第3話
翌朝、縁側に腰を下ろすと、風鈴の音に混じって蝉の声が騒がしく響いていた。
祖母は麦茶を注ぎながら、真琴の顔を一目見て「眠れなかったんだね」と言った。
「……うん。ねえ、おばあちゃん」
真琴はためらいながら口を開いた。
「昨日、花火のとき……池に変なものを見たの。水面に、人の手が……」
その言葉を聞いた途端、祖母の表情が固まった。しばし沈黙が落ち、蝉の声ばかりが耳につく。
やがて祖母は視線をそらし、低い声で言った。
「……忘れなさい」
「え?」
「見たことも、聞いたことも、全部。池のことは、考えてはいけないんだよ」
その声音にはいつもの優しさがなく、かすかに震えていた。
真琴は胸の奥が冷たくなるのを感じながらも、食い下がった。
「でも……何か知ってるんでしょう? なんでみんな池に近づかないの?」
祖母はしばらく真琴を見つめたあと、ふうと息をついた。
「昔から、この村では言い伝えがある。水を怒らせてはいけないって。それだけさ」
「水を……怒らせる?」
問い返す真琴に、祖母は首を横に振り、視線を池の方へ向けた。
「詳しいことは、私も知らない。けれど、池を覗き込む者は、みんな帰ってこなかった……そういう話だよ」
言い終えると、祖母は立ち上がり、台所へと消えていった。
縁側に残された真琴は、湿った夏の風に吹かれながら、昨夜の光景を思い返していた。
──あの小さな手は、果たして「怒り」だったのか。それとも「助け」を求めていたのか。