第5話
“こん、こん”──音は次第に強くなり、舟全体が小さく震えた。
真琴は櫂を握りしめ、俊と目を合わせる。二人とも何も言わない。ただ、底からの圧迫を肌で感じていた。
やがて、水面に小さな波紋が広がった。月明かりに照らされたその中心から、何かが浮かび上がる。
──白い、手。
それは一本ではなかった。二本、三本、やがて十本、二十本と、無数の手が暗い水面を破って突き出される。小さな手、大きな手、しわだらけの手……まるで年齢も性別も異なる人々の手が、底から次々と伸びてくるようだった。
舟がぐらりと揺れる。俊が必死に櫂を振り下ろし、水面を叩いた。
「離れろッ!」
だが手は止まらない。逆に舟の縁にかかり、ぎし、と木が軋む音を立てる。
真琴の足首に、冷たいものが触れた。
ぞっとして下を見ると、水中から伸びてきた手が、自分の足をつかんでいた。水の冷たさではない、ぬめりとした生温かさ。息が詰まり、声にならない悲鳴が漏れた。
「真琴、掴まれ!」
俊が腕を伸ばす。真琴は必死にそれを握り返した。だが次の瞬間、俊の体が大きく引き寄せられた。
無数の手が、今度は俊を狙っていた。肩を、胴を、足を、一斉に掴んで水中へと引きずり込む。
「離せっ! 離せえッ!」
俊の叫びは夜気に吸い込まれ、ぶくぶくと泡が立つ音にかき消された。
最後に見えたのは、水中に沈みゆく俊の顔だった。恐怖に歪んでいるのか、それとも──どこか安堵しているように見えたのか。真琴には判別できなかった。
ひとり残された舟が大きく傾き、真琴は必死に櫂を漕ぎ、岸へ向かう。背後ではまだ、水面から伸びる無数の手がゆらゆらと揺れ、暗闇に溶けていった。