第1話
蝉の声が、山の谷間にこだましていた。
真琴は窓を少し開け、流れ込む熱気に顔をしかめる。八月の終わり、都会より涼しいはずの祖母の村も、昼間は容赦なく暑かった。
バスの車窓から見えるのは、緑に覆われた山と、その間にぽっかりと開けた貯水池だった。光を受けて鈍く光る水面は、どこか重苦しく、真琴の記憶にあるよりもずっと濃い色をしているように見えた。
──池の中央には近づくな。
子どもの頃、祖母にそう言われたことがある。理由を尋ねても、「昔からそう決まってる」としか答えてくれなかった。
バスが停留所に着き、真琴は小さな集落の中に降り立った。木造の古い家々、道端の石灯籠、軒先に吊るされた風鈴の音。どこか懐かしい光景に包まれながらも、胸の奥にひやりとした違和感が残る。
祖母の家に着くと、縁側で涼んでいた祖母が迎えてくれた。白髪をきっちりまとめた姿は昔と変わらないが、その表情はどこか硬い。
「よく来たねぇ。……まあ、今年は暑いから、池の近くには行かない方がいいよ」
挨拶もそこそこに、祖母はそう言った。
夕暮れ、幼なじみの俊と再会した。村に残って暮らしている彼は、麦わら帽子をかぶり、日焼けした笑顔を見せる。
「今夜は花火大会だ。池のほとりでやるんだよ」
そう言う俊の声に、なぜか真琴は一瞬だけためらった。
夜、池の水面に映る花火を見上げながら、真琴は幼い頃の記憶を手繰り寄せていた。
そのとき、視線の端で何かが動いた。
暗い水面に、白く細いものが浮かんでいる。……それは、人の手だった。
小さな手が、こちらに向かってゆっくりと──招いていた。