長い夜に
時間はけして戻らない。
鏡のような水面がゆらりと揺れた。
空で輝く丸い月が、水面のうえで波打つように形を変える。
風も吹いていないのに、と不思議に思って池を覗き込んだ、その時。
見えない腕に引かれたように、水の中へと落ちてしまった。
かしゃ・・・ん。
鏡が砕けるような水しぶきがあがり・・・次第に水面はもとの滑らかさを取り戻す。
何も、変わったことなど、なかったように。
“魔法屋シェル”の放浪店主矢萩は、鼻唄まじりに歩いていた。月の明るい夜だった。地面に濃い影が落ちるほどの。夏はそろそろ行こうとしていて、気の早い秋の虫の音が草むらから聞こえていた。
矢萩は仕入れの帰り道だった。途中立ち寄った居酒屋の“青猫亭”で軽く呑んだせいで、浮かれたいい気分で足取りも軽い。首の後ろで無造作に束ねられた白髪が、獣の尻尾のように、ひょこひょこと揺れている。
仕入れた品物が掘り出し物だったせいもあるし、趣味のお茶もとても良いものが手に入ったせいもある。
もっとも、孫の伊吹に言わせると、「仕入れの方がついででしょ~」と言うことになるが。
さわさわと梢や丈高い草を揺らす風は涼しく、少し火照った頬には気持ちよかったので、矢萩は、
「あと少しで店に着くね~ふう、よっこいしょ」
よいせと背中に背負った荷物を背負いなおすと、(この荷物、実のところ店用に仕入れた品ではなく、趣味のお茶っ葉である。仕入れた品は一足先に配送してもらっていた)うきうきと独り言の続きを言った。
「ふふふ、いいお茶も手に入ったし~。うさぎと、あと伊吹にもお茶につきあってもらわなきゃね!」
伊吹が聞けば、確定事項ですかじいさま・・・非常に遠慮したいと抗議の声が上がること請け合いだが、矢萩はこれっぽっちも気付いていなかった。自分の楽しい事は、相手にとっても楽しいのだと、疑わない。
「あと、梢くんのとこにもお裾分けしないとね~いつも美味しいお茶淹れてもらってるし」
街の西の端で、喫茶店“カレント”を営んでいるマスターの、穏やかな笑顔が浮かぶ。そしてお裾分けのついでに、この茶葉でお茶をいれてもらおうと目論んでいた。
お茶好きの割には、自分でお茶を淹れるのは、てんで下手な矢萩なのである。
いい気分で、てくてくと歩いている時。目の端で、何かがきらきらと光った。
「あれえ?」
何の光だろう、ここには灯りなんかないのに。足を止め、矢萩はきょろきょろと辺りを見回した。すると目の前の空間が、ゆらりと水のように揺れ・・・周りの風景がぐにゃりと歪む。虫の声もぴたりと止んでしまった。
すぐに凪いだ水面のようになった。
鏡のような水面は、鮮明に像を映し取る。しかし、そこに映っているのは、矢萩ではなかった。
短髪で、眼鏡をかけた・・・見知らぬ青年だった。
「あれえ?」
再びゆらりと空間が揺れた。映った像は消えることなく、なんとこちら側・・・矢萩の方へと現れたのだ・・・実体をともなって。
青年は、乾いて白っぽくなった道へ倒れこんだ。そこで矢萩は我に返り、慌てて青年に近づく。
「きみ、大丈夫かい?」
体を揺すってみても、青年は目を開けなかった。怪我をしている様子はないし、呼吸も苦しげなものではないが、どうしたものかと矢萩は首を傾げる。
「おや・・・ああ、このお人のものかな」
かつんと何かを蹴った矢萩が地面を見ると、縁のない眼鏡が転がっている。おそらくこの青年のものだろうと、胸ポケットに仕舞った。
ふう、と矢萩はため息をついた。いつの間にか戻ってきた虫の声が、とても賑やかに聞こえてきた。
「どうしようかなあ?」
のんびりと、しかし、どこか楽しげなそれを、聞いたのは高みから見下ろす、明るい月だけだった。
ひとの気配。頭の上で交わされる会話。湯気。お茶の香り。一つずつ、感覚が鮮明になってくる。
眠っていたのだろうか。いや・・・眠った記憶はないんだけど。
目を開けてみても、視界はぼんやりとして頼りなかった。目を擦ってみても、視界は変わらない。
ああ、眼鏡をかけていないからだ。
体を起こして、ぼんやりしていると、横からはいどうぞと眼鏡を差し出された。
これは誰だっけとか、ここは何処だったかとか、疑問がすこしばかり頭を掠めたけど、まずは周りを見てからだと眼鏡をかけて見回してみると・・・案の定知らない場所、知らない人の間に自分はいた。おまけに。
「伊吹、お茶は入ったかい。お客さんが目を覚ましたよ」
と、平坦な声で言ったのが、丸い眼鏡をかけたうさぎ・・・比喩でなく、ふかふかの白い毛を持つ兎・・・だったものだから、ぎょっとして仰け反ってしまった。そういえば、差し出された手が、やけに白いと思ったんだ。
静かに硬直してしまった青年を、うさぎはおや、と目を細めて見下ろしている。
青年が無意識に握りしめた毛布は柔らかく暖かく、その感触がこれが夢ではないことを知らせていた。
どうしようっ。内心焦った青年だったが、それを救ったのは、高い子どもの声だった。
「あ、起きた~?今お茶持って行くね」
そういえば、さっき目の前のうさぎは、伊吹とか呼んでいたっけ。
開け放された扉の向こうから、茶色・・・いや、琥珀色の目の少年がやってきた。手に持ったトレイに、湯気の立つカップをのせている。
「はいどうぞ」
伊吹と呼ばれた少年が、カップを差し出してくれる。躊躇いながらもそれを受け取ると、彼はにっこりと笑った。
「だ~いじょうぶですよ、そんなに心配しなくても」
困惑して、焦っている青年の内心を見透かすように。え、と目を見開いて青年が伊吹をまじまじと見る。
「あなたが何処から来た人か、僕らにはわからないんですけど、でもちゃんとあなたが元居たところへ帰れるってのは、僕らは知っていますから」
だから、まずはお茶でも飲んで、落ち着いて下さいね。
「そうそう、待っていれば、帰ることができる」
必ずね、とうさぎは言いながら隅の丸テーブルへと行き、分厚い本を広げた。
「僕にもお茶くれるかい」
「はいはい、持ってくるから待ってて」
伊吹はひらりと身を翻し、部屋を出て行く。青年はほうっとため息をついた。
とりあえずわかっているのは、“必ず帰れる”と少年が笑って言ったこと。(その理由はわからないけど)
焦っても仕方がないこと。この二点だろう。
頭をかきながら周りを見回してみると、どうやらここは何かの店のようだった。体を起こせば、自分が寝かされていたのは、ベッドではなくて長椅子だった。
棚が幾つも並び、見た事のあるような日用品らしきもの、薬草やお茶のようなものが雑然と並んでいる。そして、青年が見たことのないようなものも。一体何の店なんだろうと首を傾げた。
伊吹はうさぎにお茶を出したあと、艶のあるカウンターを磨いていた。カウンターの背後には、天井まで届くほどの背の高い飾り棚があって、そこにも見知らぬ形のものが詰まっている。
自分は一体、何処に来たんだろうと思えば、また不安が湧き上がるので、まずは少年の言ったとおり、お茶を飲んで気を落ち着けることにする。
白いカップの中のお茶は、淡い琥珀色で、飲んでみると紅茶の味がした。それに少しほっとする。
「俺の所にもあるお茶に、味が似ているね」
「ほう、君もお茶が好きかな。ここには珍しいお茶があるから、飲んで帰るといいよ」
青年が言うやいなや、それまで本を読んでいたうさぎが目をきらりと光らせ、そんな事を言ってきた。
「は、はあどうも・・・」
突然友好的な態度になったうさぎに、青年は戸惑う。
「無理に付き合うことないよ、お客さん。この人たちにつきあってたら、お腹たぷたぷになっちゃうよ」
「この人たちって、もしかしてぼくのことも入ってる?」
「もちろん」
当たり前でしょ~と伊吹は後ろを振り返りもせずに言う。カウンターの後ろにも扉があって、そこから現れたのは、背の半ばを越えるほどの白髪を束ねた・・・年齢不詳の人物だった。
若いようにも、年を取っているようにも見えた。伊吹と同じ、綺麗な琥珀色の瞳をしていた。
彼は青年のそばに来るなり、にやりと笑った。
「お目覚めかね、お客人」
そして、一呼吸おいて、付け加える。
「ようこそ、我らが世界へ」
月は天高くにあった。
“魔法屋シェル”の放浪店主、矢萩が青年を“どうにかこうにか”連れ帰ってから、それほど時間は経っていないと言う。お茶を淹れなおして、矢萩と伊吹とうさぎ、そして橘と名乗った青年は、一つのテーブルを囲んでいた。
矢萩は言った。
「何やら、こう、きらきらっと光ったなあと思ったら、あんたが現れたんだよ」
揺すっても目を覚まさないから、どうしようかと思ってね、ここに連れてきたんだと。
それは知らぬこととは言え、ご迷惑をおかけしてと、橘が頭を下げると、
「不可抗力って奴だから、君が気にする必要は無い」
そっけない口調でうさぎが口を挟んだ。白い毛で覆われた手には、白いカップ。橘が見た範囲だけでも、すでに4杯目に突入している。確かにコレに付き合えば、茶腹は間違いないだろう。
「そうそう、それにじいさま、無駄に力持ちだからね、きっと橘さん連れて帰るくらい、わけなかったと思うよ」
「無駄とは、また酷い言い草だねえ・・・」
矢萩はしくしくと泣きまねをしたが、伊吹もうさぎも肩を竦めて相手にしない。
橘は、こんなにのんきでいいのかなあと思うが、自分にこの状況を説明してくれた人たちが、自分以上にのんびりとしているので、まあいいんだろうと思う。
いつもの道。いつも通る池の傍。風が無い夜で、水面は鏡のように凪いでいた。水面にくっきりと映った月を見ていた。あかるい満月の光が、反射するかのようにきらきらと光っていた。
と。そこまでが橘が覚えている事だ。そうして気がついたら見知らぬ場所で寝ていて、覗き込んだうさぎに仰天した次第である。
「なあに、そう心配しなくても、月が隠れる頃には帰れるんじゃないかな~いつもそうだから」
矢萩は・・・何と、伊吹の祖父だという・・・事も無げに言い、目の前に落ちかかる白髪を煩げに払いのける。
「いつも、とは?」
「お前さんみたいに、何かの拍子で“こちら”に来るお人は結構居てね、その人らをぼくたちは“お客人”って呼んでいるんだ」
“お客人”あるいは“お客さん”。そう彼らが自分の事を呼んだ意味がわかった。それは、別の世界からの来訪者の呼び名だったのだ。その“お客さん”がどれくらいの頻度で現れるのかと問えば、「まあ、珍しくない程度には」との返答がある。
「あまり長く居ないから、“お客人”ですか」
「そう。長くて一日。短いと数時間くらいで元の世界へ帰る」
惜しいなとうさぎが呟くが、橘には何の事やらわからない。伊吹がこっそり耳打ちしてきた。多分、異界のお茶の事をじっくり聞きたいんだよと。丸眼鏡の奥の目を光らせ、うさぎはこほんと咳払いをした。
「ともあれ・・・これは君にとっては夢のようなものだ」と。
感覚もある、切れば血も流れる・・・夢のような現実だ。けれど、自分が“本来生きる場所”ではないから、“夢のよう”に感じるのかもしれないと。
「たとえば」
手にしたカップを覗き込みながら、うさぎは言う。
「君は自分の居る世界を何と呼ぶ?」
橘は咄嗟に答えられなかった。国や地域を表す言葉はある。けれど、世界そのものを表す言葉は、知らなかった。
「知らないだろう?唯一のものを、わざわざ名前を付けて区別する必要はないからね」
ちなみに。うさぎは付け加えた。
「僕も、僕が住むこの世界を表す言葉を知らない・・・誰も、知らない。だから・・・世界の“名前”は二つしかないんだ。“自分の世界”と“異界”っていうね」
「あるいは」
黙ってお茶を飲んでいた矢萩が口を挟んだ。
「この世界と、あまたの異界っていう区別かな」
「そうか・・・俺の居る所も、あなたたちから見ると“異界”ですね」
立場が反対なら、矢萩たちが“お客人”だ。
窓辺に置いたランプの灯が、風に揺れた。影が大きく揺らめいて、店内の床や壁に複雑な模様を描く。窓の外からは月の光が差し込んでくる。
綺麗だなと、テーブルに頬杖をついて橘はぼんやりと思った。
淡い光、冴えた光は、青い海の底に居るようだ。
鳴く虫の声は、打ち寄せる波の音か。静かな静かな深海の底。
仕事柄というべきか、つい連想的にイメージを膨らませていると、不意に伊吹から声をかけられた。
「ねえ、橘さんは何をやっている人?」
「え・・・ああ、絵を描いているよ」
「そうなんだ。どんな絵?」
「う~ん、そうだね・・・お話の挿絵が多いかなあ・・・」
「へえ、そうなんだ~」
見てみたいなと言う伊吹に、見てもらえる方法があればいいんだけどねと答えて、今度は橘から尋ねてみる。
いささか疑問に思っていたことを。
「ここは“魔法屋”って聞いたけど、一体どんなものを売っているの?」
この質問に伊吹は途端に渋い顔をし、矢萩とうさぎは逆に、にやにやと笑った。橘がしばらく待ってみても、誰も何も答えない。
首を傾げていると、伊吹から「何を売っているように見える?」と問いで返された。
はてと橘はもう一度店の中を見回した。日用品らしきもの、お茶、薬草、雑貨・・・・。
「何でも売ってそう・・・」
呟いた橘に、伊吹は年に似合わない深いため息をついた。
「そう、この店ってば、ほとんどご近所の何でも屋だよ。“魔法屋”って名前はついてるけどね。まあ魔法も売っているから、看板に偽りありとまでは言わないけど」
何でも屋。ああそれなら納得したと橘は思うが、また首を傾げる。そもそも、“魔法”を“売る”という言い回しじたいが、橘には馴染みがないのだ。
「魔法って、売り買いできるものなのか?」
「出来るよ。ほら、これを売るの」
伊吹が見せたのは、綺麗な色の硝子珠だった。それは封印紙が貼られた瓶に入っている。
「瓶詰魔法って言ってね、魔法使いが、特定効力のある魔法を閉じ込めたものなんだ」
「ふうん・・・」
伊吹から瓶を受け取り、物珍しげに橘は瓶をひっくり返したり、灯にかざしてみたりする。
魔法がお伽話の世界に居る橘にとって、それが“瓶詰”で“気軽に”買える世界など、まさに“夢のよう”だ。
「お前さんの世界には、魔法はないのかい?」
「ない、ですね、日常的には」
「と、言うと」うさぎが眼鏡の奥の目を光らせる。
「俺が知らないだけで、世界の何処かにはあるのかもしれない」
そう、もしどこかに魔法があって。
それを使うことが出来るのなら・・・心の奥底で、望んでいたことが。
「ここには・・・時を戻す魔法なんて、ありますか」
『もういい加減にして』
怒りも限度を越えると、氷のように冷えるのかもしれない。そう感じさせるような、冷たい・・・斬りつけるような声が彼女の口から零れた。
『私の言ったこと、ちゃんと聞いてくれてるの?私のこと、見えているの?・・・あなたにとって、私は必要なの?』
じっと見つめる彼女の瞳。
『そう・・・何も言ってくれないのね。それが、答えなのね』
感情をそのまま映す彼女の瞳。まるで猫の瞳のようだと言えば、笑っていた。
背を向けた彼女に、何か言わなければと思った。
彼女が望んでいるだろう、言葉を。そうしなければ、彼女は二度と戻らないことが分かっていたから。
けれど、何も言わなかった。彼女の目が曇り、諦めの色をのせ・・・そして背中を向けられても。
目の前の事に気を取られて、彼女を少し疎ましくさえ思っていたから。
本当に大事な事は何だったのか。
大事なことを、そうと気付く前になくしてしまった。
彼女の顔がもう思い出せない。覚えているのは、最後に見た、吹雪の夜のような・・・冷たい色の瞳だけ。
その色が、心に焼き付いて消すことが出来ない。
もしも時を戻せるのなら。
あの時から・・・やり直したいのに。
言えなかった・・・言うべきだった言葉を、伝えたいのに。
ぱりん、しゃりん・・・。
耳元で、硝子の砕けるような音を聞いた。はっと橘は目を瞠る。眠っていたわけではない。
けれど、先程まで見えていたものは・・・。
「お前さんの戻りたかった時間へは、行けたかね」
床に転がった珠を拾い上げ、矢萩は尋ねた。珠はどこも欠けていない。ならばさっき橘が聞いた音は何だったのだろう。透明だったはずの珠は白く曇っていた。
「あまり、いい記憶ではなさそうだね」
そうも言われて、橘は苦笑を返した。
時間を戻す方法はないかと尋ねた橘に、「望みの時間へ戻る魔法はある」と矢萩は答えた。だがなあ・・・と腕組みをして難しい顔をする。けれど、しばらくして、まあいいかと一人頷いて席を立つ。そしてカウンターの背後の飾り棚を開け、一つの硝子珠を取り出してきた。
それを橘の手のひらにのせた。
拳大の珠は何処までも透明で、月の光をきらりとはじいた。
「これが“時の魔法”の力がこめられた珠。戻りたい時間でもあるのかい?」
その言葉に、迷わず頷いた橘に、あっさりと矢萩は言った。
「そう・・・なら、行っておいで。君の望むままに」
お代はあとで、ちゃんと貰うからね?目を細めて言った矢萩に、もう一度頷いて、橘は“望んだ時間”に“戻った”のだった。
「やっぱり、時を戻すことは出来ないんですね」
曇ってしまった硝子の珠を、手の中で転がしながら、橘はちいさく笑う。
透明だった珠が曇ったのは、こめられた力を使い果たしたからだとうさぎが言った。
「時は流れるもの。同じ流れは二度と来ない。過ぎ去った時を垣間見る事は出来ても、その流れを変えることは出来ない」
それから、とうさぎは言葉を継いだ。“時の魔法”はそもそも、過ぎた昔を懐かしむためのものだった。けれど。
「けれど、君のように、過ぎた時間をやり直そうと、“時の魔法”を使う者は後を絶たないんだ・・・変えられないとわかっていても」
万が一の望みをかけて。
だから、矢萩は「君の望むままに」と言ったのだろう。過ぎた時は変えられない。掴んだと思っても、手のひらから零れる水のように。
「あきらめがついたかい」
うさぎの声はそっけない。
「ええ・・・ええ、そうですね」
苦笑して答えながら、橘はふと疑問に思った。自分の“過去”が、矢萩たちにも見えていたのだろうか。そう問うと、
「ぼくたちは何も見てないけどね・・・ただ、“時の魔法”を買うのは、過去に悔いのある者と相場が決まっているんでね」
と矢萩は肩を竦めて答える。お見通しのうえで、あえて“時の魔法”を渡してくれた、その意図がもう橘にもわかっている。だから、
「ありがとうございました」
と礼を言うと、
「礼を言われるほどの事はしてないさ」と
白髪をかきまわしながら矢萩は言った。そして、少しうきうきと楽しそうに言う。
「さて、お代は何で払ってもらおうかな」
「って、俺何も持っていませんよっ」
「大丈夫、あちらから送ってもらう方法はある」
にんまり笑いながら、矢萩はうさぎにも相談を持ちかけた。
「何がいいかな~やっぱり~」
「やはり、アレがいいだろう」
「じいさま、僕には聞いてくれないわけ?」
「ぼくのお客だから、ぼくの好きなもので払ってもらうよ」
「それって~・・・」
やれやれ、と伊吹は呆れた顔をした。何を言われるやらと身構えた橘に、にやりと矢萩は笑った。
「お代は美味しい紅茶でいいぞ。向こうに着いたら送ってくれや」
月が山の端に沈む頃。弱まった月の光が、何かに反射してきらきらと光った。おう、そろそろ帰る頃合のようだなと矢萩が呟いた。目の前の空間が歪んだかと思うと、よく磨いた鏡のようになったのだ。お前さんはそこから現れたよ、多分そこから帰れるさと矢萩は言った。鏡のようになった空間を通り抜けると、橘はいつも通る、あの池のそばに佇んでいた。こちらでも、白い月が西の空に沈もうとしていた。
長い夢のような一夜は終わったのだ。
忘れられなかった後悔を道連れにして。
再び月はめぐり、満月の夜。
風はなく、池は鏡のように凪いでいた。橘があの世界へと行った日のように。
その水面に向かって、橘は約束の“お代”を投げ入れる。あちらの世界の人たちへと届くと信じて。
水面の月が粉々に砕け、元に戻る、ほんの僅かの間に。
音も立てず、“お代”は水の中へ沈んでいった。
「こんちわ~、橘、依頼してた絵、出来たか~?」
ある日の午後。仕事として依頼されていたイラストを、友人でもある編集者が受け取りに来た。出来ているよと答えながら、いつものように仕事場へと通す。丁度仕事が一段落したところだったので、休憩しようと自分の分もコーヒーを入れて仕事場へと戻る。先に仕事場へ入っていた友人は、床や机に散らばる描きかけの絵を見ていた。
「はいコーヒー、と、こっちが依頼の絵」
「はい確かに受け取りました、と。へえ・・・いつもとちょっと違う感じだけど、ナンかいい感じ」
そう言って、友人は汚したりしないようにと絵を離れた所に置いた。そしてコーヒーを啜りながら、「それでこっちは何、どこかの依頼?」
友人が指したのは、机の上に乗っている、まだ絵の具も乾いていない絵だった。
青い、海の底にいるような光の中、雑多なもので溢れかえった何かの店。
テーブルを囲む人たち。お茶会でもしているのか、テーブルの上には茶器。
笑い声さえ聞こえてきそうな、穏やかで暖かい絵だった。
「いや、依頼じゃないよ。描いてみたくてさ」
割と気に入った出来になったよと言った橘と、絵を見比べながら、友人は尋ねた。
「タイトルとか、決めてんの?」
「うん・・・そうだね・・・」
カップを手に、橘は小さく笑った。たとえば。
「“長い夜に”」
明るい月に誘われてか、虫の声が賑やかだった。けれど。ふと、それが途切れた。
「おや」
カップをソーサーに戻し、矢萩は呟く。すると目の前の空間から、水面を潜り抜けるようにして、綺麗にラッピングされた包みが現れた。それはぽすんと矢萩の手の中におさまった。それと同時に、もどってきた虫の声。
「約束の“お代”だね、どれどれ」
矢萩はいそいそと包みを解く。出てきたのは、幾つかの、色々な種類の紅茶の缶。それと、もうひとつ。
「おや、これはまた、嬉しいものをくれたね」
店内で、一番いい場所に飾ろう。思わず口元に笑みを浮かべ、矢萩は伊吹とうさぎを呼んだ。
「異界から“お代”が届いたよ。どれ、お茶にしよう」
“お代”として入れられていたもの。「長い夜のお礼に」と裏に短く書かれてあったそれは。
青い海の底のような・・・月の光に照らされた、“シェル”の店内。
テーブルを囲む、矢萩、伊吹、うさぎ。そして、橘。
テーブルの上には茶器。笑い声が聞こえてきそうな、優しい絵だった。
そして・・・これは橘だけが知っていること。
橘の手元にある同じ絵と、たった一つの違いがある。
それは、彼らに贈った絵にだけ、橘自身を描いたことだった。
楽しかった、夢のような長い夜の礼として。