク?」

「えぇ。そう説明したね」

 なんか嫌な感じがする。ステラとの戦闘で受けた傷が完全に癒えているわけではないこの状況が、なんとも不安な気持ちにさせる。

 ――とりあえず、ここまで話を聞いてみて疑問に思ったことをぶつけてみるか。

 あたしは小さく息を吸い、改めてルークを見つめた。

「あなた、嘘を隠すために、顔を隠しているわね?」

「何のことかな?」

 そう返すだろうと思った。あたしはさらに続ける。

「選出者を抱いたって話、それは嘘だわ」

「ほう」

「愛した女性がこの世にいないってのも嘘。だって、その人、今の神様なんじゃないの? あなた、神の側近じゃないの? 違う?」

「……」

「だから、愛する人だから、倒されたくないんじゃないの?」

 あたしの重ねられた問いに、ルークは目を細めた。

「――僕の計画は、そんなに綺麗なものじゃないよ」

 ルークが視界から消える。どこに行ったのかと探す前に、ぞくっとさせる気配があたしの後ろに現れた。あたしを抱えるように腕が回され、両腕ごと挟まれて身動きが取れない。まさかこんな感じに捕まるとは。

「ミマナ君っ!」

 助けに入ろうと動くクロード先輩。しかしルークの空いている手があたしの首を掴んだのを見て留まる。

「ん……なにごとだ……って、ルーク、お前っ!?」

 クロード先輩の叫び声で目が覚めたのか、それとも術を解いて強制的に覚醒させたのか。眠っていたはずのマイトは起き上がって体勢を整え、様子を窺っている。寝起きなのに反応が良い。さすがはマイトといったところかしら。

「無駄話はこの辺で終わりにしようか。君にはやってもらわなきゃいけないことがあるからね」

「あなた、あたしに何をさせるつもりなの?」

 逃がすまいとしているのか、あたしを抱える力はとても強くて苦しい。搾り出すように発した声で何とか問う。

「神を殺し、新たな神を産み落としてもらうよ。それは伝えたとおりさ。――ただし、命と引き換えになるが」

 二人の、声にならない声が聞こえる。

「ミマナ、君が恋をする前に死にたくないと願ったこと、忘れはしないよ。強くそんなことを念じていたのは君だけで――だからこそ、興味を持った。もう少し、自分の恋を優先するかと思ったんだが……期待はずれで残念だ」

 ――いや、まぁ、確かにそんなことを考えてはいたけど……それで命を奪われちゃ敵わないんだが……。もう、無理かな……。

「さぁ、一緒に来てもらおうか、ミマナ」

 ルークがそう告げたところで、あたしの意識は一度途切れたのだった。



 ――あたし、死ぬのかな……。

 意識がぼんやりしている中でそんなことを思う。そして思い出されたのは、町長に呼び出された日のことだった。

 ――死ぬ前に恋がしたい、やるべきこともやりたいこともいっぱいあるんだって思ったけど、あたしが心からやり遂げたいと思っていたことって、結局なんだったんだろうな。

 次々と顔が思い浮かぶ。

 あたしが格闘技を習うことについて反対していたけれど、結局やめろとは言わなかった優しいお父さん。あたしが好きなことを好きなだけできるように応援してくれて、だけどそれで無理しすぎて倒れてしまった頑張り屋なお母さん。どんなに冷たくしても、つれない態度をとっても、信じて支えてくれたクロード先輩。

 そんな身近な人たちの中で、一番強く浮かんだのはマイトの姿だった。

 あたしに負けてすぐ泣きべそをかいていたのに、いつの間にか頼れる存在になっていたマイト。学校を卒業しちゃったし、道場にも通えなくなって疎遠になったから、きっとあたしのことなんか忘れているだろうって思っていたのに、そうじゃなかったこと、嬉しかったよ。あたしのこと好きだって言ってくれたこと、最初はびっくりして何も返せなかったけど、すっごく嬉しかったんだよ。守るって言ってくれたこと、クロード先輩に嫉妬しているのを明かしてくれたこと、真っ先にあたしを助けに駆けつけてくれたこと、どれも本当に嬉しかったんだよ。

 なのに。

 あたしはこの気持ちをまだ、ちゃんと伝えてない。

 ――くやしい……。このままじゃあたし、死んでも死に切れないよ……。



「――何故、君は泣くんだ?」

 頬に触れるひんやりとした手の感じが伝わってくる。あたしがそっと目を開けると視界は歪んでいて、でもそばにいるのがルークであることはすぐにわかった。あたしの顔を覗き込むようにしている。心底不思議そうなその問いに、あたしは彼の手を払い、手の甲で涙をごしごしと拭う。

「……悔しいからに決まっているじゃない」

「悔しい……? どうして?」

 寝かされていた台に片手をつき、上体を起こす。ルークはその台に腰を下ろしていた。自分がいる場所がよくわからなかったが、真っ白な石で造られた広い空間の中央にいるらしいことがかろうじて把握できた。

 あたしは問いに答える。

「だってあたし、やり残したことがあるって気付いちゃったんだもん」

 休まずに道場に通い続けたのは、強くなりたかったからだけじゃない。マイトに会って、認めてもらいたかったからなんだ。そばにいても足手まといになることがないくらい強かったら、どんなときでも近くにいてくれるんじゃないかって、心のどこかで思っていたからなのよ。

 ――ま、まぁ、マイトとしては、あたしを守れるくらい強くならなきゃそばにいる資格がないって考えていたみたいだけどさ……。

 とにかく、あたしはマイトに返事をしなければいけない。

 好きだ、の返事を。

「やり残したこと、か。――もしもそれが愛の告白なのだとしたら、諦めておいた方が無難だよ」

 ルークは顔を隠していた布を払い、面白くなさげに言う。

「な、何でよ?」

 あたしは心の中を覗かれたような気分になり、むっとしたまま彼を睨む。

「死ぬことがわかっている相手から告白されても、戸惑うだけだから。――実際、残されてみてよくわかったが」

 反論しようとして、しかし、彼が奇妙なことを言っているのに気付いてやめた。

 ――実際に……?

「……ルーク、それ、どういうことなの?」

「おや? 興味があると? 僕の身に起きた実に無意味で陳腐な物語に」

「あたしのやり残したことを諦めさせようというつもりなら、是非聞かせて欲しいものだけど?」

 ルークが皮肉るように言うので、あたしは煽るように返す。

 すると彼はあたしを引き寄せてぎゅっと抱き締めてきた。

「ちょ……ちょっと、いきなり何……?」

 焦ってもがくが緩める気配はない。もともと勝てる相手ではないのだ。あたしが諦めて身を任せると、ルークはあたしの頭を優しく撫でた。

「――クロードかマイトを常にそばに置いておいたのは正解だったね。二人きりになってしまったら、自分を抑える自信がない」

「が、頑張りなさいよ。あたしを襲ったら、呪うわよ!?」

「呪う、か。それも悪くないかもしれないな」

 ぐらりと視界が動く。あたしは再び台に寝かされ、覆いかぶさるようにルークが姿勢を変えた。

「あたしは良くないわよっ! ってか、話はどうしたのよ、話は!?」

「どうしても彼女を思い出すと、君に触れてみたくなる」

「そういう問題じゃないでしょっ!?」

 ぎゃあぎゃあ騒いでいると、ルークはくすっと笑った。

「……?」

「僕が襲うって、本気で考えているのか?」

「お……思いたくないけど、魔がさすってこともあるんじゃないの?」

 それにこの体勢、身に覚えがあるだけに危機を感じるのだが。

 それにそれに。うっかりここで彼があたしを抱いてしまったら、今期の選出者は神を倒す前にその資格を全員が失ってしまうことになり、非常に困る展開のはずである。ルークが神の交代を望んでいるのであれば、絶対にそれだけは避けたいはずだ。

 ――望んでいない場合、結構危険なんだけど。

「君が彼女に似ているのがいけないんだよ」

「知るかっ、そんな都合!」

 あたしが吠えるように叫ぶと、彼は切なげな表情を浮かべて呟いた。

「――僕は欲に任せて彼女を抱いておけばよかったのかな……?」

「彼女って……先代の月影の乙女のこと?」

 問うと、ルークは静かに頷く。

「抱いていないってことは……やっぱり、あなた、今の神の側近なのね?」

「――もう、嘘をつく必要はないから、全部教えておくか」

 言って、上から退く。あたしを押し倒したのはからかいたかったからか、それとも、本当に触れてみたいと思ったからなのだろうか。ルークの本心は見えにくい。彼が嘘に慣れすぎてしまっているから、伝わりにくいのだろうか。もしもそうなら、悲しいことだと思う。

 あたしは起き上がると、ルークから距離を取った場所にぺたりと座る。手がすぐに届かないだろうギリギリの位置。離れてみたところで本気になったルークを追っ払うことなんて到底無理なんだろうけど、こういうところから油断しないに限る。

「……警戒してるね。良い心がけだ」

「そっちもしっかり自分を保ちなさいよ? ――で、話の続き」

 少し寂しげに微笑むルークに、あたしは話を促す。

「彼女は僕がこの世界で一番愛した人だった。だから、選出者の規則に従い、彼女が選出者になった」

 彼はどこか遠くを見つめ、ぽつりぽつりと語り始める。

 それは、結末のわかりきっている切ない恋物語。

「当時は貧富の差が激しく大規模な戦争があった時代。貴族の家に生まれた彼女は家を守るために生まれたときから許婚がいるような身分の娘で、僕は彼女の家を守る兵士として長年仕えていた家の息子として育てられた。もちろん、養子だったがね。僕に流れる膨大な魔力が魅力的だったのだろう。しかしそんな身の上はさておき、僕は彼女を守るため、戦闘訓練ばかりの日々を送っていた。――そんなある日、神の側近から神の使いであることが知らされ、選出者として彼女を差し出すように言われた。拒否するなら、その場で殺すとまで告げられ、守るために僕は彼女を選出者にした。理不尽な思いを抱えたまま」

 怒りを思い出したのか、彼は奥歯をぎりっと噛み、端正な顔を歪めた。そして同じ口調のまま続ける。

「彼女は自分が女性であることを非常に嫌悪している方だった。自分が男であれば親の言うことに従って結婚させられることもない、自分の道を自分で選べる、そう考えていらっしゃったのだろう。そんな彼女に僕は、神を倒して新たな神を招くために一緒に出ていかないかと手を差し伸べた。決められた日々を送ることに退屈さを感じていた彼女が、今まで見せなかった嬉しそうな笑顔を浮かべて僕の手を取ったのを、今でもはっきりと覚えているよ」

 いつの間にか声に優しさが溢れていた。ルークのそんな声を聞くと意外だと感じるのとともに、その一面を出せないようになってしまった出来事の残酷さが想像できる。彼は決して元から冷たくて残忍な内面を持った人間ではなくて、優しくて温かな人柄だったのだろう。今、目の前で語る彼のそれが演技であったとしても、あたしはそう信じたい。

 あたしは何も言わず、ただルークの話に耳を傾ける。

「運命は残酷で、他の選出者と対峙することなく僕たちだけが残ってしまった。戦争が、他の選出者たちの命を奪ったのだ」

「!」

 ――戦争が……?

 どれほどの戦いだったと言うのだろうか。他の魔導師よりも長けているだろう神の使いがそばにいたにも関わらず、守れないだなんて。

 絶句していると、ルークは続ける。

「それを知った彼女は、今の神を倒し平和な世界を維持できる神を産むと決めた。戦争と貧富の差があるこの世の中では、誰もが幸せになれないと考えたのだろう。戦争の前線に立つことこそなかったが、僕とともに各地を回って見てきた人々の様子や、自身が感じてきた不満からこのままでいいはずがないと思ったんじゃないかな」

「じゃあ、死ぬとわかって、彼女は神を産んだの? あたしの知る、今の世界を作るために」

 あたしの問いに、彼は首を横に振る。

「騙されたんだ」

「騙された?」

「神の側近にね。――神を産み落とすことさえできれば、選出者から解放されて普通の生活に戻れる、そう聞いていたのに、彼女はそう信じていたのに……」

 ふと、選出者に任命されたときのことを思い出す。彼は、神を産み落とせば恋だの愛だの自由にしろと、そんなことを言っていた。そんな感じでそそのかされたというところだろうか。

「彼女は神を倒す前に言った。戦争のない平和な世の中になったら、ルークのお嫁さんになりたい。家を黙って出てきてしまった以上、戻るわけにはいかないのだから、責任を取ってくれ、と。互いに愛を語ることがなかった中で、たぶん、それが彼女の精一杯の想いの伝え方だったんだと思う。――そして、神を倒し新たな神を産み落とした彼女は、僕の手の中で冷たくなっていった。彼女が望んだ世界に、彼女の姿はなかったんだ」

 すっと、ルークの整った顔に一筋の雫が伝った。

「大抵の欲しかったものはすぐに手に入れることができたのに、一番欲しかったものだけ手にすることができなかった。彼女は僕に思いを打ち明けたのに、僕は何も伝えることができなかった。――こんな理不尽なことって、あるか? 彼女が望んだ世界を守るために、彼女のいない世界でずっと存在し続けなければならない僕の孤独を、誰がわかってくれるんだよ?」

「――だからって、あたしや他の選出者たちに同じ思いを抱かせようとするのは愚行だと思うわ」

「じゃあ、君は僕に救われるなと言うのか?!」

「違う」

 答えて、あたしはルークに近付くと、そっと抱き締めた。

「――もう、だいぶ楽になったんじゃないかしら? ずっと、聞いて欲しかったんでしょう?」

 あの涙は、悔しくて流れたものではない。彼女を想い、流した涙だ。だから、とても綺麗に見えたんだと思う。

「ミマナ……?」

「あなたを解放してあげるわ。先代の神の側近が邪魔しにこないところを見ると、神が代替わりした時点で側近としての役目が終わるってことでしょ? こんなところでそんな思いに縛られていないで、もっと自由に生きなきゃもったいないわ」

「だ、だが、神を倒し、新たな神を産み落とせば、君は――」

「そんな規則、あたしが壊してやるわよ」

 あたしはルークから離れて正面に立つと、ぐっと拳を握り締める。

「あたし、マイトとクロード先輩に言わなきゃいけないことがあるし、一緒に町に帰るって約束してるのよ。破るわけにはいかないでしょ?」

 そう。あたしには帰るべき場所がある。伝えたい思いがある。あたしは死ねない。死ぬわけにはいかない。

「だから、必ず死ぬんだぞ? そんな希望を持つよりも現実を見るべきだと言っているんじゃないか!」

「甘く見るんじゃないわよ!」

 あたしは両手を腰に当てて胸をそらせる。

「あたしには幸運の女神様がついているの。そんな切ない終わり方、あたしには合わないわ」

 きっぱり言ってやると、ルークは呆れたと言わんばかりの表情を浮かべる。

「まったく……僕の人生で最大の親切心に耳を傾けないとは、残念だ」

「未来に対して悲観したくないの。希望に満ち溢れた明日が来るべきだわ」

 それに。

 あたしには思うところがあった。前任の月影の乙女がそのような末路を辿ったのなら、ひょっとしたら、可能性があるような気がするのだ。

「もう勝手にしろよ。今の君なら、神を倒すことは容易じゃないかな」

 言って、ルークは一つの通路を指す。

「その先にある部屋に、神はいる。――いや、ある、と言ったほうが正確かもしれないが」

 ――ある?

 彼が言い直したその理由を問おうかと思ったが、行けばわかることなのでただ頷く。

「わかったわ。――ありがとう。ルーク」

 あたしは背を向けて、示された通路へと足を向ける。

「そうだ。ミマナ?」

「ん?」

 通路に入る直前で、あたしは呼び止められて振り向く。

「彼女が望んだ世界は、君にとって素晴らしいものだったか?」

「そうね――悪くない世界よ。あたしは素敵な世界だって思うわ」

「……良かった。僕が守ってきたこの世界が、君にとって良いものだったのなら、少しは報われた気がするよ」

 吹っ切れたような、ほっと安堵したような表情を浮かべるルーク。彼のそんな顔を見ることができて良かったと思う。

「じゃあ、あたし、行くね」

 手を振って、振り返してくれたのを横目に見ながらあたしは通路に足を踏み入れたのだった。



 ――ルークは変なことを言っていたけど、どういうことなんだろう?

 神はいるのではなくあるのだと言う意味合いの台詞。そして、今のあたしならば倒せるとも告げていた。

 ――最初に会ったとき、ルークはあたしに対して、勝つことはできない、生き延びるのが精一杯だ、と評価していたはず。あの時と今では何が違うっていうのかしら?

 通路を歩き続けていると、広い空間に出た。そこは自分がさっきまで寝ていた場所に似たような球状の天井を持つ真っ白な部屋。四方を支える太い柱が見える。そんな部屋の中央に台座があり、さらにその上に棺らしき箱が置かれていた。

 ――何かしら?

 真っ白な石のようなものでできた棺にあたしは近付く。そのほかにとりわけ目立つものがないのだから、その中を覗くくらいしかやることはない。

 棺には蓋がなくて、あたしの胸の位置くらいにその縁はあった。そこに手を掛けて中を覗き込む。

「!?」

 驚いて、あたしは思わず離れた。

 ――なんだったの? あれは……。

 棺の中にあったもの、それは一体の人形。

 ――いや、人形じゃなくて……。

 あたしはゆっくりと思い出す。

 やわらかそうな金色の髪、象牙色の肌。閉じられた瞳に長いまつげ。鼻筋が通った美少女だ。細く長い四肢、成長しきっていない幼い身体を包むものは何もない。眠っているかのように横たわっている全裸の彼女には、しかし身体のいたるところにひびが入っていた。

 ――ここにいるのが神様ってこと?

 ルークが「いる」のではなく「ある」と表現した意味が、なんとなく理解できた。

 ――ってか、これって、あたしがどうこうしなくても既に死んでいるんじゃ……。

 あたしがもう一度覗いてみようと手を棺の縁に置いたとき、異変が起きた。

『――お前が今期の月影の乙女か?』

 男とも女とも区別のつかない奇妙な声。様々な声が重なっているかのようなその声がどこから聞こえてきたのかわからなくて、あたしはきょろきょろと辺りを見回す。

「そ、そうですけど……あなたが神様? ってか、どこにいらっしゃるんですか?」

 人影はない。気配も感じられない。真っ白なこの不思議な空間にいるのはあたしと、棺の中の少女だけ。

『ワタシの器はそこにある。――力を維持できなくて使い物にならないがな』

 言われて、あたしは少女の人形を見る。眠ったままの少女が動いた形跡はない。

『人は喋るときに相手を認識できないと不安に感じるらしいからな、これまでその器を使っていたのだがこの有様だ。ゆえに直接お前の意識に干渉して声を届けている。慣れないかも知れないが、このまま続けさせてもらう。良いな?』

 淡々とした感情のない声は、きっぱりと言い切った。

「構わないわ。――しかし、ずいぶんと弱っているみたいですね。あたしが直接手を下さなくても、消えてなくなってしまいそうじゃないですか」

『そう見えるか?』

 あたしは黙ったまま頷き、棺の中を見つめる。

 微笑みの表情のまま眠っている少女の肌に刻まれている無数のひび割れ。それが痛々しいを通り越して、無機質な人形であるかのような印象を与えているのだから不思議な気がする。

『確かにこのままでは消滅するだろう。そして、ワタシの消滅と共に今の世界も同時に消滅する』

「消滅って……あっさり言ってくれましたけど、それ、困りますからっ!」

 どこに向かって話しかければいいのかよくわからない。あたしはしぶしぶ棺の中に向かって叫ぶ。

『今の世界を作ったのはワタシだ。そのワタシがいなくなれば、今の世界を維持する者がいなくなり、従って世界は消滅する。自然の道理だ』

 ――なるほどね。だから創造と破壊の神様なのか……。

 この世界を創った神様は創造神でもあり破壊神でもあると言われている。てっきり神様自身は残り続けているのだと思っていたけど、実際はそういう仕組みじゃなくて、神様と共にその世界が創られて滅びていくだけだったというわけだ。

 ――どっちにしても、あたしは困るのだが。

 あたしは返す。

「自然の道理だろうと、あなたの意志だろうと、そんなのはこの際どうでもいい。あたしは今の世界が消えてなくなってもらうわけにはいかないんです! どうにかならないもんですか?」

『お前はワタシを倒しに来たのではなかったのか?』

 どこまでも感情の起伏が読み取れない声だ。あたしの頭に響く声に、首を横に振って続ける。

「倒すだなんてとんでもない。あたしは今の世界が続くことを望んでいるの。中には変わって欲しいって考えている人がいるかもしれないけど、今のままで充分だとあたしは思うのよ。――完全に平和でみんなが幸せっていうわけじゃないことは、知識として持っているわ。体感していないからこそ、こんな無責任なことが言えちゃうのかもしれない。でもあたしは今の世界であって欲しいの。消えてしまうのは困るし、変わってしまうのも困るのよ。だから、どうにかできないんですか?」

 あたしの必死の説得に、しかし神は。

『――お前は珍しいな』

 笑ったのだろうか。何を考えているのかわからない口調でそんなことを言われても、あたしはどのように取ったら良いのかわからない

『今の世界の存続か。なるほど。ワタシが引き継いでいる記憶には、そんなことを告げた選出者は一人たりともいなかったな』

「一人も……?」

『そうだ。皆一様にそれぞれの不満を持ってここに現れた。個人的な望み、社会的な望み、ある国を代表しての望み――そのすべてがワタシを否定するものだった。誰かの望みで作られたワタシを、誰かの望みによってワタシが作った者に否定される、その連続だ』

 誰かが良かれと思ってしたことが、他の誰かにとっては都合が悪いこと。みんながみんな幸せになることは、とても難しい。

 ――でも……良いことだと思ってしてきたのに、それを毎度毎度否定され、殺され死にゆく神という存在は、どれだけのつらさを抱えることになるのだろうか。

『だが……こういうこともあるのだな。先代の選出者の望みを肯定する者に出会えるとは』

「必ずどこかにはいるわよ。否定するためにあたしたちは生まれてくるわけじゃないもの。この世界の一員として、あたしたちは生まれるのよ」

 あたしはこの世界が好きだ。あたしが知っていることなんてほんの一部なんだろうけど、だとしてもあたしはそこで幸せを感じているのだ。他の誰かがこの世界を否定したとしても、あたしが肯定していることは揺らがない。無知だからこそ言えることだとしても、胸張って答えてやる。あたしはこの世界が続くことを望むと。

「神様、お願いします。この世界を存続させる方法があるなら、やってください。この今の世界を守って!」

 あたしが一生懸命になって訴えると、棺の中の少女が目を開けた。

「――ならば、ワタシを受け入れることができるか?」

 ゆっくりと上体を起こし、少女はあたしを見て訊ねる。

「ワタシのすべてを取り入れて、新たな神を産み落とせ。ワタシのすべてを受け入れることができれば、おそらく今の世界を維持できる。ワタシを否定すれば、その影響は世界に及ぶ。――お前にできるか?」

「あたし以外に誰がやるって言うのよ。やるしかないんでしょ?」

 そのためにあたしはここに来たのだ。世界を変えずに済むのなら、あたしの帰りたい場所を守れるなら、それをしないわけにはいかない。

 あたしが答えると、少女は続ける。

「お前の命に関わるかもしれないが、その覚悟はあるか?」

 ――死ぬかもしれない。

 自分の死を意識して、マイトへの気持ちに気付いたことを思い出す。彼に想いを伝えなきゃいけない、一緒に故郷に帰らなきゃいけない。だって約束したんですもの、必ず町に戻るんだって。

 だから、あたしが生まれ育ったあの町が変わってしまうのは困るし、もちろん死ぬのもお断りだ。マイトと、クロード先輩と、ちゃんと全員一緒に町に戻る。そのためにあたしはここで踏ん張らなきゃいけない。

「世界の崩壊まではまだ時間はある。滅ぶそのときが来るまで、お前が望むように生きることも選択できるのだぞ?」

 神様の甘い囁きに、あたしは首を横に振る。

「共に滅んでどうするのよ。それに可能性があるのに何もしないだなんてあたしにはできないわ。あたしはその運命に対して否定してやるわよ」

「お前の強い意志を理解した。ならばワタシを受け入れて倒し、新たな神へと継ぐが良い」

 少女の人形はそう告げると、その細い指先であたしの顔に触れて固定し、口付けをした。触れた冷たい感触を認識すると同時に、砂で作った城が風で崩されていくように少女の人形があたしに触れた部分から消滅していく。

『示してみろ。お前が望む世界を維持するために』

 頭に響く声。それと入れ替わりにあたしの中に様々な情報が一気に流れ込んでくる。

 ――これって……。

 見たこともないあちらこちらの景色が目の前に広がり、いろいろな言語による話し声や歌が聞こえ、嗅いだことのない複雑な匂いが次から次へと香り、苦味や甘味といった複数の味が一度に押し寄せ、暑さや冷たさ、痛みなどが全身を駆け巡る――。

 自分の意識がかき消されてしまいそうだ。処理しきれないほどの入力に、果たしてこの身体が耐えられるものなのか。

 ――負けちゃいけない……。

 埋もれていきそうになる自分の意識を、あたしはひたすら繋ぎとめるべく集中する。

 ――あたしが、頑張らなくちゃ……。

 自分を保とうとしているはずなのに、自分という境界線がぼかされて見えなく、感じなくなっていく。世界と一体になっているというのだろうか。喜び、怒り、楽しみ、悲しみ、嬉しさ、辛さ……そんな感情がない交ぜになって流れ込んでくる。感覚のあらゆる機能が刺激されて、自分が何者なのか次第にわからなくなっていく。

『世界の一部でしかないお前に、果たしてこの世界のすべてを受け入れることができるかな?』

 男とも女ともつかない神様の声が聞こえたような気がした。

 あたしにはできないのだろうか、そんな不安な気持ちに支配されていく。

 ――あたしが、やり遂げなくちゃ……いけないのに……。

『諦めろ。他の選出者たちと同様にワタシを否定するがいい。己の小ささに、己の浅はかさに絶望してすべてを捨てろ』

 神様の誘惑に、世界を否定することで自分を認識し直そうという意識が向き始める。

 ――でも。

 移ろう感情を自ら否定し、あたしは強く思い描く。

 ――これはあたしだけの意志じゃない。マイトもクロード先輩も、この世界が消えてなくなることは望んじゃいない。ルークだって、彼の愛した人の思い描いた世界をあたしが壊す未来だなんて望んじゃいない。

 だからこそ、あたしは――。

 何かが触れたような気がした。温かで安らげる大きな手。

「――だからお前さ、なんでも一人で抱え込もうとすんなよ」

 ――マイト……?

 流れ込んできた情報の量が軽減される。その所為だろうか。視界が安定して、あたしはマイトが自分の手にその大きな手のひらを重ねているのがわかった。

「一人できついって言うなら、俺を頼ってくれても良いだろ?」

 マイトの困ったような、そして苦しそうな顔が目に入る。あたしに流れ込む情報の一部が彼に流れて行っているのだろう。

「まったく、その通りですよ。ミマナ君。あなたって人は」

 さらに重ねられる細くて長い指を持つ手。その手の持ち主に視線を向けると、見知った眼鏡の青年の姿を捉えた。

 ――クロード先輩……。

「反則技かもしれませんが、とにかくミマナ君には耐えてもらわないといけませんからね。協力させてください」

 クロード先輩はあたしに優しく微笑みかけ、やがて眉を苦しげにひそめた。

 ――ありがとう。二人とも……。

 あたしは両の瞳を閉じ、感じるすべてのものを受け入れるべく心を安定させ集中する。それがどんなに困難なことだろうと、あたしは諦めない。だって、あたしは一人じゃない。支えてくれる人のために、支えたいと思う人たちのために、あたしはあたしの知る世界を絶対に守るんだ。

「――神様、あたしはあなたを否定したりしない。受け入れて、引き継いで見せるよ。もう絶望したり悲観したりする日々ばかりをあなたに与えるようなことはさせないわ。だって、あたしが知っている世界にはもっと素晴らしいものがたくさんあるんですもの」

 あたしは二人の顔を見て、そして強く念じる。

「あたしを信じて、生まれ変わって!」

 部屋を真っ白な光が包み込む。熱が身体を飲み込んでいく。

『――信じろ、か。世界の一部でしかない小娘を、世界そのものであるワタシが信じろと……』

 かすれ、消えていきそうな神様の声。

『だがそれも……あるいは面白いのかもしれないな……』

 神様は微笑んだのだろうか。あたしには、棺の中の少女の幸せそうな笑顔が浮かんでいた。

 ――大丈夫。あなたを受け入れようとしたのはあたしだけじゃないんだから。

 光が止み、あたしは自分が何かを抱えていることに気がつく。目をゆっくりと向けると、あたしはそこに存在する小さな生命の姿に息を呑んだ。

 一人の女の赤ん坊がすやすやと気持ち良さそうに眠っていた。

「……本当にミマナが生んだみたいだな」

 マイトが赤ん坊を覗き込んで感想を述べる。感動というよりも、驚きが先に立っているような反応だ。

「新しい神様ですね」

 クロード先輩も赤ん坊を見て、不思議そうに告げる。

「オレはこの子の面倒を見るわけですか」

 神の使いだったクロード先輩は、あたしが神を産み落としたことで神の側近になる。つまり、この赤ん坊の面倒を見るのはクロード先輩というわけだ。

 クロード先輩は顔を上げてあたしを寂しげに見つめる。

「――これであなたとはお別れですね」

 ――言うと思った。

 あたしは赤ん坊をぎゅっと抱き締めて一歩下がる。

「お別れだなんて、冗談じゃないわ」

「ですがオレは、新しい神の側近となって――」

「ふざけんじゃないわよ!」

 クロード先輩の台詞を遮って、あたしは怒鳴る。きょとんとするクロード先輩。マイトもびっくりしたらしい顔をあたしに向けている。

「あたしはあなたにこの子を渡さない」

「えっ、あっ、ちょ……なんですって?」

 宣言してやると、クロード先輩は珍しくたじろいだ。

「神様を連れて町に帰るわ」

「お、おい、ミマナ、それってちょっとまずいんじゃ……」

 割って入ってきたのはマイト。どこまで事情を察しているのかはわからないが、神様を連れて帰ることがどんなことなのかを彼なりに想像してみたのだろう。

 あたしは続ける。

「まずいことなんてあるもんですか。神様にもあたしが知っている素敵なこと、素晴らしいことを理解してもらわなくちゃ。せっかくこの世界と共にあるんだから、自分の目で良いところ悪いところを感じ取ってもらわないとね。選出者にけなされてばかりで傷つく神様なんて、どんだけ悲しい存在なのよ。それはあたしが認めない」

 毅然として告げると、クロード先輩があたしの前に立つ。

「しかしこの『選出者』の制度が変わることはありませんよ、ミマナ君。誰かが神を育てる必要がある。世界を維持するために、支えていく存在が必要不可欠です。それが神の側近という存在であり、オレの役目。あなたはオレの存在意義を奪おうとしているんですよ? わかっていますか?」

「そんなのわからないわよ」

 あたしはクロード先輩の目を真っ直ぐに見つめる。

「だって、クロード先輩はクロード先輩なんでしょ? あたしが知っている、ちょっぴり変わり者で、学校創立以来の秀才で、どんなに嫌な目に遭っても他人を悪く言わない優しい先輩なんでしょ? 存在意義のために、自分のやりたいことを、あなたの望みを捨てることはないんじゃない?」

「ですから、これはそういう問題じゃなくて、ですね――」

「うるさいわよ、クロード先輩。あたしはこれまでの『選出者』の制度を否定するわ。地上の人間なり何なりに話を聞いて判断させて世界を変えるのも悪くないかもしれないけど、その都度誰かが犠牲になるだなんて切なすぎるでしょうよ?」

「あなたは神様にでもなったつもりですか?! そんな簡単にできるわけが――」

 そこまで言って、クロード先輩は黙り込んだ。視線があたしの後方に向けられている。

「……どうして?」

 ぽつりとこぼれた台詞。あたしは自分の後ろにいるだろう人物に身体の向きを変えて迎える。

「生き残ったみたいね、ルーク。気分はどう?」

 その問いに、様子を伺いにここに来たらしい黒尽くめの男、ルークは肩を竦めた。

「僕を先代の選出者の元に導いてくれるんじゃなかったのか? 話が違うじゃないか」

「せっかくだから、彼女が望んだ世界を満喫していきなさいよ。愛する者のいない世界で長々と生きるのは真っ平御免みたいな感じはしたけど、自分の任務から離れて、自分の視点で世界を見て回った方が良いと思うのよ。彼女だって、知って欲しいんじゃないかってね」

「余計なお世話だ」

 面白くなさげに答え、苦笑する。この処遇について満更でもないように感じているんじゃないかと推察してしまうのは、あたしの悪い癖だろうか。

「――そんなわけよ、クロード先輩。規則は変えられるわ。ただ、誰も変えようとしなかっただけ。世界を変えることができるように、ここの規則も変えられるってことよ」

「ど、どういうことですか? ルークさんっ!?」

 納得できないらしい。クロード先輩はあたしではなくルークに問うた。ルークはやれやれといった様子で返す。

「彼女に味方する幸運の女神様が、そこにいる神様だったってことなんだろうね」

「……」

「どんだけの強運持っているんだよ、ミマナ……」

 ルークの出した結論に、クロード先輩は絶句し、マイトは呆れ気味に言葉を漏らす。

 そしてあたしはというと。

「みんな一緒に帰りましょ。町のみんなが待っているわよ?」

 満面の笑顔で号令をかけるのだった。


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